緊急の招集で、突然終わった休息のひととき。  胸に広がる不安だけが、今のトゥリフィリに動悸の苦しみをもたらしているのだろうか? 恐らく、答は否だ。皆が呼ばれてゲストルームを飛び出した、つい先程……トゥリフィリはナガミツに呼び止められた。  今もこうして廊下を走る隣の彼は、トゥリフィリに突然過ぎる言葉をくれたのだった。 「もぉ、困るよ……ありがとう、だなんて」 「ん? どうした、フィー。急ごうぜ。……呼び止めちまって、悪かったな」  先程、ナガミツは改めてトゥリフィリに礼を告げてきた。ありがとう、その言葉がこんなに特別に感じるとは思わなくて、そんな自分にトゥリフィリは驚いてしまった。  彼は、言い澱むことなく真顔で言い放った。  ――俺が戦う理由でいてくれて、ありがとう。  そう言って、スリーピーホロウとの戦いを振り返って語る。彼もまた、夢を見ていたそうだ。そしてそれは、奇しくもトゥリフィリと同じ夢だった。同級生として、そして彼氏彼女としての学校生活。本当に人間のナガミツを、彼自身が体験した。  そして、その甘やかに侵食してくる夢を、振り払ったのだ。 「ま、まあ……悪い気はしない、かな? ねえ、ナガミツちゃん」 「あ? なんだよ、ニヤニヤして気持ち悪いぞ」 「えっ、そ、そう? ぼく、にやけてる!?」 「人間の笑い方でいえば、にやけてる気がするぜ」  これはいけないと、改めて頬を引き締める。  変に意識してはいけないと思いつつ、トゥリフィリは緊張感を取り戻した。  ゲストルームには、今度は自分で予約を入れよう。改めてナガミツと、仲間達とで憩いの集いを開くのだ。それを明日以降の楽しみだと思えば、危機に際して勇気を振り絞れる。  トゥリフィリはナガミツを伴い、ムラクモ機関本部となってる会議室に入った。  振り向く誰もが、青い顔に視線をうるませている。  危機的状況、そして凶報だということがすぐに知れた。  キリノの声は、普段にも増して自信なさげで震えている。 「ああ、フィー……その、モニターを見てくれ。そしてできれば、嘘だと言ってくれ」  キリノ達の前に、ドローンで各地をモニターする巨大画面がある。その一つがズームされて、整然と並ぶ液晶パネルが一つのスクリーンになった。  そこには、変貌した東京タワーが映っている。  その足元には、無数の死体が転がっていた。  駐車場は血の海で、その中に小さな背中が立っている。  思わずトゥリフィリは、届かぬ声と知っても名を叫んだ。 「アオイちゃん! こ、これは……リアルタイムの画像? だよね? ――ッ!?」  満身創痍のアオイが映っている。  恐らく、なにものかと激しく戦ったのだろう。既に死体と化して転がる、無数の仲間や自衛隊員のために。肩を上下させる彼女の荒い息遣いが、伝わってくるかのような緊迫感。  そして、彼女が見上げる先に、敵意と害意の固まりが浮いていた。  その顔を見て、再度驚きにトゥリフィリは息を呑む。  今度はナガミツが、ギリリと拳を握って呟いた。 「あれは……ナツメ総長、か。だが、あの姿は……もう、人間じゃない」  そこには、竜へと堕したかのような異形の女が飛んでいる。  その顔は、突如として都庁から姿を消した、あのナツメそのものだった。全身をおぞましい鱗と甲殻で覆い、翼と尻尾を風に遊ばせている。そして、どこか高潔さを感じる美貌は今、凶暴な捕食者の傲慢に彩られていた。  彼女は真っ赤な舌でチロリと唇を舐める。 『随分と歯向かってくれたわ……アオイ、覚悟はいいかしら?』 『覚悟ならとっくに! 私、負けない……負けてなんかやらない!』 『相変わらず威勢だけはいいのね? 今なら見逃してあげる……都庁へ逃げ帰りなさいな。