都庁では今、ようやく安住の地を得た都民達がにわかに活気付いていた。  誰もがボランティアに精を出し、助け合って居住区を確保し始める。食料も水も満足にはなかったが、電力が確保されて文明の火が灯ると誰もが笑顔になる。  トゥリフィリもムラクモ13班の班長として、忙しく働いていた。  そして、ようやく作れた時間で居住区の片隅へと足を運ぶ。  そんな彼女のあとを、ナガミツはぬぼーっとついてきた。相変わらず感情らしい感情も浮かべず、平坦な表情に平坦な声。それでも彼は、トゥリフィリが管理する備品だと自分を定義してついてくるのだ。 「……班長、少し休んだ方がいい。休息が必要だ。せっかくの自由時間なんだからな」 「自由時間なら、自由にぼくが使っていいってことじゃない? 違う?」 「違わねえけどよ」  居住区の賑わいは平和に見えて、疲れたトゥリフィリの心を和ませる。  だが、避難民達は確実に心をすり減らし、一部の人達は立ち直れずにいた。  ある場所を目指して歩く今も、それを目にしてトゥリフィリは心が痛む。  廊下の片隅に座して、膝を抱えて動かない老人。  自動販売機に向かって、ずっとなにかを呟き続ける女。  見知らぬ神への祈りを謳い、未開かれた瞳を濁らせる青年。  誰もが皆、傷付いていた。  それでも、たったひとつの命を生きながらえている。  ならば、トゥリフィリがやらなければいけないことは一つ、明確だ。そして、その挑戦を再び始める前に……彼女にはどうしても、会わなければいけない人がいた。  総長のナツメがくれたメモに記された部屋を訪れると、突然小さな影が飛び出してくる。 「えっと、ここだ……わっ!? とっ、とと」  トゥリフィリの横を掠めて走るのは、小さな子供達だ。年端も逝かぬ男の子が数人、歓声をあげて廊下の向こうへと消えてゆく。  まだあどけない、無邪気な幼子だ。  それを見送り、改めてトゥリフィリは部屋のへと入る。  ドアなどない、資材が足りなくて片っ端からアレコレと供出させられているのだ。 「こんにちは、失礼します。えっと……ナガレさんの奥様はこちらでしょうか」  ――ナガレ。  ガトウ班ことムラクモ10班に所属していた、S級能力者。トゥリフィリ達を庇って死んだ男だ。トゥリフィリは今になって、ナガレという名前が彼の名字だったことを知った。そして、家族が妻一人だということも。  沢山の子供達が遊ぶ保育園のような一室で、一人の女声が振り返った。  少し疲れた顔をしていたが、とても綺麗な女性だ。  だが、頬は少しこけて目の下にもくまが出来ている。 「あら? あなたは」 「突然ごめんなさいっ! ムラクモ13班の班長、トゥリフィリっていいます」  ムラクモの名を出した瞬間、夫人はビクリと身を震わせた。  だが、次の瞬間には優しい笑顔になる。  それは、どこまでも慈愛と悲哀に満ちた寂しげな笑みだった。 「そう、ムラクモ機関の。お疲れ様です……主人がお世話になりました。さ、入って頂戴。なにもないのだけど、お茶くらい飲んでいって頂戴ね」 「あ、いえ……すみません。あと……お世話になたの、ぼくの方なんです」  言葉に詰まった。  トゥリフィリは両の拳を握り締め、床の一点をじっと見詰める。  熱く重くなってゆく瞳の奥から、雫を零さぬように己を律する。  泣いてはいけない。  絶対に駄目だ。  泣きたいのは、本当に泣きたいのは自分ではないから。  だが、なにかを言えば泣いてしまいそうで、トゥリフィリは沈黙を広げるしか出来ない。  そんな時、突然背後で声がした。 「ナガレのおっさんは、優れた戦士だった。戦って死んだ。全く無駄のない動き、的確な判断、そしてそれを実行するメンタルを持っていた。そう記録されてる……」  ナガミツの声は抑揚に欠く、いつものぶっきらぼうな言葉だった。  思わずトゥリフィリが振り返ると、無表情が淡々と喋り続ける。 「有用な戦力で、戦死は組織の大きな損失だ。だが、ナガレの身を挺した行動が――」 「ナガミツちゃん! 駄目ッ! ……そういう言い方は、駄目だよ。