トゥリフィリはその日、眠れぬ夜を過ごした。  悲観にくれる泣き声のように、外の雨音が鼓膜を侵食してくる。まるで国会議事堂だけでなく、トゥリフィリの決意と覚悟まで溶かしてくるみたいだった。  だから、つい……その夜は、ナガミツの背中に張り付いて強引に睡魔を呼び込んだ。  ひんやり冷たくて、小さな音と振動が響く硬い背中。  不思議と落ち着いて、気がついたら朝になっていた。 「キリノさん、おはようございます。カジカさんも」  着替えてすぐに、研究室へと顔を出した。  そこには、眠そうな顔で微笑むキリノの姿がある。肩を竦めるカジカの横で、彼は少しだけ普段の頼れるキリノに戻ったように見えた。  そして、それが完全でなくてもいいし、急ぐ必要はない。  ただ、トゥリフィリにとってはキリノ自身が自分で選んでくれたことが救いだ。キリノは再び、絶望の中で人類のために自分の戦いを始め直してくれたのだ。 「やあ、フィー。ちょっといいかな? なんとか形になったんだ」 「シロツメクサちゃん、ちょっと聞いてよー? 完徹だって、徹夜! いい仕事の大敵なんだけどねーえ? 徹夜なんてのはさあ」 「カジカ、時としていい仕事よりも必要とされるのがスピードなのさ」 「傷もまだ直ってないんだかーらさあ? 無理しなさんなよ」  よろよろとキリノは、くたびれた白衣を引きずるように歩いた。そして、研究室の奥からコートのようなものを取り出した。光の反射で七色に光るが、基本的には無色透明、ビニールの雨合羽みたいである。 「これは、ナノコート。恐らく帝竜と思しき末端細胞を解析した、いわばアンチアシッドマテリアルでできてるんだ」 「凄い……これを一晩で?」 「ま、まあ、まだ数十着しかなくて。13班はメンバーを厳選して、三人に着てもらう。あとはサポートの自衛隊に回すよ」 「は、はいっ!」 「それで……相談なんだけど」  ナノコートを作業台に置いて、もじもじとキリノが俯きながら呟く。  なんだか要領を得ない言葉が出たりひっこんだりで、思わずトゥリフィリは首を傾げる。みかねたカジカが口を挟んだのは、そういう微妙な空気のさなかだった。 「シロツメクサちゃん、疲れてるじゃない? そーろそろちょっち、休んだ方がいいねえ」 「そんな……ぼく、大丈夫です。ようやく帝竜まで進めるかもしれないのに」 「周りはみんなねえ、大丈夫じゃないのよ。見ててハラハラもするし、心配なの」 「そんな」  確かに疲労を感じてはいる。  だが、それはムラクモ機関の皆も同じだ。  そして、ドラゴンの攻撃は待ってはくれない。今も酸性雨にさらされた国会議事堂は、ほころびゆく中で悲鳴をあげているのである。 「……ぼく、そんなに危なっかしいですか?」 「危なっかしいっていうかねえ、うん。頑張り過ぎてる子を見ると、おじさん切なくなっちゃうのよね」 「こ、この帝竜が……六本木のダンジョンが片付いたら、少し休みます」 「シロツメクサちゃんもわかってるだろ? 一段落と一休みを繰り返してちゃ、消耗してゆくだけだよ。戦士には休息も必要で、休むのも仕事ってことなんだ」 「でも」  カジカの言うことは正論で、その上に気遣いと思いやりに溢れている。  そして、周囲の者たちにとっては言い難いことだったのだろう。だからこそあえて国にしてくれる、言葉で伝えてくれる……それもまた、カジカの優しさだった。  だが、既に酸性雨対策のアイテムは完成したし、活路は開けた。  一刻も早く六本木に戻って、帝竜を討伐すべきである。  トゥリフィリは勿論、皆と前線に立つつもりでいたのだ。  キリノも心配そうに見詰めてきて、思わず目をそらしてしまう。 「フィー、残念だけど戦いはまだまだ続く。