トゥリフィリは夢を見ていた。  スリーピーホロウの強力な幻覚攻撃が、彼女の意識を深層心理の海底へと沈めてゆく。そこは、普段の人格や精神が知らぬ己の深淵……誰もが抱えた心の闇だ。  トゥリフィリは忘れることすら思い出せぬまま、ただただ落ちてゆく。  そんな彼女を、どこか聴き慣れた声が揺さぶった。 「おーい、フィー? 寝てんのかよ、ったく」 「……ほえ? あ、あれ? えと」  気付けばトゥリフィリは、机の上に突っ伏して寝ていた。  そんな自分の頭を、長身の少年がぽすぽすとチョップで叩いてくる。端正な表情は整い過ぎてて、その完璧さが逆に美男子の印象からはやや遠い。冷淡で冷静な印象を与えてくるが、彼の言葉は飾らぬぶっきらぼうなものだった。 「帰ろうぜ。ホームルームも終わったしよ」 「あ、ああ、うん。えっと……ここ、学校? だよね。……ぼくの?」 「寝ぼけてんのか? ったくよ……あんまし寝不足にするのも考えもんだな」 「寝不足に、する……うーん、なんか……変な夢、見てた」  身を起こせば、周囲は平和そのものだ。  そして、自分はこんな学校に通ってただろうかと首を捻る。だが、確かに周囲の生徒達は、口々に「じゃあね、フィー」「あんま寝過ぎるなよ」などと笑っていた。  うららかな午後、温かい日差し、そして賑やかな級友達。  廊下を行き来する制服姿を見ても、ここが学校だということはよくわかった。  だが、どうして自分がここにいるのかがわからない。  そして、目の前で他の女子達と挨拶を交わす男子も、覚えているのに思い出せないのだ。 「えっと……ナガミツ、ちゃん?」 「おう。なんだぁ? お前、本当に大丈夫か?」 「う、うん。平気……だと、思う。ぼくは、トゥリフィリ。高校二年生」 「ああ。加えて言えば、俺の、かっ、かか、彼女だからな。忘れんなよ?」 「……へっ?」  ナガミツは僅かに頬を赤らめながら「言わせんなって」と、またポスポス頭を撫でるように叩く。  つまり、彼は自分の恋人だと言っているのだ。  そうだろうか、と思ったが、同時にそうなんだとも感じた。 「えっと、あのね、ナガミツちゃん。変な夢、見てたかも」 「へえ、どんなだ?」  とりあえず、鞄を手に立ち上がって廊下に出る。  長身のナガミツは、すぐ隣をトゥリフィリに合わせて歩いた。鞄を片手で肩に担いで、ほぼ真上から見下ろしてくる。おずおずと話すトゥリフィリの言葉に、彼は真剣に耳を傾けてくれていた。 「なんか、大災害があって、それで東京が壊滅しちゃって」 「SF映画の見過ぎだな、あれだろ? 隕石か? 地震? 地球が凍るとか、そういうの」 「ううん……竜。ドラゴンが攻めてきて、ぼくはナガミツちゃんと戦うの」 「……悪ぃ、ファンタジー映画の方だったか」 「あっ、信じてない!」 「そりゃそうだ。もっと女の子らしい夢を見ろよな。……俺がでてくるのは、でも、その、嬉しいけどよ」  先程まで、長い夢を見ていた。  そういうことになったんだと思えば、不思議と今の現実がすんなり自分に浸透してきた。そう、自分はこの中高一貫校で女子高生をやっているのだ。家に帰れば両親もいて、既に紹介済みのボーイフレンドがナガミツである。  そしてもう、ナガミツとはちゃんとした男女の恋人同士だったと思い出した。  急に恥ずかしくなって、顔が火照る。  だが、そんなトゥリフィリを背後で呼び止める声が響いた。 「トゥリねぇ! 次いでにナガミツッ、見つけた! 一緒に帰ろっ!」  ハキハキとした、まるで少年のような少女の声だ。  振り向くとそこには、同学年の誰もが足を止めて道をゆずる、小さな女の子が歩いてくる。長い長い黒髪が、艶々と光沢を波立たせて揺れていた。  面倒臭そうな顔をして、ナガミツが溜息を一つ。 「お前なあ、キリ。中等部のガキが高等部の校舎に堂々と来るなよ」 「気にするな、ナガミツ。