トゥリフィリは数時間の仮眠を取り、食堂で軽く朝食を済ませた。  改めて都庁にいると、人間の持つ脆さと逞しさに驚かされる。悲観にくれる者がいる一方で、日々を強かに生きている者もいる。子供たちは都庁が安全と信じてくれているのか、そこかしこで朝から元気に遊び回っていた。  集合まで、半時間ほど時間は空いていた。  ぶらりと都庁の中を散歩したのは、たんなる時間潰し。  これが最後かもしれない、決戦の朝なのに不思議と心は穏やかだった。 「まったく、早まったことしてくれちゃってさ……駄目だぞ、ナガミツちゃん?」  暗雲垂れ込める空は、低く圧迫感を増している。  時々閃く稲光が、遅れて轟音を響かせていた。  そんな外の光景を見ながら、あてもなくぶらりと歩く。こんな時、隣にナガミツの姿がいない。いなくなって初めて、彼の存在感の大きさにトゥリフィリは驚かされた。  気付けばいるのが当たり前で。  いないと寂しい自分に気付く。  だが、再会の予感があった。  追いかけて東京タワーを登れば、必ず追い付ける。  また並んで、一緒に走れる気がした。  そんなトゥリフィリが、そろそろエントランスにと思ってエレベーターの前に立つ。パネルをタッチしてしばらく待つと、背後から声がした。 「トゥリフィリ? おはよう、ございます」  それは不思議な声音だ。  電子音声なのに、冷たい無機質な響きを感じない。  機械であることを知らしめても、何故かぬくもりが確かにあった。  振り向くと、一組の男女が立っていた。 「あ、おはよ。えっと……初音ミク、さんだよね? あと、ついでにノリト」 「ついでには余計ですよ、フィー。ふっ、いよいよ決戦の朝ですね」  気取ったノリトの手に、ミクの小さな手が乗せられている。  どうやら彼は、歌姫のエスコート役をこなしているようだ。そして、いつものクールでニヒルなキャラを装っているが……内心、緊張でカチコチなのがすぐにわかった。  そして、改めてトゥリフィリは目の前の少女を見詰める。  驚くほどに自然で、ありえないくらい美しい。  もう十年以上前に、初音ミクは『音』ではなく『声』、『曲』ではなく『歌』を編集する音源ソフトとして開発、販売された。後の世に続くボーカロイドの地位を確立した、知る人ぞ知る電脳世界のトップスターである。  そして今、現実は未来へ追いついた。  画面の外を飛び出た彼女に、肉体が与えられたのだ。 「ミクさん、都庁の暮らしには慣れた?」 「はい、トゥリフィリ。とても過ごしやすいです。でも」 「でも? あ、なにかあったら言って。カジカさんに伝えとくから」 「みんな、時々とても悲しそう……」  ボーカロイドに感情はあるのか。  これは科学者や技術者、芸術家の間でも議論が拮抗している。予めプログラムされた人格に、情緒と呼べるものは宿るのか。0と1の電気パルスが行き交う回路だって、人間の神経となにも変わらないのだから。  そんなことを思い出していると、目の前のエレベーターがチン! と鳴った。  ノリトは片手でドアの開閉ボタンをオープンにし、うやうやしくミクを乗せる。 「トゥリフィリ、気をつけて行ってきて、ね? 私も、私にできることを、するから」 「うん。ありがとっ、ミクさん。これが終わったらお互い……できることもだけど、やりたいことをしようね」 「私の、やりたい、こと……うん。ずっと昔から、一つだけあるの。だから、今は」 「一緒だね。みんな一緒、ぼくも一緒。やりたいことがある限り、こんなところで終われない。ぼくたち13班が、絶対に終わらせないから」  ミクは大きく頷くと、エレベーターに乗った。  ノリトがそっと手を放した、その時だった。  振り向くミクが、その手を、ノリトの人差し指をそっと握る。  ビクリ! と少年が身を震わせたのが、隣にいたトゥリフィリにもわかった。 