その迷宮は、不可思議な空間の連続だった。  暑くもなく、寒くもない。だが、確実に鼓動と呼吸が締め付けられる。異界としか言い様のない雰囲気が、トゥリフィリの五感に訴えてくるのだ。  人ならざるモノ、敢えて言うなら神の領域かもしれないと。  だが、魔でも神でも許せないことがある。  その理不尽と不条理に抗うべく、二人の仲間と彼女は進むと決めていた。 「チィ! きりがねえぜ!」  最前線で戦うナガミツの拳が、恐るべき巨躯を揺るがし後退させる。真っ赤に燃えるドラゴンが、厳つい姿で片膝を突いた。  逆三角形の肉体は、鋼の如き強さの筋肉が天然の鎧だ。  その巨体を、ナガミツは勢いよく蹴り飛ばす。  すかさずトゥリフィリは、吹き飛ぶクリミナルドラグへ銃弾を叩き込んだ。 「おっしゃ、キリッ! トドメと行こうぜ! ここで手間取ってる訳には――!?」  身構えつつ、ナガミツが肩越しに振り向いた。  その顔が、珍しく露骨に表情を変える。  驚きと同時に、不思議とトゥリフィリは子供のような優しさを感じた。  ゆっくりと起き上がるクリミナルドラグの、その枷が解き放たれる。だが、真の力を解放した怒竜を、身もせずにナガミツは回し蹴りを放つ。  あっという間に、巨体がなにもない空間にすっ飛んでいった。  奇妙な床を踏み外せば、その外はなにもない虚空の闇だ。 「キリちゃんっ!」  トゥリフィリも拳銃のマガジンを交換しつつ、ナガミツの走る先へ駆け寄る。  今、明滅する床の上に、セーラー服姿の矮躯が倒れて動かない。  それでも、小さな女の子は手にした剣を支えにして立ち上がろうとしていた。 「大丈、夫……ごめん、でも……まだ……」  立ち上がろうとして、キリコは再び倒れ込んだ。  トゥリフィリが慌てて抱き寄せれば、その体は熱く火照って震えていた。  そして、珍しく気色ばった声をナガミツが発する。 「おうこら、キリ! お前、なに無理してんだ! ちゃんと言え、辛いって!」 「で、でも……私は……俺は、羽々斬の……」 「少し休めよ、お前は巫女とか血筋とか関係なく……俺らの仲間だろうがよ」  以前のナガミツからは、想像もできない言葉だった。そして、今はそれが自然だと思える。  未曾有の竜災害の中、トゥリフィリはナガミツに出会った。  そして、トゥリフィリの一貫した変わらぬ想いが、ロボットそのものだったナガミツを変えてしまったのだ。  今ならはっきりとわかる。  ナガミツと歩んできた戦いの道が、人類の明日へと繋がっている。  その先に、未来がある。  それは、ナガミツと一緒に笑い合える、仲間と一緒に笑顔になれる平和な世界だ。  だが、その道程は今は遠く、果てしない彼方にあって、見えない。  見えなくても、確かめられなくても、進むと決めたトゥリフィリも今は動揺している……キリコが無理を押して戦ってくれてたことに、気付けなかったからだ。 「よし、キリ。お前、ちょっと俺におぶされ」 「あ、それいいかも。ね、キリちゃん……駄目だって言っても、一緒に行くって思ってるでしょ? ね、なんかわかる……だから、さ」 「面倒かけやがって、いまさら脱落させっかよ。なあ、キリ……キリ?」  だが、荒い息を刻むキリコは、そっとトゥリフィリの手を握った。そして、その手をナガミツの手に重ねる。  苦しげに汗ばんだ顔が、弱々しい笑みを象った。  いつも気を張ってきた少女の、少年だったころの笑顔がそこにはあった。 「な、なんだよキリ……おい」 「ナガミツ……トゥリねえも。ずっと……いつも、思ってた。私は、私が、詰め込まれた、俺は、ずっと」 「おうコラ、そういうのやめろって! なんか……なんだよ、モヤモヤすんだよ」 「ナガミツと、トゥリねえのこと、好き……だった。自分が、わからなくなる、くらい……でも、だから、二人のこと、これからも」  トゥリフィリは、自然とナガミツを見上げた。  キリコを支えるように身を屈めたナガミツもまた、トゥリフィリを見詰めていた。  自然と、今まで意識してこなかった感情が湧き上がる。  だが、その気持ちと想いに名前をつけるより早く、絶叫が迸った。  新たな敵が、大挙して襲い来る。  マモノの咆哮を前に、思わずトゥリフィリはキリコを抱き締めていた。 「キリちゃん! ごめんね……痛くて、苦しかったよね。あと……心が、辛かったよね。ぼく、嬉しくて、でもなんだか切なくて……そうだったんだね」 「トゥリねえ、私……なんだか、今、とても」  キリコの手から、剣が離れて落ちる。  それは、金色に輝く救世の刃……あのタケハヤが奮ってきた神器だ。  乾いた音を立てて、天叢雲剣が転がった。  だが、おぞましい絶叫が突然、身構えるナガミツの前で止まった。  そして気付けば……小さな小さな少年が、並み居る殺意の前で振り返る。 「やあ、お疲れ様だね。ようやく追いついたよ」  それは、仲間のアゼルだ。  だが、目に見えて違うのは、纏う雰囲気だけではない。  彼は片手をそっとかざして、紅蓮に燃え盛る焔を呼び寄せた。あっという間に、ゆらめく業火にマモノたちの断末魔が吸い込まれていく。  何百年も生き続けた、熟練の錬金術師……改めてトゥリフィリは、彼の本性を目の当たりにして息を飲んだ。  ナガミツも、警戒心を高めながらも驚きを隠せないようだった。 「おい、アゼルの爺さん……お前、その髪」 「……ああ、これかい? この身体で絞り出せる力には、限界があるからね」  アゼルの髪は、色が抜けて真っ白になっていた。  一変してしまった凍れる殺意が、その色なき色を冷たく感じさせる。  だが、助けに来てくれたのは彼だけではなかった。 「フィー、ここはまかせなよ……わたしは今、凄く怒っている。そう、とても怒っているんだ」  華奢な痩身が、天叢雲剣を拾い上げて立っていた。  その背は、肩越しに振り返って大きく頷く。  トゥリフィリは気付けば、周囲の仲間たちに叫んでいた。 「エジー! みんなも!」 「あいよ。さ、片付けるよ。爺さん、みんなも……やれるねえ? なら、やるだけさ」  光が走った。  軌跡すら残さず、金色の刃が敵を両断する。  突然現れたエグランティエは、次々と無明の剣閃で敵を両断していった。  そして、気付けば守ってくれているキジトラが、トゥリフィリに真実を告げてくる。 「フィー、無事だな? ククク、そうでなくては……もう、これ以上は、流石の俺様でもゴメンだからな」 「え、それって……」 「オーマのおっさんが、死んだ。我らを守ってな。あと、チサキとも連絡が取れん」 「そんな、オーマさんが……チサキも、あのあと」 「だが、失い亡くす中で俺様は思った……負けてはいけない理由が増えたとな!」  気付けば、ムラクモ13班の皆が戦っていた。  この場にいないカジカたちも、必死で戦っている。  その気持ちが心に触れてきて、消え入りそうに燻っていた気持ちに引火する。そしてそれは、トゥリフィリだけではなかった。  腕の中で震えていた少女が、ゆらりと立ち上がる。  その目は既に焦点が合わず、意識は混濁してるように見えた。  だが……ゆっくりと立ったキリコからは、長い黒髪が棚引くほどの闘気が迸っていた。