私の家が出資してる学校なんだ。どうとでもなる!」 「そういう発想がお子様なんだよ、ったく」 「むむっ! ナガミツは嬉しくないのか?」 「そうは言ってねーよ」  その少女の名は、確かキリコだ。  トゥリフィリのお隣さんで、大豪邸に住む名家の御嬢様だった気がする。そういう記憶が自分の中に拾えて、それを掘り出せばごくごく自然に納得させられた。  だが、やはり妙な違和感がある。  どうしても、今という現実に現実感がないのだ。  ふわふわと足が地についてないような、奇妙な落ち着かなさ。  戸惑うトゥリフィリだったが、その腕にキリコが抱き着いてくる。彼女はもう片方の手でナガミツの腕にも抱きつき、二人の間に挟まって満面の笑みを浮かべた。 「今日はどこに寄り道するんだ? 私も同行する!」 「おう、しゃーねえなあ……ラーメンでも食って帰るか? どうせお前、フィーと方向一緒だしな」 「うんっ! ナガミツ、またファミコンのことを教えてくれ。私はまた、難しいダンジョンで詰まってしまったんだ」 「おめーはおばあちゃんか、ファミコンて……教育実習生のキジトラ先生に聞けよ、そんなの」 「キジトラ先生は、ナガミツが一番弟子だワハハ、って言ってたぞ」 「あの不良青年が……!」  なんだか、とても楽しいし、温かい。  そして、脳裏に浮かぶは仲良し三人組の別の顔……三人は奇妙な恋愛関係で、三者三様の気持ちを持ち寄り共有している。そんな夜が幾度もあって、思い出したら赤面に顔が熱かった。  だが、これではっきりした。  トゥリフィリは足を止めると、キリコの手を振り払う。  不思議そうに振り返るナガミツとキリコに、ゆっくり慎重に言葉を選んで呟いた。 「……ねえ、キリちゃん。ナガミツちゃんも。キジトラ先輩が、先生?」 「おう。先月から来てるだろ。あの、赤いジャージのおもしれー先生だ」 「キジトラ先輩は、その名前は……本名じゃ、ないんだよ? 本当の名前は――」  そう、ムラクモ13班の誰もが本名を明かしている訳ではない。コードネームだったりするし、時にはあだ名や通り名だったりする。  頼れる兄貴分で、ちょっとヘンテコでバカで……そしてナガミツとよく笑ってるトリックスターの男。そう、キジトラの本名は―― 「えっと、シンノスケ……そう、長壁慎之助! キジトラ先輩のキジトラ、ってのは」  覚醒……再びトゥリフィリは、自ら本当の現実へと戻ってきた。  そして、目の前にはゆらゆらとスリーピーホロウが浮かんでいる。全ては、幻覚が見せた夢だった。強烈な催眠攻撃に、トゥリフィリ達三人は昏倒してしまったのだった。  すぐ近くで、ナガミツとキリコが倒れている。  だが、目の前には一人の男が腕組み立っていた。  その大きな背中は、肩越しに振り返ってニヤリと笑う。 「俺様を呼んだか、フィー! クハハハハッ、助けに来たぞ」 「あれ……キジトラ先輩」 「うむ! SKYの連中にジャマーを届けたのだが、そこのノリトが『歌が聴こえます』とかほざくのでな」  振り返れば、意識高い系の、意識高いを通り越して意識遠い系のポージングでノリトが立っている。彼はタカタカ、タッターン! と光学キーボードを叩くや、いつもの作ったキャラで話し出した。 「キジトラ先輩、強化完了……今の肉体は鋼のように硬く、柳のようにしなやかに!」 「御苦労! うむ、感じるぞ……クククッ、我が力とノリトの技、一つになれば敵はナシ!」 「では、私は歌を引き続き追いますので。聴こえなくなったのが心配です」 「そっちは任せた! さて……少し運動させてもらおうか。帝竜スリーピーホロウ、相手にとって不足ナシッ!」  抜き身のナイフを逆手に構えて、ニヤリとキジトラが笑う。  そこには、普段の気さくで面白い好青年の笑顔はなかった。  まるで獲物を見定めた肉食獣のような、狩人にも似た高揚感が笑みを象っているのだった。