この世の邪悪を凝縮したような気配が、階段の奥から漂ってくる。  トゥリフィリは今、全身が怖気に冷えて硬くなるのを感じた。肩を貸しているキリコが、やけに重く感じる。自分の意志とは裏腹に、肉体の遺伝子は知っているのかも知れない。  階段を上ると、そこには人智を超えた敵が待っていると。  正直逃げ出したかったが、目の前の背中が大丈夫だと無言で励ましてくれる。  誰もが黙って、階段を進み出したナガミツを追った。  そして、玉座の間にて無慈悲な王へとトゥリフィリたちは謁見を果たした。 「クァハ! クァハ! ワレの前まで来たか……家畜の足掻く様は、クハハハハ! 滑稽!」  巨大な黄金の竜が、トゥリフィリたちを睥睨していた。  眩い金色の圧倒感は、右の翼だけが虚無に陰って黒い。まるで、そこだけ金メッキが剥げたようだ。  そんなことを思ったら、トゥリフィリは全身の緊張感が緩和するのを感じた。  目の前の真竜ニアラからは、絶望すら生ぬるいほどの悪意を感じる。  気を抜けば、一瞬で正気を失い泣き叫んでしまいそうだ。  だが、トゥリフィリは呼吸を落ち着けて言の葉を紡ぐ。 「真竜ニアラ! ぼくたちは家畜じゃない! 神を気取る不遜な竜を……ぼくたちは許さない」 「ホウ? 小娘が……震えているではないか。 クァハ! ハ!」 「正直、恐ろしい……死ぬほど怖いよ。でも、みんな!」  周囲の仲間たちを見渡し、頷きを拾う。  そして、トゥリフィリの言葉尻をナガミツが拾った。 「お前はその身を晒して、俺たちに教えちまった……なんだぁ? そのみっともない翼はよ! ……どうみても戦いで負ったダメージだ。つまり、お前は攻撃すれば傷付く」 「! ……貴様、家畜風情がこの翼を! ただ一度の屈辱を口にするか!」 「うるせぇ! ブン殴って蹴り飛ばす、この世の竜を叩き割る。それが俺、斬竜刀だ」  同時に、そっとトゥリフィリからキリコが離れた。彼女はふらりとよろけたが、弱々しい足取りでナガミツの横に並ぶ。  その表情は顔面蒼白で血の気がないが、瞳に確かな覚悟が燃えていた。 「そうだ、私は……私たちは斬竜刀なんだ。この世で二振りだけの……竜を断つ刃なんだ!」  キリコの手に今、タケハヤから託された剣が光っている。ほのかに輝き、リィンと鳴っている。まるで、この場に踏みとどまっているトゥリフィリたちに感応しているようだ。  だが、ニアラは一際下卑た哄笑を響かせた。 「人の造りしカラクリの人形に、凶祓いの巫女の成れの果て……笑止ナリ! 例えその剣が……竜殺しの神剣があったとて、ワレに触れることすらかなわぬ!」  断言とともに、ニアラが吠え荒ぶ。  どこか歌うような、聖なる福音のような声だった。  全てに等しく死を与える、超越者の覇気で空気が沸騰する。  だが、トゥリフィリは銃を抜くや一歩踏み出て……ナガミツとキリコの間に立つ。  そして、真っ直ぐニアラを見上げて言葉を噛み締めた。 「ナガミツちゃんは偽物じゃないし、キリちゃんだって出来損ないじゃない。でも、お前は……真竜ニアラッ! お前は! ぼくの大事な人と、大切な仲間を嗤った!」 「!」 「人が造った? 成れの果て? 違う……違う違う、違うっ! 悲しみも苦しみもあったけど、ぼくたち人間は意思の力で超えてきた。その営みが歴史なら、それはこれからも作られ続ける! 果てなく未来へ向かって!」  僅かにニアラがたじろぐ気配があった。  そして、エグランティエやキジトラも気迫を叫ぶ。 「カカカッ! そもそもなんだ、そのみっともないメッキ落ちは! そもそも……俺様は認めん! 