ふと気付けば、トゥリフィリは見知らぬ土地に立っていた。風が吹き渡る草原は、よく晴れた蒼天に花吹雪が舞い散る。その色が鳴り響くように、たゆたう歌が満ちていた。  真っ赤な花びらが、風に乗って空の彼方へと消えてゆく。 「あれ、ぼく……ここ、どこ? あれは……フロワロ? そうだ、フロワロの花だ」  血のように赤い色は、ドラゴンの支配を示す徒花だ。  それが今、全て散ってゆく。  そして、風が吹く先へと視線を滑らせ、トゥリフィリは言葉を失った。  そこには、蒼い髪の少女が立っている。  後ろ姿だけでもわかる、儚げな印象の痩身。  彼女の名は、アイテル。  では、ここは東京なのだろうか?  だが、周囲の景色に見覚えはない。  トゥリフィリが混乱していると、アイテルは静かに言の葉を紡いだ。 「エデンの民、ルシェの娘よ。問いましょう」  酷く悲しげな、赤い風に消え入りそうな声だった。  そしてトゥリフィリは気付く。  アイテルの足元に、一人の少女がへたり込んでいる。大粒の涙を流して、泣いている。  泣きながら、歌を歌っているのだ。  そして、彼女の膝の上には、物言わぬ少年が頭をもたげて眠っていた。  否、既に事切れている。  すすけたマントの隙間から、フレームや人工筋肉を隠す包帯まみれの身体が見えた。  そして、その少年の名をトゥリフィリは知っていた。 「ナ、ナガミツちゃん!? え、まって……嘘。間違いない……ナガミツちゃんっ!」  必死で叫んだが、脚が動かない。  ただ、その場所に立ち尽くすしかできない。  見知らぬ少女に看取られて、既にナガミツは物言わぬ金属と樹脂の塊になっていた。いつもは自然な外観で、ごく普通の男の子にしか見えない人型戦闘機……それが今は、内部のメカニズムも顕で、そこだけがまだ生きてるかのように青い火花を散らしている。  汚れたナガミツの頬を、少女はそっと撫でていた。  そして、アイテルの声が哀切の念を帯びる。 「詩の紡ぎ手、スズラン。あなたがもし望むならば……私が可能性を示しましょう」  だが、スズランと呼ばれた少女は泣き歌うだけで、なにも反応を示さない。  そして、彼女の涙に濡れるナガミツは、瞼を閉じたまま動かなかった。  ぼんやりとだがトゥリフィリは、ここが今ではないような気がした。  そう、少なくとも西暦2020年の東京じゃない。  確か、自分は神竜の領域にて、神竜ニアラを打ち倒した筈だ。そのあと、仲間の魔女フレッサに導かれ、脱出のために光へと飛び込んで―― 「あ、そっか。ぼく、気を失って……これ、夢? ……でも、ただの夢じゃ、ない」  よく見れば、少し離れた場所でスズランを見守る一団がいる。  どことなく、シイナとノリトに似ていた。そして、二人の間に立って俯いているのはキリコだ。キリコにしか見えないが、セーラー服ではなく着物の羽織を身に着けている。  その三人もまた、去りゆくナガミツを見送り三者三様に泣いていた。  格好はどこか、中世ヨーロッパ風の甲冑姿や旅装のようである。  そして、アイテルは言葉を続ける。 「スズラン。あなたの説なる願いを、私は奇跡に変えることができます。運命調律の力で、ナガミツを定められた選択の刻、唯一つの過去へと揺り戻してあげましょう」 「……唯一つの、過去?」  ようやくスズランは、顔を上げた。  とても可憐な少女で、その美貌はまるで異界の歌姫のようだ。その頭には、狐のような耳がある。どうやら半獣人の類だが、マモノには見えない。  歌うのをやめ、スズランはぼんやりとアイテルを見上げていた。  そんな彼女に、アイテルの声がさらに優しくなる。  全てを赦すように、決まった返答を聞き届けるかのようなぬくもりに満ちていた。 「スズラン、あなたが斬竜刀に恋して焦がれた、その想いがあなた自身を導くでしょう。既に閉じた円環は解き放たれ、滅竜の輪廻のその先へ……彼方へと人は踏み出せるのです。