以前の人竜ミズチには、まだナツメの面影があった。  優秀な人間であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。全てにおいて秀でていても、一点突破型の達人や天才には遠く及ばない。彼女自身がそう思い込んで、卑屈な劣等感をこじらせてしまったのだ。  だが、今は違う。  志を失っていたが、ナツメはトゥリフィリを買ってくれていたし、誘ってくれた。  決して交わらぬ道の向こう側で、トゥリフィリを見ていてくれたのだ。  だが、今は違う。 「この……下等生物がっ! 劣悪なる欠陥遺伝子の持ち主が、この私をッ!」  憤怒の形相で、ナツメが……否、人竜ミズチがこちらへ歩んでくる。その脚は、既に動かなくなったシイナを横へと蹴飛ばした。  さして力を入れたようでもなく、道端の空き缶をどかすような仕草だ。  だが、力なく血に塗れたシイナが、ボロ雑巾のように吹き飛ぶ。  慌ててトゥリフィリは駆け出した。 「シイナッ! しっかりして、今すぐ手当を」 「無駄よ。もうすぐ死ぬわ。……いいじゃない、生きてなかったようなものですもの。生命体として不完全な上に、想定されたスペックも持たない欠陥品なんだから」 「そんなことない! 遺伝子や能力だけが、人間じゃないんだ!」  気付けばトゥリフィリは、冷たくなったシイナに覆いかぶさっていた。そのまま全身で庇いながら、肩越しに振り返る。  涙で滲む視界で、ミズチは醜悪な笑みを浮かべていた。  もう、かつてムラクモ機関の総長だった麗人の面影は、ない。 「あら、そうなの……だとしたら、人間は価値を計るに足らない存在ということかしら?」 「人間の価値は、その人それぞれが自分で決める! その人と関わる、みんなが高めてくれることだってある!」 「……自己の存在だけで完結せず、不確定要素で上下する価値……それはもう、価値ある生命とは言えないわ」 「ぼくたちは、評価されるために生きてる訳じゃないんだ」  どこまでも冷たくなってゆくシイナを、身を挺して守る。  そんなトゥリフィリの前で、ゆらりとミズチが手を広げた。燃え盛る炎が現れ、音を立てて燃え盛る。それを浴びせられれば、一瞬でトゥリフィリはシイナごと蒸発してしまうだろう。  銃を抜いている暇はない。  だが、自分だけなら避けられるかもしれない。  シイナを連れては、難しい。  そんな中で、選択肢に迷えど、トゥリフィリは未だに絶望に抗っていた。  人間は誰しも、真に絶望した時に敗北するのだ。  緊張感の中に、とぼけた声が走ったのはそんな時だった。 「さて、と……お待たせしちゃったかなあ? ……ナツメさん、あんた一つ忘れてるよ。大事なことを忘れてる」  獄炎の焔をトゥリフィリに向けたまま、視線だけをミズチが滑らせる。  その先には、カジカが立っていた。  彼は無数の光学キーボードを宙に浮かべ、忙しく働くノリトに目配せして一歩踏み出す。  カジカの目には、普段は絶対に見られない瞳の輝きが燃えていた。  それは、眼鏡の億に光る怒りの炎だった。 「……カジカ、お前は……拾ってやった恩を、忘れて。この、私に」 「やだねえ、おお、やだやだ。そうやって、自分に劣る者を見下し、自分にないものを持つ者を妬んで憎悪する。それ、ナツメさんを孤独にさせてきたお偉いさんたちと、どこが違うのかねえ」 「ッ! わ、私があの下等生物共と一緒だというのかっ!」 「一緒だなんて言ってないよん? ……それ以下だっつってんの。ねえ――」  ――ねえ、少年。  その声と同時に、風が逆巻き唸りを上げる。  