あれからどれくらいの時間が経っただろう?  闇の中で意識を彷徨わせるトゥリフィリは、まどろみの中を泳いでいた。  真下へ浮かぶような、真上へ堕ちるような感覚。  その中でようやく、覚醒の光に目覚める。  瞼を開ければ、そこには見知らぬ天井が広がっていた。 「……あれ? ぼくは、ええと……ここは? え?」  白いシーツと、白いカーテン。僅かに香る消毒液の匂い。周囲を見渡すと、殺風景な白い壁がトゥリフィリを囲んでいた。  そして、枕元の椅子に一人の少女が座っている。  どうやら拳銃の手入れをしているようだ。  鼻歌交じりで手を動かす彼女は、トゥリフィリの視線に気付いて振り返った。僅かに赤みがかったツインテールが、静かに揺れて明かりに艶めく。 「おん? 気付いた? わはは、運の太いやっちゃなー」 「ど、どうも。あの、ここは」 「地下シェルター。本当は偉い政治家さんとか、そういう類の人が逃げ込む施設らしいけどね。ま、早い者勝ちってことで。あ、まだ起きない方がいいよ? 寝てて寝てて」  けだるい身体でトゥリフィリは身を起こす。  全身は鈍い痛みに包まれているが、目立った外傷はなかった。両親に小さな頃から適度に鍛えられ、自分でも最低限の訓練をしていたトゥリフィリにはわかる。瞬時に自分のコンディションを把握し、まだまだ疲労が蓄積していることだけが感じられた。  目の前の少女は少し驚いたように、口元をにんまりと緩める。 「あれだけ動いて派手に暴れて、一週間寝っぱなし……ど? 疲れ、取れた?」 「ん、あんまし……って、一週間!?」 「そ、一週間。人類が滅ぶには、十分な時間だったかもしれないけどね」 「人類が……滅ぶ? まさか」 「そのまさかなの。見たっしょ? すんごい竜の大群を」  ようやくトゥリフィリの思考がクリアになってゆく。  自分はあの日、あの夜、新宿の都庁にいた。極秘裏に行われた、ムラクモ機関なる組織の選抜試験を受けていたのだ。そこで、自分がS級能力者と呼ばれる特異体質だと知ったのだ。  トゥリフィリが持って生まれた力、それは俊敏性Sランク。  自分でも天性の運動センスは理解していたが、それは両親との日々がもたらしたものだと思っていた。鍛えてもらえたから、ちょっぴり人よりラッキーだった。そう思っていたのだ。  トゥリフィリが驚き目を丸くする前で、少女は語る。 「あたしはチサキ、五百雀千咲。能力は……まあ、あんたと一緒でいいか。あたしたちみたいな俊敏性と瞬発力に優れた人間は、トリックスターとして期待されてる」 「トリックスター?」 「持ち前の脚で、戦場をかき乱す! 敵を混乱させ、朝のように舞い蜂のように刺す! なんてね」  おどけて笑うチサキは、奇妙な少女だった。  彼女のせいで、トゥリフィリは現実的な危機感を得られない。  だが、チサキは確かに言った。  人類が滅ぶと。 「それより、外は」 「んー、皆殺し? ほとんど喰われちゃってると思う。竜はね、トリフィリ……人を食べる。あらゆる生命を貪るんだ。貪欲に、執拗に、徹底的に」 「それじゃあ……」 「この一週間、地下シェルターの外でなにが起こっているかはよくわからない。唯一わかることは……世界が終わろうとしていること。また、滅竜の輪廻が回り始めたってこと」  煙にまくような言葉で、チサキは肩を竦めた。  彼女の言葉に目を瞬かせていると、トゥリフィリのベッドを周囲から閉ざしていたカーテンが、静かに開かれる。  そこには、美貌の麗人が立っていた。  目も覚めるような美しさとはこのことで、整った顔立ちは異国の風情を感じる。露出の激しいくだけた服装さえ、危険な魅力を発散するためのドレスに思えた。彼女は手に、日本刀を持っている。  それでトゥリフィリは、一人の少女を思い出した。  チサキは椅子から立ち上がると、玲瓏なる女剣士を出迎えた。 「お疲れ、エジー。あ、紹介するねん? この人、エグランティエ。エロヤバのこわーいお姉さんだよっ!ね、エジー」 「エロはともかく、ヤバいとは失敬な」 「はは、ごめんごめん。でも、日本じゃ『ヤバい』は褒め言葉だよ?」 「……そうだったのかい。サムライの国、やはり深い。つくづく惜しいことをした。