その未来を切り開いた者には、奇跡の一つも許されるでしょう」  アイテルの言っている意味は、半分もわからない。だが、斬竜刀として戦ったナガミツは、戦い抜いて、戦い終えた……それだけはわかる。確信と言ってもいいし、根拠はないがそう強く感じるのだ。  そして、察した。  アイテルの言う奇跡とは、ナガミツの復活に違いない。  自らをヒュプノスの民と名乗る少女は、人知を超えた力を持っている。そう、既にこの世で二人ぼっちになってしまった、竜に滅ぼされし異星の姉妹……憎しみを宿したエメルと、愛に身を捧げたアイテル。  人が望んでも叶わぬ奇跡を、アイテルはスズランに授けようというのだ。  だが、スズランは静かに首を横に振った。 「既にもう、この星は救われました。やっと、ナガミツは戦わなくてもよくなったの。もう、辛く苦しい永遠を断ち切った……断ち切れた。だから、このまま眠らせてあげたい」 「……遂げられぬ想いを抱えて、これからも生きるのですか?」 「はい……ナガミツとみんなが、救ってくれたこの星で、生きます。想いは遂げずとも、詩になって溢れるから。その痛みすらも、ナガミツを想えば愛おしいんです」  トゥリフィリはすぐにわかった。  スズランは、ナガミツに恋していたのだ。そして、その気持ちを打ち明けることがなかった。自分よりも大切なものを、ずっと大事にしてきたのだろう。  そっとスズランは、ナガミツの頭を胸に抱く。  そして再度、今度ははっきりと「このまま、眠らせてあげて」と呟いた。  アイテルは、そんな彼女に頷く淋しげな微笑を浮かべるのだった。 「では、私の慈愛と慰撫でもって祝福しましょう……スズラン。あなたのような人の生きる星が守られて、本当によかったです」 「アイテル様……」 「私もまた、自らの愛が眠る場所に戻りましょう。もうすぐ消えて無に帰す身なれば……私もあなたのように、愛する人との最後の時間を大切にしたいのです」  アイテルが愛した男は、自ら己に竜の力を招いた。常軌を逸した痛みと苦しみを乗り越え、人の心を持つ竜の化身となって戦ったのだ。  その人がまだ、生きている……ここはそういう時間なのだとトゥリフィリは思った。  だが、不意に突然背後から気配が近付いてくる。  強い歩調で、誰かがトゥリフィリを追い越した。それは、和服に身を包んだ妙齢の女性だ。ルシェと呼ばれたスズランと同じ、獣の耳がピンと突き立っている。  彼女は、慌てて涙を拭うスズランを見下ろし、腰に手を当て仁王立ちで言い放った。 「ナガミツ! なんです、貴方は! 何故スズランを泣かせるのです……それでもキリ様と並び立つ斬竜刀ですか! 立ちなさい、立ってスズランを抱き締めるのです!」  突然のことで、アイテルもスズランも目を丸くしていた。  だが、その女性は語気を荒げているのに、どこか悲しげに喋り続ける。 「……そうですか。フィーのところに行くのですね。本当にナガミツ、貴方は馬鹿です。大馬鹿者です。愚直なまでに真っ直ぐで、不器用でも自分を曲げられない……そういう貴方は、確かに斬竜刀でした」  そう言って彼女は、突然トゥリフィリを振り向いた。  自分が空気のように透明な存在だと思っていたので、目と目が合ってトゥリフィリは驚く。とても綺麗な、どこか老成した瞳に星の海が潤んでいる。  和装の女性は、徐々に狭くなるトゥリフィリの視界の中で、はっきりと言い放った。 「今、滅竜の輪廻は無限の螺旋を抜け出て天へ……永劫への回帰のその先は、無限に広がる可能性。まだ貴女たちからは見えない、手に入らない未来です。ですが」  ――望んで求め、絶望せずに手を伸ばして。  そう言って、その女性は泣きながら笑った。  急激に意識が現実に引き戻される中で、トゥリフィリはその人の名を叫んだ気がする。なんと言ったか自分でもわからぬまま、身を声にして呼びかけた。  名も知らぬその人は、最後に大きく頷いた気がするのだった。