貴女が守ろうとした人間は全部、殺してあげたんだし』 『逃げない……私は、退かない! ……先輩、あと、お願いですっ!』  ちらりとアオイは、肩越しに振り返る。  こちらへ映像を届けるドローンを見つけるや、弱々しく微笑んだ。  そして、再度張り詰めた顔で地を蹴る。  彼女もまた、ムラクモ機関が誇るS級能力者だ。あのガトウも認めた、身体能力とセンスがある。でも、トゥリフィリにとっては、いつも自分を先輩と呼んで懐く、食いしん坊のかわいい女の子だった。  アオイが変貌したナツメへとジャンプする。  そして、あっという間に映像は血に染まった。 「くっ、姿を消したと思ったナツメ総長……しかし、あの姿はどういうことだ!?」 「そんなことより、キジトラッ! 私達で助けに行かないと!」 「落ち着け、キリ坊。……もう、走っても間に合わん」 「そんな!」  キリコの焦りに答えるキジトラは、普段の覇気が嘘のように言葉少なげだ。  そして、トゥリフィリは見た。キジトラもまた、硬く握った拳を震わせている。その手に爪が食い込む痛みさえ忘れて、彼は悔しさを握り締めていた。  空中でアオイは、何度もナツメの攻撃に翻弄される。  まるで小動物を嬲るように、ナツメは爪と尾とでアオイを切り刻んだのだ。  僅か数十秒の惨劇で、どさりとアオイが地面に落ちる。  見下ろすナツメの哄笑は、狂気を孕んだドス黒い愉悦を満たしていた。 『アハハハッ! 恥ずかしい女! 恥ずかしい、本当に恥ずかしい! はらわたが丸出し、丸見えだわ。……さて、見てるんでしょう? キリノ、そして……トゥリフィリ』  ドローンの前へと、ふわりとナツメが宙を滑る。  オペレーターのミロクに指示して、キリノはマイクを準備させた。そして、こちらの声をドローンを通じてナツメへ送る。 「ナツメさん! どうして、ですか……なにが? いや、なにかが……なにか、理由があるんですよね。ナツメさんはいつも、先の先、その先までも読む人だから」 『あら……私が帝竜打倒のために、あえて今は悪に身をやつしている。そう言えば満足かしら? そんなだから、キリノ……貴方はいつまでたってもただの凡才なのよ』  ムラクモ機関の長として振る舞っていたナツメは、冷徹な判断力を持つ才媛だった。背負った責任が、時として冷酷な決断を選ばせる……だが、その本質は悪ではないと、トゥリフィリは信じていた。  だが、モニターの向こうには……文字通り、悪魔と化したナツメが浮いている。 『ドラゴンクロニクル……キリノ、密かに研究を進めているわね?』 「そっ、それは!」  ――ドラゴンクロニクル。  初めて耳にする単語に、背後から声が飛ぶ。  誰もが振り返る先に、意外な男が立っていた。 「ドラゴンクロニクル……帝竜検体から生み出される、竜を持って竜を滅するモノ。ま、人類の切り札って言われてるがよぉ? そいつを持ち出したな、クソババァ!」  そこには、SKYのタケハヤが立っていた。  彼の怒りの視線を吸い込み、ナツメは鼻を鳴らす。 『あら、まだ生きてたの? モルモットの成れの果て……でも、貴方には感謝しなくてはね。貴方達モルモットのおかげで、ドラゴンクロニクルはこうして私という形に完成した。そう、私は――』  ドローンの映像が乱れてゆく。  ナツメから発する力が、東京タワー周辺の空間を揺るがしているかのようだ。 「私は、人竜ミヅチ! 人を超越し、竜をも屠る完全な生命体。あらゆる叡智を手にした、至高の存在よ。そして今、摂理たる竜の裁きに従い……古き人類を剿滅するの」  その声と共に、映像は途絶えた。  人竜ミヅチ……それが、ナツメという女性の暗黒面が形作った姿。醜悪にして美しい、人ならざる竜の化身なのだった。