かつて竜の巣だった迷宮を、走る。  トゥリフィリは不思議と、ナガミツのことが全く心配にならなかった。以前は、もっと危うくもろい印象があった。機械の肉体を持った鋼の防人が、酷く繊細に思えたのだ。  だが、今は違う。  数多の戦いをくぐり抜け、彼は成長したのだ。  自分を機械の備品扱いしていたナガミツは、今はもう遠い過去へと去ったのだ。 「フィー、こっちこっち! この奥に部屋があるっぽい」  シイナがフリルとレースを揺らしながら、抜きん出た。  地図を片手に、彼女は迷わず進んでゆく。  そして、ついに迷宮の最奥に続く扉をトゥリフィリは開け放った。瞬間、周囲の景色が一変してしまう。  まるで、そこだけ以前の二条城が残っているかのような、錯覚。  広い和室の大広間には、身なりの良い男たちが大勢集まっていた。 「え……なに? なんで、こんな場所が」  そう、一言で言うなら……まるで宴会場だ。  老いも若くも皆、着飾ってそこかしこで酒を飲んでいる。膳には豪勢な料理が並び、着物姿の女給たちが甲斐甲斐しく働いていた。  セレブでVIPな雰囲気が満ちてて、誰もが静かに楽しんでいる。  それは、以前は帝竜が居座っていた迷宮とは思えぬ雅ささえ感じられた。 「ほう? まさかこんな馬鹿をやってる連中がいるとはな。呆れたものだ」  キジトラも流石に、違和感に驚きを隠せない様子だ。  トゥリフィリも同じで、先程の本土決戦旅団なる兵隊たちとのギャップもあって、現実感がなかなか働いていくれない。そう、ここはまるで別世界、そして異世界だ。  だが、二人の前に立つシイナがギュムと両の拳を握った。  そして、享楽にふける男たちがこちらへ振り返る。 「おやおや、これはこれは……余興にしてはなかなかの上玉が」 「マキシマ大佐もなかなか気が回る。ささ、こっちに来てお酌をしなさい」 「神代の血筋とはいえ、貧相な異形の小娘ばかり相手にしてては気が滅入りますからな」  男たちは皆、穏やかな表情をしていた。  立派な紳士たちだが、その言葉に紳士的な態度は感じられない。  そして、トゥリフィリも強烈な嫌悪感の正体に気がついた。  その時にはもう、シイナは無言で歩を進めている。先程までの緊張感のなさ、たとえ戦闘中でものほほんとしていた彼の気配が、鋭く尖っている。  純然たる怒りを燃やして、それを隠そうともしない。  奥歯を噛む音、握った拳の中に食い込む爪の痛みまで伝わってきそうだ。 「ささ、お人形みたいなお嬢ちゃん。こっちにおいで」 「こちらの方は、さる財団の総裁をされててね。君、お眼鏡にかなえばどんな望みも思うままだよ? さあさあ」 「ははは、流石に社長さんはお若い。……おや? ははあ、こういう趣向ですか」  むこうは、シイナが男だと気付いたようだ。  だが、それでも微笑みを絶やさず、中には嬉しそうに破顔一笑する者までいる。その中の一人が、そっとシイナへ手を伸べた。  無言でシイナは、その男を蹴り飛ばした。  無造作に突き出した、ただ軽く押したような蹴りだ。  それでも、S級能力者としての加減を少し欠いていた。そのあたりの配慮はいつも、気をつけているのがシイナという少年なのに……男は派手に吹き飛んで転がった。 「なっ……君ぃ! なにをするのだね? ええ?」 「……そういうオジサンこそさあ。なに、してるの?」 「なにって……見ての通りだ。知ってて来たんじゃないのかね!」 「うん、知ってた。っていうか……ちょっと、予想してた。当たらなきゃいいなって、思ってた予想。んー、わたしさぁ……こういう集まりにハマってた時期もあるんだよね」  怠惰と堕落が可視化された部屋。  コロンと酒の香りが隠す、酷く湿った臭い。  男たちは誰もが、多幸感の中でゆったりとした時間を過ごしていた。  