トゥリフィリの背筋を、鋭い悪寒が擦過する。  まるで、背骨が引き抜かれてゆくような感覚だ。  その不快感に抗いながら、彼女はしっかり前を、上を向いて銃を構える。その眼差しの先に、凍れる闇の炎がゆらゆらと揺らめいていた。 『ほう、我に挑み来るか……家畜もニアラごときを倒したことで、随分と増長したものよな』  心胆を寒からしめる、声。  その主は、自らを真竜フォーマルハウトと名乗った。宇宙の摂理、その化身である。  だが、その全てを否定しなければいけない。  例えいかなる強敵でも、トゥリフィリたちは抗わなければいけない。  そう、本能と理性が同時に認めざるを得ない、絶対なる外敵、害悪……それが真竜。 「――よしっ、ナガミツちゃん! やるよっ!」 「おうっ!」  目の前にあるナガミツの背中は、いつもと変わらぬ頼もしさを感じた。彼が守ってくれるから、トゥリフィリは自分の力を極限まで出し切ることができる。  限界を超えた先へさえ、ナガミツと一緒なら怖くない。  そして今、その信頼を力に変えて戦う時が来たのだ。  だが、ちらりと背後を振り返る。  そこには、蹲って頭を抱える泣き顔があった。 「ダ、ダメ……こら、そういうとこだぞアヤメ……戦わ、なきゃ……わたしも、たた、か」 「アヤメちゃん……」  アヤメは既に、戦意どころか平常心まで失いかけていた。  無理もない……彼女にとって、これが初めて見る本物の竜なのだ。シミュレーションシステムを用いた訓練じゃない、これは実戦。そして、命のやり取りになる。  アヤメの歌と踊りがあれば、どんなに心強いだろうか。  彼女の力は、カリスマ性Sランク。その場の空気を支配し、人の心を高鳴らせる魅力が持ち味だ。それをアヤメは、駆け出しネットアイドルとして培った表現力で広げてくれる。リズムとビートが満ちれば、トゥリフィリやナガミツの戦いはテンポアップするのだ。  だが、それも今は望めない。  そして、欲しては駄目だとトゥリフィリは自分に言い聞かせた。 「アヤメちゃん?」 「は、はいぃ! だ、大丈夫です! わ、わわっ、わたしは大丈夫……す、すぐに」 「うん、アヤメちゃんは大丈夫。それに、ぼくやナガミツちゃんだって。だからね」  一度アヤメに向き合い、トゥリフィリはフォーマルハウトに背を向けた。  完全に隙を見せたことで、自分へ向けられる殺意が渦を巻く。その見えない奔流を叩きつけられてなお、トゥリフィリは静かに微笑んだ。  そして、ナガミツの眼光が敵をねめつけ抑え込む。 「大丈夫だよ、アヤメちゃん。だから、無理しないでね」 「むっ、無理なんて……だ、だってわたし! わたしもっ!」 「そう、アヤメちゃんも13班の大事な仲間だよ? だから……ぼくが、守る。必ず」 「フィー……で、でも」 「ぼくに任せて。アヤメちゃんも今、必死で戦ってる。抵抗してる。なら、ぼくが守るよ」  すかさず、肩越しに振り向くナガミツが「ぼくたちが、だろ?」と不敵に笑う。  そう、いつだってトゥリフィリは守ってきた。戦えぬ者をこそ守るため、我が身を刃に変えて戦ってきた。仲間たちもみんなそうだ。  それをヒュプノスの民エメルは、狩る者と呼んだ。  悲しい運命だと、アイテルは泣いたのだ。  だが、トゥリフィリはそうは思わない。  自分はただの女子高生で、普通の人間だ。  ただ人間であるだけで、彼女には十分なのだ。 「やるよっ、ナガミツちゃん! 最初から全力全開、一気にいくっ!」 「上等ぉ! 見てな、アヤメ……お前を泣かす奴ぁ、俺がブッ潰す!」  ああいうのは多分、キジトラと触れ合ってきた中で覚えたのかもしれない。