こんな天変地異でなければ、ナラやキョートにも行けたんだが」  どうやらエグランティエは外国人、そして観光かなにかで日本に来たらしい。  そして、彼女の言葉で改めてトゥリフィリは思い知らされる。  やはり夢ではなかった。  あの夜の記憶は本物で、ここはその悪夢から地続きの現実だ。  東京は……否、世界は竜に襲われたのだ。  おずおずとトゥリフィリは、恐る恐る尋ねる。 「あの……サキさん、ううん……キリコさんは」 「あー、羽々宮の? とっくに死体は持ってかれちゃったよん?」 「えっ!? だ、誰が」 「こわーい黒服の人たちが来てね。羽々斬の巫女とか天ノ羽々宮だとか、胡散臭いよねえ」  それだけ言うと、エグランティアの「交代するよ」の声で、挨拶もそこそこにチサキは出てゆく。エグランティアは代わって椅子に座ると、静かに表情を和らげた。  攻めたファッションは露出も顕で、エグランティアの豊満にして洗練された肉体美を惜しげもなく晒している。だが、微笑む彼女からは真っ先に、人のぬくもりが伝わった。 「大変だったな、トゥリフィリ。ああ、そう読んでいいかい?」 「は、はい」 「わたしのこともエジーでいい。よろしく、トゥリフィリ」 「う、うん」  エグランティアはかいつまんで、今までの敬意を説明してくれた。  チサキが言った通り、東京は突如現れた無数の竜に蹂躙された。  ――竜、すなわちドラゴン。  伝説や神話にある、鏡台な力の権化。あるいは、悪魔の象徴。人類史のあらゆる時間軸に痕跡を残す、最もポピュラーなファンタジーのモンスターだ。  そして、今のトゥリフィリを取り巻く環境は、娯楽の創作物ではない。  誰もが生きている現実なのだ。 「あっという間に世界中が竜に飲み込まれたのさ。ここからも総長のナツメやキリノが連絡を取ろうとしたが……国会も自衛隊も応答がない。この場所に逃げ込めたのも、僅かな人間だけだよ」 「そんな……じゃあ」 「ま、わたしにはまだピンとこないんだけどね。そして、自分で納得してしまわない限り、今が絶望だとも思ってない。ふふ、妙な話だねえ……これが覚悟ってやつだろうか」 「エジーさん」 「さん、はいらないよ。どれ、お腹は減ってないかい? 少し、食べるものを調達してくるよ。大したものはないんだけど、ないよりはマシだし」  椅子を立つと、エグランティエはトゥリフィリの頭をなでてくれた。  ベッドの上に座って、黙って手の平の体温に安心を拾うしかできない。  今でも、遅い来る竜の殺気、獰猛な声を覚えている。  吼え荒ぶ殺意の渦中で、トゥリフィリは無我夢中だった。  そして、思い出す。  そんな絶体絶命な中で、自分たちを助けてくれた者の存在を。  慌ててトゥリフィリは、出てゆこうとするエグランティエを引き止める。 「あっ、あの! 男の子……ぼくを助けてくれた少年のこと、知りませんか?」 「少年? ああ、ええと」 「詰め襟の学生服を着てました。多分、同じ試験を受けた人だと思うんです。凄い力だった。そして、冷たいまでに透き通った目」 「ふふ、じゃあ……歩けるかい? 自分から礼を言うといい。案内するよ」  頷いてトゥリフィリはベッドを抜け出した。  足元にあった靴をはき、少し強めに紐を結ぶ。  一週間先の未来へと突然目覚めたトゥリフィリは、まるで浦島太郎の気分だ。そして、空白の一週間で様変わりした世界が彼女を迎える。  大勢の怪我人がいる医務室を出ると、殺風景な地下施設が広がっていた。  薄暗い中に、等間隔でぶら下がった証明が不安定に明滅を繰り返している。 「こっとだよ、トゥリフィリ。彼に会っても驚かないでくれるか?」 「え? あ、うん……とこか、悪いの? 怪我とか」 「良くはないのさ、調子がね」  そう言ってエグランティエは歩き出す。見心地の良い長身を追って、トゥリフィリもそのあとに続いた。  地下の回廊はあちこちで、うずくまる怪我人や避難民がうなだれていた。  絶望を敷き詰めた道の先に……大きなドアが待っていた。  銃を持った大人たちが警護する、その先に進んで……さらに次の部屋に入ってトゥリフィリは絶句することになる。  衝撃の再会、二人の関係は沈黙でもって再開を宣言されるのだった。