新たな戦いが今、始まった。  今度で最後にする、終わりにするとトゥリフィリは心に決めている。  同時に、その次、次の次の戦いが来ても……きっと逃げない。  そんな覚悟さえ確かで、気持ちを共有する仲間たちがいてくれる。そこにナガミツの姿がまだなくても、想いは同じだと確信することさえできた。  だから、そうでない者がいても決して責めない。  責めはしないが、自分で自分を責めてる少女が気がかりだった。 「あれっ? ゆずりはちゃん?」 「あっ、フィー。お疲れ様。あ、あの、カネ――ううん、ナガミツは、大丈夫?」 「んー、まだ顔も見せてくれないけど、多分平気。けろっと返ってくるよ」 「……そう、だね。うん、きっとそう」  ムラクモ機関の構成員にあてがわれた居住区の、その奥でトゥリフィリはゆずりはに出会った。彼女はそっと、廊下の曲がり角から先を隠れて伺っていた。  その先にある部屋は、今まさにトゥリフィリが向かおうとしていた場所である。  誰もが強くはないし、強くなれる訳でもない。  ただ、最初から強い人間だっていなかったのだ。  そのことだけを、新たな迷宮に出発する話したかった。 「フィー、あまり無理、しないでね? はい、これ」 「んっ、ありがと。わわ、チョコバーだ。貴重品っ!」 「御徒町の方で、まだ無事な倉庫があったから」  ゆずりはは、両手に抱えていたお菓子を一つトゥリフィリにくれた。  拠点を国会議事堂に移したことで、より多くの避難民を保護できるようになったムラクモ機関。だが、物資はいつでも慢性的に不足している。自衛隊もバックアップしてくれるが、なにもかもが足りないというのが現状だ。  だから、ゆずりはたち物資回収班の任務は重大だ。  使えるものならなんでも拾ってくる、その全てが命を明日へ繋ぐのだ。  トゥリフィリは受け取ったチョコバーをしばし見詰め、一人の少女を思い出す。そして、開封しようか躊躇ったが、結局あとでの楽しみにとポケットにしまった。 「ゆずりはちゃん、それで……アヤメちゃんは」 「ずっと、部屋に閉じこもってる。食事もろくにしてないみたい」 「むー、そうかあ」  同じ13班の仲間、アヤメを見舞おうと思ったが、少し無理みたいだ。  アヤメは、あの恐るべき真竜フォーマルハウトに至近距離で接敵したのだ。トゥリフィリだって、あの時のことを思い出すと震えが止まらない。  恐懼の権化、この世の闇を凝縮したかのような冷たい敵意。  フォーマルハウトに対して、トゥッリフィリはなにもできなかった。  ナガミツがいてくれなければ、地面に激突して死んでいたかもしれないのだ。  だから、アヤメを責めにきたのではない。  さりとて、頑張ってとか立ち上がろうとか、そういう言葉も持ち合わせていない。  ただ、顔を見たかっただけである。 「こんなときね、フィー。……カネミツが、言ってた」 「えっ? カネミツちゃんが?」 「ごはんは、絶対に食べたほうがいいって。ふふ、カネミツは消化できるものが限られてるから、それを言い訳に凄い偏食なの」 「そっか。そうだね、せめて食事だけでも」  その時だった。  不意に背後で「その通りなのですっ!」と大きな声が響いた。  通りが良くて、瑞々しく清涼感に満ちた声音。  無駄に自信がみなぎっている、その声はアダヒメだった。  振り向くと、彼女は手にしたトレイに山盛りのおむすびを乗せて立っている。ふんす! と鼻息も荒く、彼女はトゥリフィリとゆずりはを追い越し角を曲がってゆく。  慌ててトゥリフィリは、その背を追いかけた。 「アッ、アダヒメちゃん! 今は、もう少しだけ……もうちょっとだけ、そっとしといてあげて」 「駄目です。いけません」 「……みんな、アダヒメちゃんみたいに強い人ばかりじゃ、ないから」 「当然です。……わたしみたいな人間が、これ以上いてはならないのです。だから」  見上げる横顔は何故か、妙な気迫に満ちていた。  そして、凛々しい視線がどこか遠くを……今ではない場所を見通しているかのように細められている。