暗がりの中で闇は続き、点々と灯る非常灯だけが寒々しい。  新宿都庁舎は今、不気味な静寂の中で魔宮と化していた。  慎重に進むトゥリフィリは、両手に握った二丁拳銃へと神経を張り巡らせる。だが、彼女の武器はまだ一度も銃声を歌っていなかった。  先程から何度も、異形の殺意に襲われているにもかかわらずだ。 「うー、あれがマモノ……本当にオバケか妖怪だよ」  月次な女の子の言葉しか出てこない。  元よりトゥリフィリは、どこにでもいる普通の女子高生だったから。人よりちょっと身体能力に優れた、まだ十六歳の少女なのだから。  だが、その先を歩く人は違う。  並み居るマモノを一刀のもとに斬り伏せる、美しき修羅。  その戦いはバケモノじみているのに、息を飲むほどに美しい。  剣舞という表現は、彼女のために存在するのではと思うほどだ。  長い黒髪を翻し、その少女はトゥリフィリを振り返る。 「トゥリフィリさん、先に進みましょう。……随分、マモノの跳梁を許してしまいました」 「は、はい……あのっ!」 「大丈夫ですよ、安心してください。トゥリフィリさんは私がお守りします。さあ」 「はあ……その、どうも。キリコ、さん」  彼女の名はキリコ。  神代の太古から脈々と血を継いできた、凶祓いの一族の少女だ。魔を滅して邪悪を討つ、羽々斬の巫女……天ノ羽々宮と呼ばれた家の次期当主である。  その力はまさしく、鎧袖一触。  トゥリフィリが照準を合わせる全ての敵意が、流血すら許されず屠られる。  そして、キリコは全く力を振るってる様子を見せない。  恐らく、まだかなりセーブして戦っている。  それがわかるくらいには、トゥリフィリの洞察力と観察眼は鍛えられていた。 「あの、キリコさん!」 「はい。なんでしょう、トゥリフィリさん」 「ぼくも……少し、お手伝いしたい、です。その、一人だと危ないし」 「まあ。ふふ、私はトゥリフィリさんに助けられてますよ? 後を気にする必要がないというのは、普段は全く経験したことがない安心感です。あなたがいてくれて、とても嬉しい」  思わずドキリとするようなことを、キリコは微笑み言葉にする。  その美貌に、トゥリフィリはついポーッと頬を赤らめた。  だが、縛った蓬髪をブンブン揺らして首を横に振る。 「フォローできてると、いいけど、でも。キリコさんばっかり戦わせていられないよ!」 「あら……ありがとうございます、トゥリフィリさん。しかし、私は675代目羽々斬の巫女、キリコの名を継ぐ者。日ノ本と世界の民を守り、誰よりも先に立って戦わねばなりません」 「そう、かもしれない、けど。でも……今、ぼくとキリコさんとはチームなんだよ?」 「チーム……?」  キリコは不思議そうな顔をした。  きっと、この人は今までずっと一人で……独りで戦ってきたのだ。  それがトゥリフィリにはわかった。  真実のほどはともかく、そう感じられた。  先祖代々の防人として、歴史の影で闇を誅してきたのだ。  だが、今はトゥリフィリがいる。  寄り添いたい、支えたい。  この場が自分の力を誇示してアピールする選抜試験でも、目の前の少女のために力を使いたかった。それがチームワークだと、トゥリフィリは思う。少なくとも、両親が教えてくれたのはそういう力だ。  だが、キリコは慈愛に満ちた微笑みを返してくる。  それはトゥリフィリには、どこか寂しげな表情に見えた。 「チーム……いいですね。嬉しいです。私とトゥリフィリさんは、チーム」 「うん。だから、バックアップだけじゃなく、ぼくもオフェンシブに動けるよ。そうすれば、キリコさんはもっと脚を使って切り込めるよね? ……ずっと、ぼくを守ってくれてたよね」 「気付いてたんですね。ふふ、私もまだまだです。母様の足元にも及ばない。では、トゥリフィリさん。一緒に戦いましょう……先程から見えない敵が気になっていました」 「見えない、敵?」 「聴こえませんか? じっと動かず、唸るような声を殺して潜む敵……こっちです!」  キリコは走り出した。  先程よりは加減を抑えたようだが、まだ全力ではない。  それでも、全力疾走するトゥリフィリはじりじりと離される。だが、食らいついて走り、キリコの行く手を遮るマモノへと牽制の銃弾を放ち続けた。  走りながらの射撃は、命中率が格段に落ちる。  だが、急所を狙わなくてもいいのだ。  当てることは可能だが、それも無理をしなくていい。  キリコという刃が閃く、その道筋を作ることに徹する。  あっという間にマモノの死体が宙を巻い、背後に消えてゆく。恐らく物理的には、マモノという存在は魑魅魍魎……現実世界では不安定で不確定な存在なのかもしれない。息絶えたマモノはそのまま溶け消えて見えなくなった。  そして、キリコは廊下の角を曲がって立ち止まる。 「トゥリフィリさん、これです。面妖な……あら? 機械、ですか? これは……?」  剣を構えたキリコが、固まった。  どうやら彼女の鋭敏な聴覚が察知したマモノは、その正体は目の前の機械らしい。  トゥリフィリにはそれが、闇夜に唸って明かりを灯す自動販売機に見えた。 「あ、キリコさん……これ、自販機みたいだけど。キリコさん?」 「まあ……では、これがもしや自動販売機という機械ですか?」 