ここで勝っても次がある……13班を率いるリーダーとして、時には任せて見守るのもいいと思うんだ」 「キリノさん……」 「君は、怪我で自暴自棄になってた僕を助けてくれた。無理に戦わなくてもいいって言ってくれたんだ。だから」  理屈はわかるが、やはりトゥリフィリは納得できない。  どうにか自分の気持ちを言葉に乗せようとした、その時だった。  遅れてやってきたナガミツが、他のメンバーと共に研究室に入ってきたのだった。 「フィー、キリノたちの言ってることは正しいぜ? 疲れてるだろうがよ」 「ナガミツちゃん……」 「ただな、俺はこうも思う。正しいだけの言葉、ちゃんとした優しさも大切だけどよ……フィー自身の気持ちも同じくらい大事で、なんとか折り合えないかっていうか」  もともとナガミツは不器用な少年だ。  最先端の科学技術で作られた人型戦闘機なのに、見た目相応の同年代に見えることが多々ある。  ただ、不器用だからこそ、実直な正直さ、純朴で純情な飾らなさが伝わるのだ。  そこにトゥリフィリはいつも、最近は相棒以上のものを感じていた。  そして、他の仲間たちも口々に声を発する。 「班長はこう見えて頑固だからな……フハハハ、よかろう! このオレ様が完全にパーフェクトなフォローで守ってやろう!」 「フッ、キジトラ先輩……貴方様が出るまでもありませ。ここは私が」 「ノリトくんさあ、そういうのフラグって言うんじゃない? ふふ」  キジトラにノリト、そしてシイナ……他の仲間たちも皆、頷いてくれた。  だから、改めてトゥリフィリはカジカに向き直る。  信頼し合えるからこそ、言葉を交わして理解を共有することが大事だった。相互理解が幻想だと言い切るには、今の人類は弱過ぎる。そして、どんな形であれ弱き者たちのために働くのが13班でありトゥリフィリなのだ。 「カジカさん。ぼくが行きます。でも、バックスに下がってフォローに徹して、絶対に無理はしません」 「ほんで? ピンチになっちゃったらどーするの」 「その時は、仲間と協力して切り抜けます。無茶するかもだけど、三人なら絶対に無理しない、無理なことなんてないと思うし」 「……まあ、おじさんも歳が歳だけに、ちょっと心配でね。老婆心っていうんだろうねー、これ……おおやだ、歳は取りたくないねえ」  カジカも観念したようにニッコリと笑う。  確かに、トゥリフィリは13班の班長として、安全な場所から指揮を取るという方法もあるだろう。休息が必要なのは理解しているし、それは誰でも同じだ。  ほんの僅かな平和、次の戦いまでの一休みでもいい。  息継ぎのような日々でも、それがなければ絶望に負けてしまう。  今この瞬間も、多くの人がそれぞれの戦い方で耐えていた。  ならば、考えうる最善の方法を実行するのがトゥリフィリの務めなのだ。 「ナガミツちゃん、またぼくと来てくれる?」 「おう。なんなら後ろで寝ててもいいぜ? フィーの敵は……人類の敵は全部俺がブッ飛ばしてやるよ」 「ちょ、ちょっとはずかしい……けど、よろしくね? あとは」  絶対に無理はしない。  必ず生きて帰る。  一度の勝利ではなく、何度でも挑むことでしか得られぬ日々のために。ほんの少しでもいいから、国会議事堂のみんなが心を安らげられる時間のために、戦う。  そう誓った時、勢いよくバーン! と研究室の扉が開かれた。 「話は聞かせてもらいましたわ! でしたらわたしも参りましょう。モリアキ、すぐに支度を……地ノ湯津瀬が当主、このアダヒメが自ら出陣します!」  誰もが振り返って「あっ」という言葉を飲み込んだ。  そこには、鼻息も荒く腰に手を当て仁王立ちのアダヒメがいた。自信に満ちたその微笑みには、誰もが黙らざるをえないのだった。