その中を突っ切り、シイナはどんどん奥へとゆく。  何度も何度もふすまを乱暴に開けて、最後には蹴破って進んだ。  追いかけるトゥリフィリが怖くなるくらい、シイナは激怒に身を震わせていた。 「フィー、こっちは俺様が見ておこう。シイナを」 「あ、うん。一応、ここの人たちは」 「非戦闘員だが、それだけに質が悪い。シイナの怒りももっともだ……だが、暴走はいかん。胸糞悪いものを見せるようですまんが、たのむぞ」 「……やっぱり、そういう感じか」  トゥリフィリも察した。  救うべき仲間は、ここにいる。ここが目的地だったのだ。そして……ここでなにが行われているかを、もう理解しつつある。  思わず込み上げる酸味に、トゥリフィリは口元を手で覆った。  吐き気をもよおすほどの邪悪とは、竜でもマモノでもなく、人間。なんてありきたりでチープな現実だろうか。だが、とびきりB級で三文小説な現実は、酷く堪える。  慈悲無き世界の中に今、キリコは沈められているのだ。 「っと、シイナ? 待って、駄目っ! その人たちを傷付けちゃ駄目だ!」  周囲に睨みをきかせるキジトラを置いて、さらにトゥリフィリは進む。  そう、ここにいるのは無力な普通の人間だ。そして、ちょっと普通ではない狂気に身を委ねている。皆がいい身分の大人で、富と権力を持つ者特有の余裕を持っている。  そして、そんな自分にあらゆることを許す傲慢さが見て取れた。  そんな男たちがキリコになにをしているか、考えるまでもなかった。  一番奥の部屋で悲鳴が響いて、トゥリフィリは歩調を強く速める。 「シイナッ!」 「……ん、だいじょぶ。そこまで逆上してないし」 「そっか。……よかった。ぼくたちは、普通の人を傷付けちゃいけない。けど」 「うん……傷付ける価値もないなって、思ったし。でも、でもさあ……」  全裸で男が、布団から這い出して逃げていった。  今は彼の番で、その最中にどうやら乱入してしまったようである。  そして、屈んだシイナがそっと抱き上げたのは……同じく裸のキリコだった。華奢なその姿は、以前より少し痩せたように見える。  目を覆いたくなるようなその姿に、トゥリフィリも駆け寄った。 「シイナ、これを……ッ!」  急いでシーツを剥ぎ取り、裸のキリコを包んでやろうと思った。  だが、パリパリと乾いた体液と一緒に、赤い染みが無数に純白を汚している。そのコントラストが、この場の凶行の全てを物語っていた。  シイナが自分のエプロンドレスを引き裂き、脱いでキリコを覆う。  無駄な贅肉のまったくない、鍛え抜かれた細身の肌が晒された。可憐で小悪魔な容姿が鳴りを潜め、そこには友人への陵辱に憤る少年がいるだけだった。 「キリちゃん、帰ろっか……東京へさ」  意識のないキリコを両手で抱き上げたまま、シイナが振り返る。  無理に笑ったいつもの笑顔に、トゥリフィリも黙って頷くしかできなかった。  だが、ようやく先程の宴会場では危機感が働き始めたようだ。  慌ただしくなる中で、ぞくぞくと兵士たちが集まりつつある。 「うん、帰ろう……こんなとこにいちゃ、駄目だ。ナガミツちゃんもみんなも、待ってるよ。待ってる、から」  これが、太古の昔から日本を守ってきた血族の宿命、宿業なのだろうか? だとしたら、トゥリフィリはそんなことは認めない。断じて認められない。  命を顧みずに神剣となって戦う、それが献身だというのなら。  ならば、その大義のために犠牲になる者がいてはならない。  犠牲が前提の行為は、献身ではないのだ。  だから、涙を堪えてトゥリフィリは振り向く。  狼狽える男たちの中をかきわけるように歩けば、武器を手にした兵隊たちが思わず気圧される。自分でも気付かぬうちに、トゥリフィリは瞳に怒りを燃やしていたのだった。