ナガレさんは、力だけがナガレさんじゃなかったんだから。短い時間だったけど、仲間だったんだよ?」 「班長? 俺は、データを正確に」 「数字じゃない、文字列なんかじゃないんだ。ナガミツちゃんだって、そうでしょ?」  ナガミツは僅かに表情を歪めて沈黙した。  そのままバリボリと髪を掻き毟りながら目を逸らす。  ナガミツを間近に見上げていたトゥリフィリは、不意に背後から抱き締められた。肩越しに振り返れば、夫人の優しい顔があった。 「ありがとう、二人共。辛かったでしょう? こんな若い子が……そっちの子も、ありがとう。あの人、ちゃんと自分のなすべきことのために生きたのね」 「あ、あのっ! ごめんなさい、今のは……ごめんなさい。ぼくがもっと……ごめんなさい」 「謝らないで、ね? 私は大丈夫、あの人はいなくなってしまったけど……ふふ、沢山やるべきことを遺してくれたから。私も、なすべきことのために少し生きてみる。それって、あの人と同じってことよ? ね」  トゥリフィリは言の葉が紡げなかった。  ただ、じんわり温かい夫人の体温が優しくて、その慈母のような優しさが辛かった。  そして、やっぱり泣いては駄目だと唇を噛む。  本当に泣きたい人の笑顔を間近に感じて、じっと耐える。  トゥリフィリの髪を優しくなでて、夫人はそっと離れた。 「私はここで子供達の面倒を見ることにしたの。……親を失った子が、沢山いるのよ。ふふ、私とあの人は子供に恵まれなかったけど……不思議ね。今、こうして沢山の笑顔に囲まれてる。守らなきゃいけないなって思ったのよ?」 「……ぼく、ぼくっ! ぼくも守ります! ぼくもまた、ナガレさんに守られたから」  辛うじてそれだけ、喉の奥から絞り出した。  自分の決意も覚悟も、全部詰め込んで叫ぶように呟いた。  そんなトゥリフィリに、夫人は言葉をかけてくれた。 「ええと、あなた……お名前は?」 「あ、えと、トゥリフィリ、です」 「そう、トゥリフィリさん。お願いだから、あの人みたいにはならないでね? あの人のために戦っては駄目……あなたもまた、あの人が私に遺してくれた人なんだから」 「……はい」 「この天変地異は、私からあの人を奪った……でも、私はなにも失ってなんかいないわ。失ってやらない。だから、戦うなら自分のために……あの人の遺してくれたもののために。いいかしら? そっちのあなたも」  トゥリフィリは夫人を強い人だと思った。  そして、すぐにその考えを引っ込める。  強い人間などいない。人間は小さくて弱くて、それは誰だって同じ。ただ、夫人は強くなったのだ。ナガレが死んだことで、強くあらねばならなくなったのかもしれない。  それは、悲しいことだ。  そう思っていると、背後で低い声が野太く響いた。 「おう、お前らも来てたか。……少しやせたなあ、あんた」  振り返ると、ガトウが立っていた。  今日は心なしか、小さく見える。  不敵な笑みもなく、ただ真面目に作った表情が夫人に向けられている。  しばしの沈黙のあと、彼は目を逸らしつつ口を開いた。 「……すまん、俺の責だ。約束、破っちまったな……あんたに必ず、奴を連れて帰る。いつもそう、約束した。ずっと、約束してた」 「ガトウさん。……私は大丈夫です。だから、ありがとうございます。そしていつか……ありがとうございましたと言わせて下さい。今はまだ、その時ではないから」 「ああ……奴は、ナガレは……相棒だった。奴がいてくれたから、俺は」  トゥリフィリは黙って一礼すると、ナガミツの袖を掴んで場を辞した。ナガミツはきょとんとしながらも引っ張られるままに歩く。  二人の背中は少し離れて、嗚咽に泣き崩れる夫人の声を聴いた。  強い人間など、やはりいない。  人間は皆、等しく弱い。  だから、突然現れたドラゴンに蹂躙され、鏖殺された。  でも、トゥリフィリは誓う。  弱いままで終われないから……それだけの理由を今、胸に刻んだから。  弱いままでいい人を守るため、強くなろうと心に決めた。  それでも、耳の奥にずっと……夫人の泣く声がいつまでも残り続けた。