巨大な月が降ってくる。  頭上に今、落ちてくる。  そしてトゥリフィリは悟った。ようやく理解したのだ。  既にもう、最初からこの迷宮の帝竜はいたのだ。  この変貌した四谷、常夜の丘をずっと見ていた。 「ナガミツちゃん! キリちゃん! やるよ……やっつけちゃおう!」  瘴気と魔素の奔流が、羽撃く翼の風圧で叩きつけられる。  不快な冷たさの中で、トゥリフィリは銃を構えて敵を睨んだ。  画像をキリノ達へと送るナガミツが、倒すべき敵の名を教えてくれた。 「帝竜、確認……以後、撃破対象をロア=ア=ルアと呼称する」 「なんか、綺麗な名前なんだ……変なの」  キリコも剣を居合に構えて「韻を踏んでる」と呟いた。  舞い降りるのは、歌を詠み楽にまどろむ優雅な貴婦人……太古の姫君を思わせる荘厳なドラゴンだ。だが、その不気味なまでの美しさは、死に彩られている。  トゥリフィリは決して惑わされない。  この帝竜は、多くの人間を惑わし、死者さえ辱めたのだ。  その所業は、決して許す訳にはいかなかった。 「っし、俺が正面に立つ。わかってんだろうな、キリ」 「私は脚を使って撹乱、隙を見て一気に切り込む!」 「そういうこった。へっ、仕事は真逆だ、そっちもよろしくやれや」 「ナガミツこそ、ヘマするなよ?」  以前よりもずっと、ナガミツとキリコの協調性は強くなっている。  偉大な先達の喪失を共有して、それを互いに刻み合ったからだ。その痛みは今も、トゥリフィリの心の中に燃えている。灼け付くように痛く、一瞬たりとも忘れられない。そして、未来永劫忘れないだろう。  それでも、竜と戦いみんなを守ることで、痛みさえも愛おしく思える。  去ってしまった大事な人が、いいから前を向け、今だけを見ろと言ってくれるのだ。  帝竜ロア=ア=ルアの絶叫と同時に、三人は身構え戦闘へと突入した。 「ナガミツちゃん、鉄壁防御! 受けて、流して、さばいて、そして打つ!」 「任せな、フィー」 「キリちゃんはシャンスを見逃さないで……ここぞと極めたらザックリ行って!」 「わかった、トゥリねえ!」  真っ赤な爪が闇夜を裂く。  薙ぎ払われる夜気の中で、トゥリフィリは転げ回りながら銃撃を開始した。交互に歌う二丁拳銃が、次々と空薬莢を宙へ踊らせる。  鉄火場と化した決戦場の中を、ロア=ア=ルアの翼が舞う。  見る者を魅了するかのように、妖しく揺らめき華麗に踊る。  身体の中に不協和音を流し込まれるような、世界が自分とずれてゆくような錯覚をトゥリフィリは感じた。だが、ナガミツもキリコも動じず自分の仕事に徹している。  静のナガミツ、動のキリコ……二人を繋ぐチャンスメーカー、それがトゥリフィリだ。 「気をつけて、なにか変な攻撃を受けてる。もう攻撃が始まってる、けど……なんだろ、これ!」  不快感が増す。  背筋に浮かぶ汗の冷たさが、骨の髄まで染みてくる。  既にロア=ア=ルアは、なにかをしかけてきている。それはわかるが、どんな攻撃なのかが不明だ。こちらを翻弄するように舞い踊り、爪と牙とが降り注ぐ。  その中で次第に、トゥリフィリの視界が狭くなっていった。  気付いた時にはもう、月を失った夜の闇がモノクロームに沈んでゆく。 「……しまった! 視覚を? さっきから妙な感覚……変だ、なんだか」  体調が急変して、急激に視力が弱くなってゆく。  最後には、トゥリフィリは周囲の距離感もわからない闇に落とされていた。  だが、そんな中でも相棒の声がはっきりと聴こえる。 「フィー、音だ。人間には聴こえない領域の音波が、神経中枢に作用している。けど……俺とキリには関係ねえっ!」  咄嗟に手探りでポーチをあけて、中から医薬品を取り出す。