「ノリト、気をつけて。また、私に歌わせてほしい、から」 「……フッ、お気遣いに感謝を。私は必ず戻ってきますので……そう、音楽と歌がある限り」  気障ったらしく決めて、ノリトが精一杯のドヤ顔を取り繕う。  だが、ミクは決して彼の指を離そうとしない。  無言だったが、二人の間で空気が見えないメロディを震わせてる気がした。ちょっと下がって、トゥリフィリは二人の別れを見守る。  じっとノリトを見詰めて、ミクは不安そうに瞳を揺らしている。  そして、ノリトはそんな彼女の手を優しく解いた。  同時に、その場に屈んで白く小さな手に唇を寄せる。  まるで残される姫君と、旅立つ騎士だ。 「再会を約束しましょう、ミクさん。貴女の歌がある限り、この都庁は私が……私たちが守ります」 「ノリト……ありがとう。私、みんなを待って歌うよ? だから」 「ええ。必ず戻りますよ。みんなで、全員で」  そっとミクの手が、ノリトから離れた。  しずしずと立ち上がるノリトが下がれば、エレベーターのドアが閉まる。  歌姫が舞台を去った瞬間、ノリトはその場にへたりこんでしまった。  みっともないなんて思わないから、身を屈めてトゥリフィリは彼の顔を覗く。 「よかったね、ノリト。……ノリト?」 「……っべぇ」 「ん?」 「やっ、べええええええ! 俺はミクさんに、なんてことを! ああでも、シアワセ……もう死んでもいいぞクッソー!」 「や、キャラが。キャラがね、キャラ。あと、死んじゃ駄目だってば」  素顔を覗かせ天井を仰いでから、ノリトはクイと眼鏡のブリッジを指で押し上げる。蛍光灯の光を反射する硝子が、彼を再びクールなハッカーへと戻した。  ノリトは何事もなかったようにシャンと立つと、気恥ずかしそうに笑う。  うんうんと頷いて、トゥリフィリはひょろりと背の高い少年を見上げた。 「ミクさん、前より元気になったみたい。渋谷で保護した時は、ずっと悲しそうな顔してたもん」 「この天変地異では、誰もが皆冷静ではいられなかったのでしょう。彼女が一人だったのは、やはり逃げ惑う者達が……ですが、それを責める筋でもないでしょうね」 「そだね。多分、みんな必死だったから」 「ええ、ええ。そして……自分を見放した人間のために、まだミクさんは歌うと言うのです。ならば、私のやるべきことは一つ」 「うんうん」  それに、トゥリフィリは思うのだ。  異界と化した渋谷を彷徨っていたミクは、決して人から見放されたとは言い切れない。逆に、誰かが危険から彼女を遠ざけた……逃してくれた可能性だってあるのだ。  かなりの期間、彼女は一人で放浪していたようだ。  だが、電源は無事だったし、彼女の歌は緑に沈む街に満ちていた。  救出された者達の中には、何者かの歌に導かれたという人間も少なくない。  恐るべき迷宮の主である帝竜すらも、ミクの歌には過敏な反応を見せたのだ。 「歌は、力だね」 「ええ。そして強さです」 「じゃあ、行こっか」  再び上からエレベーターが降りてきた。  そして、左右に扉が開くと……底には、覇気を漲らせる男の背中があった。  仁王立ちで肩越しに、キジトラが振り返る。  野良猫のように不敵な笑みが、彼のそよいだ心境を雄弁に語っていた。 「ククク……時は来たっ! 今がその時、ゆくぞフィー! ノリト!」 「あ、うん……え、キジトラ先輩なにしてんの?」 「……カ、カッコイイ。あ、いえ! フッ、お供しましょう。いざ、我等で明日を切り開かん……奏でるは未来への行進曲!」  こうして、トゥリフィリに最後の旅立ちが訪れた。目指すは、異形へと変貌してしまった東京タワー……その中へと消えた、大切な二人の背中だ。  今、人類史の終わりと始まりを繋ぐ決戦が、少年少女の手で切り開かれようとしていた。