黄金竜の端くれでありながら、威厳も誇りも感じん。その上に首も三本じゃないと来ている。貴様はただ強いだけの竜でしかない!」 「キジトラの言う通りさね……これ以上は語るに値しない。ただ、斬るのみ!」  戦いが始まった。  決戦の火蓋は今、まさに切って落とされたのだ。  翼を広げるニアラが風を纏って、渦巻く気流の中で絶叫する。  だがもう、気圧され萎縮する人間はいなかった。  人間であるからこそ、トゥリフィリたちは怯える自分を前へと押し出す。  この戦いに勝たなければ、人類の歴史は終わる……多くの人間が紡いできた歴史が、高位存在の家畜という結末を迎えるのだ。  それは、許せない。  許してはいけない。  人間のみならず、この星の全ての命のためにもだ。 「クァハ! オロカ……神であるワレへ歯向かうとは」 「ククク、馬鹿め」 「ナニ?」 「馬鹿め、と言っているのだ! 大馬鹿者め!」  最初に地を蹴り跳躍したのは、キジトラだった。  その手には今、逆手に握った愛用のナイフがある。  魔剣アゾットのような業物でもなければ、魔術的な処理を施されたものでもない。本当にごく普通のサバイバルナイフだ。  だがそれは、それこそが人類の英知の結晶。  知恵をもって道具を生み出し、力と技とで人間は使いこなしてきたのだ。 「人間風情がああああ!」 「その人間風情に、貴様は負けるっ! 神だなんだのたまうそれこそ、見るも巨大な死亡フラグ! だっ! ろぉ! がっ! よおおおおおおお!」  獣の咆哮にも似た、絶叫。  キジトラは、ニアラの翼から放たれる無数の焔を空中で避ける。驚くべき身体能力は、まるで黒き獄炎の雨に踊るようだ。  そうして彼は、ニアラの首筋へと刃を突き立てた。 「貴様ァ! 人間風情が、ワレに触れただと! 傷をつけただと!」 「……よし、こんなものか。エジー、いいぞ!」 「無視を! このワレを前に……許せぬ!」  キジトラの一撃は、刃の傷跡は小さい。  だが、全てを無言で証明していた……やはり、人間の力でもニアラを攻撃し、傷つけることができるのだ。ならば、倒せぬ道理はない。  キリコの剣閃が、舞い散る焔の礫を切り払う。  ナガミツの背中に守られながら、トゥリフィリも懸命に銃爪を絞った。  そして、離脱するキジトラと入れ違いに、ゆらりと影が走る。 「いい塩梅だねえ、キジトラ。なら……その一撃を、連ねて繋ぐ」  居合に構えたエグランティエが、軽くトンと床を蹴った。  縮地の極みで加速する彼女が、まるで点から点へと瞬間移動するように消える。  刹那、再びニアラの絶叫が空気を震わせた。 「ガアアアアッ! 同じ場所を! 寸分違わず、先程の……ただの掠り傷を!」 「一人一人は弱いかもしれない。人間はねえ、真竜ニアラ……弱くてもいいイキモノなのさ」 「馬鹿な! 摂理に反している……弱さとは、家畜を家畜足らしめている概念!」 「違うね……弱いからこそ、わたしたちは手に手を取って、みんなで立ち向かえるのさ」  キジトラの穿った傷を、エグランティエの剣技が広げた。  体液を吹き出す様を見て、やはりとトゥリフィリは頷く。己を神と名乗っているが、ニアラもまた竜……神竜とて、生き物なのだ。  だが、その力があらゆる生命を凌駕しているのを忘れてはいけない。 「おのれ家畜共! ワレの怒りに触れよ! 塵芥も残さず消し飛ばしてくれよう!」  ニアラの口が天地に分かれて開かれる。  その奥から煌々と輝く光が溢れ出て、それはあっという間に周囲を白く塗り潰していった。