「もしやもなにも、自動販売機です……」 「これが、自動販売機。そう、これが……ふふ、本で読んだ通りですね。本当に誰もいないのに、飲み物を売ってます。この、明かりの中に並んでるものが買えるんですね?」 「え……あの、キリコさん。自販機は」 「初めて見ました。そう、これが弟の言ってた自動販売機……なんだか、とても綺麗」  明かりの中に、カラフルな缶やビンが並ぶ。それは、闇が蠢く魔窟と化した都庁の中でも、静かなモーター音を響かせ稼働していた。  そして、それを見て瞳を輝かせるキリコの表情があどけない。  どうやら本当に自動販売機を見たことがないようだ。 「え、キリコさん。学校とかにない? 自販機」 「学校……その、行ったことがないので」 「あ、ご、ごめん!」 「いえ……それよりトゥリフィリさん。これは……自動販売機というのは、どうやって」 「えっと、ここにお金を入れるんだけど。どれも百円だね、この自販機」 「では、試してみましょう。……え、ええ、水分補給は戦いには欠かせませんから」  その時初めて、トゥリフィリはキリコの素顔を見た気がした。真顔で真剣さを滲ませているのに、浮かれた好奇心が隠せていない。そんな顔だけは、どこにでもいる年上の少女に見えた。  だが、財布を出した彼女は固まってしまう。  見れば、カードが数枚しか財布には入っていない。少ない紙幣も全て一万円札だ。  あ、という顔をしたキリコは、少し残念そうに眉を潜めた。 「カードは……使えないん、ですね」 「あ、でもキリコさん。これ、携帯に対応してるよ。お財布携帯なら」 「携帯? ……携帯電話、持ったことがないんです」 「おおう……ちょ、ちょっと待ってね! えっと」  トゥリフィリが携帯電話を押し当てると、自動販売機にランプが並んで点灯した。並ぶ飲み物の全てが、自分を選んで、自分を飲んでとボタンを光らせる。  それを見たキリコの笑顔が、トゥリフィリにはなによりも眩しかった。 「どうぞ、キリコさん。ボタンを押すと、その飲み物がでてくるんです」 「凄いです……凄いですね、トゥリフィリさん!」 「ふふ、凄いんです。ぼくじゃなくて、自販機が。さ、好きな飲物を選んで。ぼくも喉が乾いちゃったし」 「はいっ! では……あの、コーラという炭酸の入った飲み物があると聞いたのですが……ああ、これですね! こっちのは、まあ、珈琲もあるんですか。……コーラというのを、試してみます!」  キリコが白く綺麗な指でボタンに触れる。  ガタン! と落ちてきた飲み物を、トゥリフィリは屈んで取ってやった。  それを手にしたキリコは、大事そうに両手で握って瞳を輝かせました。 「凄いですね、冷たいです! ああ、戦いの疲れが溶けるよう」 「冬なんかは暖かい飲み物も出るんだよ? ぼくもコーラにしようかな……あ、あれ?」 「はい?」 「……開け方、わからない? ……よね」 「ええ! これは、どうすれば中のコーラが出てくるのでしょうか」 「んと、ここのプルを……そう、それを引き上げて、また折って、そう」 「まあ……これが噂の缶ジュースというものなのですね。コーラ、なんですね」  一口飲んでキリコは目を丸くして、驚いたあとに笑った。 「美味しい……冷たくて、甘くて、炭酸が口の中で弾けます。こんなの、初めて」 「ふふ、大げさだなあ」 「……私、家からあまり出ませんから。一人で外出したこともありませんし」 「そ、そうなの!?」 「ええ。だから、今日はなにもかもが初めて。ふふ、年の近い女の子と話すのも、本当に何年ぶりでしょう。今日はありがとうございます、トゥリフィリさん」 「ううん、ぼくこそ! 仲間だもん、当然だよ」 「仲間? 私が、トゥリフィリさんの……仲間」 「そだよ? キリコさんとぼくとは、今だけかもしれないけどチームなんだもん。仲間だし、助け合うから友達になってなれるよ」 「友達! ……そういうの、初めてです。あの、私の家のことは」 「んー? なんか、よく知らないけど。でも、キリコさんと家とは、ぼくにはあんまし関係ないし」  自分でも冷たいコーラを買って、それを喉を鳴らして飲む。一息ついて、糖分が疲れた身体に心地いい。キリコもお行儀よく上品に、少しずつコーラを飲んだ。  そして、彼女は突然不思議なことを言い出した。 「あの、じゃあ……トゥリフィリさん。友達に、なってもらえ、ますか?」 「ん? ああ、とっくに! これからもよろしく、キリコさん」 「……サキ、です」 「へ?」 「羽々宮裂、それが本当の私の名前。キリコは一族の女子が継ぐ忌み名なんです」 「あー、なるる。じゃあ、サキさん。行こっか」 「はいっ! ああ、これがお友達なんですね、仲間なんですね。……今、私は一人じゃないんですね。なんだか、とても心が軽やかです。こんな気持ちで戦えるなんて」  頬を染めて微笑むキリコは、サキという名の素顔を見せてくれた。  そして再び二人は闇の中を進み出す。  その先に今、過去な知れんが松イケてるとも知らずに。  ただ、トゥリフィリは年上のかわいらしい少女を仲間と思って、友達だと確認したから気合は十分だった。それでも……運命は残酷な分岐点へと、二人を誘って暗闇の中に沈んでいた。