トゥリフィリは不思議な感覚の中で、ふと意識を取り戻した。  気付けば、ここは学校だ。  既にホームルームが終わったのか、周囲のクラスメイト達はめいめいに帰宅を始めている。放課後のおしゃべりを続ける者も、部活へ繰り出す者も笑顔だ。  だが、そこに見知った顔がない。 「あれ……ここは? 学校、だけど」  よく知るトゥリフィリの母校、通っていた高校だ。  自分の教室で、自分の机に座っている。  教室の古びた天井も、ちょっと傾いた掃除用具入れのロッカーも見覚えがある。それなのに、周囲を流れてゆく人影は誰もわからない。皆が笑顔で楽しげだが、その喜びすら伝わってこない気がした。  そんな時、背後からポスンと頭を叩かれた。  振り向くと、日直の日誌を持ったナガミツが立っている。  いつもの詰め襟姿ではない。  トゥリフィリが通っている学校の征服だ。 「おいおい、フィー? ボケてるなよ。ほら、日誌」 「あ、うん、えっと……」 「俺達が日直だろうが。さっさと職員室に放り込んで帰ろうぜ?」 「え……そ、そう、だね」  なにか、違和感がある。  だが、ナガミツはどこか優しげにフンと鼻で笑った。  そして、さも当然のようにトゥリフィリの手を握ってくる。  ビクリ! と驚きに身体が震えた。  心臓が跳ね上がるのに合わせて、椅子から立ち上がってしまった。  暖かくて大きな手が、そのままトゥリフィリを引っ張る。 「行こうぜ、フィー」 「ちょ、ちょっと待って、待ってよ……ナガミツちゃん。もしかして、これ」  そう、気付き始めている。  なにかがおかしい。  輝くように眩しい日常、平穏で平和な営み。  その全てが今、違和感でトゥリフィリを包んでくる。  ナガミツはひやかすクラスメイト達と言葉を交わし、笑顔で歩いた。  初めて見るその表情は、まるで本物の人間、同世代の少年そのものだった。 「ん? どした、フィー」 「……わかった、これって」 「なんか変だぞ、お前。って、ヤベェ! うるせえのが来た!」  廊下を歩くトゥリフィリが立ち止まった、その時だった。  聞き慣れ始めた少女の声が、響き渡る。 「ナガミツ! また二人で、独り占めし合って……私も一緒に帰るっ!」  黒い髪の女の子が、両手を腰に当てての仁王立ちだ。  鼻息も荒く立ちはだかるのは、キリコだった。  やはり、セーラー服ではない。トゥリフィリの着ている制服と基本は同じだが、タイの色が違った。それを見て、やれやれとナガミツが顔を手で覆う。 「おうこら、キリ……中等部がホイホイこっちに入ってくんなよ」 「構うもんか! 私の家で出資している学校だぞ?」 「そーゆーの、やめろっていつも言ってるよな? お前自身が金出してる訳じゃねーんだからよ。ったく」 「とにかくっ! 私も一緒に帰る!」  大股でフンスフンスと歩み寄ってきたキリコが、繋いだ手と手を引き剥がした。だが、すぐに彼女はトゥリフィリの腕に抱き付き、そのままナガミツの腕を抱き寄せる。  以前からキリコは、トゥリフィリに変な懐き方をしていた。  トゥリねえと呼んで、亡き姉の面影を重ねてくるのだ。  それは、14歳の少年に異能の少女を詰め込まれたことで、不安定になった情緒と精神が無意識にそうさせるのだろう。危ういバランスの中で、男でも女でもなくなったまま……彼女はずっと、羽々斬の巫女という宿命を背負い続けているのだ。  そして、この時点でトゥリフィリははっきりと自覚した。  その瞬間、ぐんにゃりと周囲が歪んで色を失う。  どこまでも滲んでぼやける風景が、ナガミツとキリコの笑顔が遠ざかった。 「――っあ! ……ふう。やっぱり、夢だった」  目が覚めた時に見上げた、いつもの天井。  間違いなく、ムラクモ機関の人員が使っている区画、トゥリフィリの自室だ。ここは都庁、そして今は竜災害の中で人類は危機に瀕している。  それにしても、なんて夢を……思わず頬が火照った。  気恥ずかしさに震えて、思い出しても赤面する。  そんな状態だったので、不思議と頭が重くて思考が鈍る。  同じ部屋に自分を見守る視線があることも、その時は気付かなかった。 「目が覚めたか、フィー」 「ひゃっ!? え、あ、あれ、えと……ナガミツ、ちゃん? いつからそこに」 「……俺が運んだんだ。もう半日以上経ってる」 「半日……ん、ちょっと待って! ぼく達、四谷から戻ってから都庁のエントランスで」  記憶の糸を紐解き、丁寧にたぐってゆく。  確か、エントランスで四谷からの避難民を受け入れてる時……急な眠気に襲われた筈だ。そのことを告げると、深刻な表情でナガミツが頷く。  立ち尽くす彼の、固く握られた拳。  表情に乏しい、端正な顔立ち。  間違いない、人型戦闘機として造られた斬竜刀、ナガミツだ。  トゥリフィリのよく知る、本物のナガミツがそこにはいた。 「フィー、落ち着いて聞いてくれ。あの時突然、都庁で昏倒する人間が続出した」 「やっぱり……ドラゴンの、帝竜の攻撃なの?」 「わからない……今、目を覚ましたムラクモ機関の人間が、守りを固めている。キジトラ達もちょっと前から動き出してるし、今のところ異常は認められない」  だが、ノックの音が鳴り響いて、ナガミツはドアへと振り返る。  トゥリフィリはベッドから飛び起きて「どうぞ」と呼びかけた。少し手で髪を気にしながら、どうにもぼんやりとする頭の霧を振り払ってみる。パシパシと頬をはたいていると、セーラー服姿の少女が入ってきた。  キリコは、トゥリフィリの顔を見て少し安心したように溜息をついた。 「トゥリねえ、起きたんだ。よかった……あ! でも、さっきみんなと各フロアを確認して回ったんだ。死傷者も重症者もいない、けど」 「けど」 「かなり大規模な数の人間が、忽然と消えてしまった……どの居住区からも、避難民が痕跡を残さずいなくなってる」  キリコの言葉にトゥリフィリは、衝撃を受けた。  人類最後の砦たる都庁は、その中でだけは安心できるように心を砕いてきた。13班は他の班とも連携して、防衛力の強化と同時に、居住性の充実や避難民のストレス解消にも配慮してきたつもりだった。  だが、こんなにあっさりと大勢の人々を……言葉が出てこない。  そして、キリコの声も少しだけ震えていた。 「それと……ナツメ総長が見当たらないんだ」 「えっ? ナツメさんが!?」  ムラクモ機関の総長、ナツメもまた姿を消したという。  トゥリフィリは事態の重大さに震えが止まらなかった。  人類のささやかな抵抗さえ、謎の力で奪い去ってゆく……それが、自分たちが立ち向かっている、竜災害という名のバケモノなのだった。  戦慄に支配された都庁で、暫し呆然としてしまう。  だが、すぐにトゥリフィリは13班の班長として動き始めるのだった。