悲鳴は確かに鳴り響いた。  そして再度、先程よりはっきりとトゥリフィリの鼓膜を突き抜ける。  悲痛な叫びへと走れば、自然と彼女は国会議事堂のエントランスから外に飛び出していた。そこには、想像だにしなかった光景が広がっていた。 「なっ……こ、これは!?」  人が、溶けている。  肌も肉も爛れて、白煙にまみれた避難民たちが悶ていた。  まるで取り憑かれたように踊り狂う、その全身が痛みを叫んでいた。  その原因が、ぽたりとトゥリフィリの肌にも零れ落ちる。 「痛っ! 雨? 違う、これ……嘘、そんなっ!」  身を焼くような、灼熱の雨が降り注ぐ。  それは冷たいのに、あっという間に肌へ痛みを広げていった。  高濃度の硫酸か、それに類する溶液だ。  それが今、雨となって東京都に降り注いでいるのだった。  あとから追いついてきたナガミツが、すぐに詰め襟を脱いでトゥリフィリの頭に被せた。 「ナガミツちゃん!?」 「被ってろ、フィー! 俺は全身にコーティングがしてあっから、多少は持つ!」  ナガミツは酸の雨の中を、走る。  すぐにのたうち回る数人を担ぎ上げて、そのまま最短距離で国会議事堂へと戻っていった。トゥリフィリもまた、相棒の上着を被ったままでレスキューに走る。  どうやら、S級能力者の肉体には影響が少ないようだ。  だが、常人が触れれば瞬時に溶解する、そういう猛毒の雨が降り注いでいる。  あとから駆け付けたカルナも、即座に飛び出したが悲鳴を噛み殺した。 「ッ! だ、駄目だ……アタシじゃ、A級の力じゃ、この雨は」 「大丈夫っ! カルナちゃん、手伝って! エントランスまではぼくたちが運ぶから、そこから医務室へお願い!」 「トゥリフィリ……班長。し、しかし」 「平気だよっ。能力の有無は関係ないから。今は、やれることをやるだけ!」  納得したように頷き、カルナは再び走り出す。  すぐにキジトラやシイナといった面々も飛び出してきた。  その時にはもう、国会議事堂前の広場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。  人が生きたまま、溶かされていた。  特に、陽を浴びようと外に出ていた年寄りたちが逃げ遅れた。  トゥリフィリの目の前でも、人間がバターのように溶けていく。  手を伸べてももう、握り返してくる姿はない。 「クッ、こんな……こんなことって!」  悔しさに奥歯を噛みしめれば、ギリリと怒りが鳴る。  どうにか助けられる者だけを救出したが、数十人もの避難民が犠牲になった。そして、助け出した者たちにはこれからさらなる地獄が待っている。  今のムラクモ機関には、大規模な治療を行う余裕は限られている。  顔を、手を、全身を灼かれた者たちの痛みを思えば、平静ではいられない。  トゥリフィリたちは国会議事堂の中から、振り始めた酸の雨を黙って睨むしかできなかった。周囲には嘆きの悲鳴が満ち満ちてゆく。 「痛い、痛いいいいい! 私の顔、顔が」 「指が、ないんだ……俺の指、全部、溶けて消えて」 「ママー! ママ、どこー!? なにも見えないの、なにも……ママッ!」  誰もが悲痛な沈黙に俯いた。  そして、新たな戦いが始まろうとしている。  否、もう既に始まっていたのだ。  ただ一匹の帝竜を葬っただけでは、竜災害には勝てない。  今回も真竜フォーマルハウトによって、七匹の帝竜がこの帝都に解き放たれたのだろう。その中の一匹が、この天変地異を引き起こしていることは明白だ。  もうもうと煙が立ち込める往来では、フロワロの赤黒い花びらだけが平然と咲き誇っていた。 「とにかく、エメルさんに報告しなきゃ! みんなは議事堂の各フロアをチェックして。雨漏りしてる場所があれば、ミヤさんに連絡!」  唖然としていた仲間たちも、すぐに機敏に動き出す。  この国会議事堂は、非常時のために緊急避難場所としての機能を隠し持っていた。地下は核シェルターを兼ねているし、各フロアも見た目からは想像できないほどの防備で固めてある。  だが、無限に降り注ぐ酸の雨に対して、いつまで耐えられるか。  はたと振り返れば、避難民たちの不安げな表情があった。 「そんな……ただでさえ、外はマモノがいて危険なのに」 「今度は雨? 俺たちを溶かす雨……」 「竜は、ドラゴンは我々を本当に根絶やしにする気だ!」 「もうダメだ! 今度こそ終わりだっ!」  悲観が嘆きを連れてきて、一瞬で恐懼の見えぬ闇が広がる。  警備に立つ歩哨の自衛官たちでさえ、暗い表情で固まっていた。  トゥリフィリにも、流石に強酸の雨とは戦えない。今はまだ、なにがこの雨を降らせているのかがわからなかった。  懸命に助けた者たちが運ばれてゆくのを、ただ黙って見守るしかなかった。  足元で声がしたのは、そんな時だった。 「ねえねえ、13班のおねーちゃん。……わたしたち、死んじゃうの?」  小さな女の子が、ぬいぐるみを両手で抱き締めながら不安げに見上げてくる。その目が大きく潤んで、今にも涙がこぼれそうだ。  トゥリフィリは膝に手を当て屈むと、そっと少女の頭を撫でる。 「ん、大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫……今すぐには無理でも、かならずなんとかするからね」 「ホント?」 「うん、約束。ぼくたち13班が……ムラクモ機関がみんなを守る。かならずまた、お外で遊べるようにしてあげるからね」  ようやく少女は、笑顔を見せてくれた。  だが、今も多くの人が不安に苛まれている。もともと国会議事堂での避難生活は、決して楽なものではない。見えないストレスが蓄積していたところに、この雨はトドメになりえるダメージを与えた。  精神的にも辛い。  天に見放されたとは、まさにこのことかもしれなかった。  だが、天地がひっくり返ろうとも、民を守って竜を狩るのがムラクモ機動13班だ。  手を振り去ってゆく少女を見送り、トゥリフィリは立ち上がる。 「……よしっ! ナガミツちゃん! みんなも! 会議室でエメルさんたちと対策を話し合おう。この異変……必ず近くに帝竜がいて、その力が引き起こしてると思うから」  誰もが、トゥリフィリの言葉に大きく頷く。  救助活動が一段落した中、敢えてトゥリフィリは外の光景へと一歩を踏み出した。  ナガミツやキジトラも、並んで白煙に満ちた風景へ目を凝らす。  助けきれず、この灼けた大地と一緒に溶けてしまった人たち。  救いきれなかった命がまた、伸ばした手から零れ落ちた。  指の隙間を縫うようにして、零れてしまったのだ。  そのことを心に刻んで、決意も新たに気合を入れ直す。  そして、気付けば隣に玲瓏な横顔が怒りを燃やしているのに気付いた。 「……決して許しません。このわたしには、許せませんわ。何度でも、繰り返し幾度でも。果てて消えるまで、わたしが因果の彼方まで追い詰めてやりますの!」  そこには、珍しく真剣な表情で唇を噛むアダヒメの姿があった。  着物姿のその美貌を見上げて、不思議とトゥリフィリには奇妙な因縁を感じた。幾度も夢の中に現れ、過去や未来のアチコチに足跡を残すルシェの美女、アダヒメ。その瞳に燃える暗い炎が、今はとても物悲しく見えるのだった。