使い切りの目薬、ブラネルを浴びるように顔へとふりかけた。  徐々に視界が戻る中で、目撃する。  ナガミツは、視界を奪って余裕のロア=ア=ルアへ、逆襲の一撃を叩き込んでいた。  悲鳴が響いて、身の毛もよだつような金切り声が空気を震わす。  ロア=ア=ルアは、ナガミツが全力で振り抜いたアッパーカットで巨体を捻じ曲げていた。そのままのたうつように地面に落ちれば、容赦なくナガミツが追撃の正拳突きをお見舞いする。  くっきりとナガミツの拳の形が残る程に、深々と痛撃が突き刺さった。  そして、ロア=ア=ルアが脚を止めた瞬間をキリコが見逃さない。 「日ノ本を守って数千年……既に心眼は開いている! これがっ、羽々斬のっ! 剣だ!」  キリコが疾駆し、払い抜ける。  神速の居合が、抜刀と同時に鮮血の赤を振りまいた。  ワンテンポ遅れて、周囲の風が吹き荒れる。  激昂に暴れながらも、ロア=ア=ルア己の血に濡れて暴れる。 「畳み掛けるよ、二人共!」  追い詰められたロア=ア=ルアもまた、最後の飛翔で血煙に舞う。  霧状に空気を汚す鮮血が、奇妙な挙動の中で拡散されていった。  明らかにロア=ア=ルアは、死力を振り絞って外敵を排除しようとしている。しかし、それは竜災害に立ち向かうトゥリフィリ達だって同じだ。  もしかしたらドラゴンは、ただの人類の天敵なのかもしれない。  万物の霊長などと言われていた人類に、自然界が送り込んだ摂理の代行者……全ての生物が食物連鎖の中で上下を持つように、新たなヒエラルキーが再構築されたとも言える。  だが、人間には意思があって、それは本能が中心の動物とは違う。  どんな不条理、理不尽に対しても意思の力が抗い立ち向かう、それが人間を人間たらしめる力なのだ。 「こいつで終わりだっ、沈めっ! ――っ!? なんだ? くっ、機動力が上がった?」 「気をつけろ、ナガミツッ! 追い詰められてスピードが増してる、不用意な攻撃は――」  ロア=ア=ルアはナガミツの蹴りを空中で避けるや、カウンターで彼を大地へ叩き落とす。その隙に飛翔したキリコの斬撃も、揺らめく翼を掠めて空を切った。次の瞬間、セーラー服姿の矮躯が壁へと大穴を穿つ。  突然、ロア=ア=ルアの動きがよくなった……極限の戦いで研ぎ澄まされてきた。  避けつつの反撃に、トゥリフィリの放つ弾丸も当たらない。  そればかりか、ロア=ア=ルアの攻撃を避けるために、どんどん手数が削られていった。 「当たらない……ならっ!」 「フィー、こうなりゃ零距離、肉薄して……掴んで殴る!」 「なら、私がそこにトドメを! 残る全ての力で、一点を突破するんだっ」  三人の気持ちが、一方通行の言葉が行き交う中で一つになる。  トゥリフィリは銃を両手で持ち変えると、片膝をついて慎重に狙いをつける。エイミングショット、必殺必中の一撃が燻る消炎に吼えた。  狙いすました狙撃がヒットし、ロア=ア=ルアが一瞬脚を止める。  その時にはもう、ジャンプしたナガミツが頭部に張り付く。  彼は真っ赤な頭部の角を握り締め、もう片方の手を振りかぶった。 「よくも人様のことを弄んでくれたな……こいつは、おっさんの分だ」  フルスイングの鉄拳が、ロア=ア=ルアの片目を潰した。  相手を掴んで密着すれば、回避のしようがない。  そして、ナガミツが最後にロア=ア=ルアの巨体を蹴り落とす。  そこにはもう、青眼に構えたキリコの刃が待ち受けていた。 「乾坤一擲……閃ッ!」  翻る白刃が、偽りの月光を両断する。  断末魔の叫びと共に、真っ二つになるロア=ア=ルアが墜落した。  巻き上がる土煙が晴れると……そこには、ようやく姿を現した本物の月が、トゥリフィリ達三人の戦士を柔らかな光で照らしているのだった。