時々トゥリフィリには、ナガミツが年相応の男の子に見える。人形戦闘機でもなく、斬竜刀でもなく……ただの友達、同級生みたいに感じることがあるのだ。  そしてそれは、間違っていないと思う。  そうあっていい未来のために、今は明日を切り開く時だ。 「先手必勝っ――これでっ!」  足元を蹴り上げ、馳せるように翔ぶ。  瞬発力を爆発させたトゥリフィリは、敢えてフォーマルハウトの眼前へと我が身を押し出した。攻撃は最大の防御であり、今は自ら守りを選択する局面ではない。  そして、意表を突くことで戦いのイニシアチブをもぎ取る必要があった。 『ほう? そんな玩具を手になにをするかと思えば……特攻、愚かなり』 「お前たち真竜はね、それ! その驕りと傲慢! 隠しもしない不遜なありかたが……それこそが、お前たちの弱さだっ!」 『弱さ、だと? この我に……小娘ェ!』 「怒りは、ぼくの言葉を裏付けるだけ……お前たちにだって、弱さがあるんだ!」  手にした二丁拳銃が、交互に銃声を歌う。  飛び道具を持つ後衛がまさか、一番前に突っ込んでくるとは思わない筈……そもそも、戦いにすらならないと踏んでいるところに、容赦なくトゥリフィリは漬け込んだ。  容赦はしない、手加減なんてもってのほか。  この世で唯一、躊躇いも迷いもいらない銃弾が無数に放たれた。  そして、その時にはもう……さらに前にナガミツがいる。 『なっ……いつの間に!? この我に振れるか、家畜の分際でェ!』 「その台詞、聞き飽きたぜ……ッ! 一発で決めてやるっ!」  トゥリフィリのばらまいた弾丸が、見えないなにかに弾かれる。真竜ともなれば、その力は無意識に自分を守る障壁を巡らせているのだろう。そもそも、幽鬼の如く空中に揺れるあの姿が、フォーマルハウトの本体とは思えない。  ならば、引きずり出す。  そのためにトゥリフィリは突出したし、その時既にナガミツは肉薄していた。 「見えたぜ、フィー! おらっ、そこだぁ!」  ナガミツの格闘術は、針の穴をも通す精密さを持っている。力と技とが、厳しい戦いの中で多くの者たちに磨かれていった結果だ。その拳に、蹴りに……破れて散った全ての命が宿っているのだ。  鋭く穿ち貫くような飛び蹴りが、フォーマルハウトの鉄壁の守りを突き抜ける。  トゥリフィリの射撃が、敵の防御に特定の波長があることを浮かび上がらせていた。阿吽の呼吸でナガミツは、銃弾がより深く刺さって消えた場所を突き抜ける。  ――かに、見えた。 『フ、フハ……フハハハハハ! 愚か! 狂おしいまでに愛しき、救いがたい愚かさだ!』  ナガミツの蹴りが深々と突き刺さり、致命打を与えたかに見えた。  だが、まるで侵食するようなおぞましい黒炎が彼を包む。全身の熱を振り払うようにして、ナガミツは悲鳴を噛み殺しながら着地して飛び退いた。   それを見て叫んだつもりが、トゥリフィリは声が出ない。  突然、自分の全身が思うように動かなくなっていた。  ただただ、黒く汚れた空がグルグルと視界の中で回っている。  見えぬ力がいとも容易く、トゥリフィリをスカイタワーの天井から放り出したのだ。一瞬の出来事で、攻撃を受けた痛みさえもあとから全身を貫いてくる。フォーマルハウトの動きが全く察知できず、重力に捕われトゥリフィリは落下し始めた。 「フィーッ! クソがあ、手前ぇ……次はブッ飛ばす」 『愉快! 実に愉快! これぞ至高の愉悦よ……家畜の無様な姿、実に愛らしい!』  落ちる、墜ちる、堕ちる……呼吸さえできない空気圧の中を、猛スピードでトゥリフィリは落下していった。  ぼやけて霞む視界に、最後に一機の軍用ヘリコプターが見えた、それが彼女の最後に見た光景だった。