以前から不思議で不可思議な雰囲気を纏っているが、アダヒメは基本的にわかりやすい人間で、どうやら小さな憤りを抱えているようだ。  だが、それを今のアヤメにぶつけられるのは、嫌だ。  荒療治は最後の手段で、まだアヤメには自分で立ち上がるための猶予が必要なのだから。  しかし、ノックして返事も待たずに、アダヒメは部屋のドアを開け放つ。 「おはようございます! アヤメ、わたしです。アダヒメです」  ゆずりははもう、あわわとお菓子の山を抱えて狼狽していた。  あちゃー、と手で顔を覆いつつ、仁王立ちのアダヒメの影から顔を出す。 「やっほー、アヤメちゃん? 具合、どう?」  アヤメは、ベッドの上にいた。  壁を背に、膝を抱えて顔を伏せている。  思ったよりも重症で、それも無理からぬことだ。彼女は、宇宙の摂理に触れてしまったのだ。万物の霊長たる人間が、宇宙の支配者たちから見ればただの家畜という、残酷な現実を叩きつけられたのである。  しかも、その摂理の頂点に君臨する真竜フォーマルハウトに直接だ。 「アヤメ、食事を取ってないとききました。お腹は減っていませんか?」  アダヒメの声は、はきはきと張りがあって、そのまま不意に優しく柔らかくなった。てっきりアヤメを問い詰めるのかと思われたが、彼女はトレイのおむすびを一つ手に取り、アヤメに歩み寄って差し出す。 「わたしが握りました。初めてでしたので、不格好ですが……よかったら食べてください」 「……いい。いらない」 「よくはありません。梅とおかかと、鮭と昆布、あとはハムマヨネーズとマシュマロがあります。わたしのおすすめは――」 「いらないよ、そんな……わたし、役に立てないもの」 「役に立つかどうかは関係ないのです。ただ……お腹が空いていると、歌えません」 「もう、歌えない。歌で世界を救うなんて……最初からわたしには、無理だったんだ」  顔を上げたアヤメは泣き腫らした瞳から大粒の涙を流していた。  トゥリフィリは、胸が締め付けられる思いで思わずシャツを鷲掴にする。そのまま心臓を握って、動悸を鼓動ごと止めたくなるくらいだ。  だが、同時に奇妙な期待がある。  何故か、アダヒメはまるで慈母のような微笑みを浮かべているのだ。 「歌では世界は救えません。救えるならもう、わたしがやっています」 「そうだよぉ……アダヒメさんみたいな、強い人でも無理……まして、わたしなんて」 「――アヤメ。歌で世界は救えませんが……世界に生きる人たちを守れます。なによりアヤメ、あなた自身を救うことができるんです」 「……ふぇ!? それって、どういう意味、モガッ!?」  意外な言葉に、ハッとなったアヤメ。  その開いた口に、容赦なくアダヒメはおむすびをねじ込んだ。  あわわとゆずりはがいよいよ慌てたが、逆にトゥリフィリは奇妙な安堵を覚えた。  やり方はともかく、アダヒメが見ているのは竜災害でもS級能力者でもない。彼女やエメル、アイテルが言う狩る者でもない。  ただの歌い手として、共に歌う者に語りかけているのだ。 「アヤメ、何味ですか?」 「……なんで? どうして、わたしなんか」 「なんか、ではありません。アヤメ自身にまず、あなたが必要です。歌も踊りも、あなたが自分のために始めた、そして培ってきた。だからこそ、あなたのためにまず、あなたが元気にならなくては」 「う、ううっ、でも……うん、でも」 「焦る必要はありません。ゆっくりやすんで、食事をしっかり摂るのです。いいですね?」 「……うん。うん……でも……なんで、おにぎりの中に……いちごグミが」 「いつだって物資は足りていないのです。……少し、変だったでしょうか」  もう、任せても安心だと思った。なにより、ゆずりはがもう大丈夫だと視線で頷いてくれる。あとのことを彼女に任せて、トゥリフィリは出発することにした。  再び人類は、竜災害によって地球の全てを失った。  それを取り戻す最初の一歩が、トゥリフィリたち13班によって踏み出されようとしていたのだった。