なにかが黒い疾風となって、トゥリフィリの視界に割り込んだ。  そして、懐かしい声が戻ってくる。  詰め襟を着た少年の背中が、トゥリフィリを完全に守っていた。突きつけられたミズチの腕を、その手に宿る炎ごと鷲掴みにしている。 「……フィーに、手を出すんじゃねえよ。それと、これは」 「なっ……一式!? 何故だ、完璧に破壊した筈だ! まさか」 「これは、なあ……シイナの、分だ! 取っとけクソ野郎ぉ!」  狼狽するミズチの、僅かな隙をナガミツの拳が襲う。  そう、ナガミツだ。  カジカとノリトの蘇生処置が成功したのだ。そう思った瞬間、トゥリフィリの全身から力が抜けそうになる。だが、彼女は頬をはたいて気合を入れ直した。  トゥリフィリが立つと同時に、ミズチは顔面に一撃をもらって吹き飛ぶ。  何度もバウンドしてフロアの端まで轍を刻み、かろうじて落ちずに止まった。それを見詰める横顔は、間違いなくあのナガミツだった。 「ナガミツちゃん! ありがとっ」 「おう。……やるぞ、フィー」 「うんっ! 勝負はまだまだこれから、だよねっ」  トゥリフィリも銃を抜き、ナガミツの援護に回る。  この絶望的な状況で、不思議と妙な安堵感があった。ナガミツの隣にいるときは、なんだかとても落ち着く。こんな時でさえ、自分の集中力が研ぎ澄まされてゆくのを感じるのだ。  不思議と思考がクリアになってゆく。  恐怖に萎縮していた全身に、熱い血潮の滾りが蘇る。  いつものようにトゥリフィリは、ナガミツと互いを守り合うように身構えた。  その先で、立ち上がるミズチが怒りに声を震わせる。 「何故っ、何故なの! 一式、この欠陥品が! 人の手が造った斬竜刀……模造刀にも等しいナマクラが! この私に今、何故まだ立ち向かってくるの!?」 「お前が人をやめた竜だからだ」 「黙れッ!黙れ、黙れ、黙れ!」 「それともう一つ。俺は……俺等は、ナマクラじゃねえ。なあ、そうだろ……キリ」  トゥリフィリは目を疑った。  そして、チン! という小さな金属音を耳で拾う。  気付けばミズチの背後に、少女の背中が立っていた。その腰の鞘に今、手に持つ剣を納めたのだ。星海の風に長い黒髪を遊ばせ、彼女はゆっくりと振り返る。  またしてもミズチの声がヒステリックに叫ばれた。 「出来損ないの巫女が、この私に! 羽々斬の巫女の成れの果て、そんなお前が!」 「……私の中の姉様が、囁く……叫ぶんだ」 「あの女は死んだ! 無様に死んで、お前はその残滓を詰め込まれただけだ!」  ミズチが身を翻して、背を向けるキリコに爪をふりかぶる。  だが、動く素振りも見せずに、キリコははっきりと言の葉を紡いだ。 「そう、姉様は死んだ。竜と戦って、死んだ。それでもこの身に、この魂に……竜を倒せと、今も祈り願ってる!」 「それがどうしたっ! 死体は喋らない、死は無への回帰! お前もそこへ送ってやる!」 「――だから、もう斬った」  突然、ピタリとミズチの全身が硬直した。  同時に、無数の傷が一斉に浮かび上がり、鮮血の飛沫をあげる。  声にならない悲鳴を叫んで、ミズチがぐらりとよろめいた。  その瞬間、トゥリフィリはナガミツと共に地を蹴る。 「ナガミツちゃん! 一気に畳み掛けるよっ! キリちゃんも!」  すぐにカジカとノリトから、全身の力を補佐するコードが撃ち込まれる。神経という名の回路を、外部から付与されたパルス信号が駆け巡った。  身体が軽くて、痛みも恐れも忘れてゆく。  手にした雌雄一対の二挺拳銃を構えて、迷わずトゥリフィリは銃爪を引き絞るのだった。