動揺、戦慄、そして混乱。  雑多な感情の崩壊を、トゥリフィリは辛うじて食い止める。  胸に手を当て、深呼吸して思考へ集中力を集め始めた。  自分で自分に触れられるのに、目の前を通り過ぎた……もっと正確に言うと、自分をすり抜けて去ったキジトラには触れられなかった。  しかも、相手に自分の姿は見えていない。 『落ち着け、これは……これは、幻惑系の攻撃。以前、スリーピー・ホロウが仕掛けてきた』 『それは少し違います、フィー』  また女の声がした。  振り向くとそこには、見慣れた和服姿の美女が立っていた。  ただ、歌を紡いで優しく響く声は今、感情を失ったように凍っている。 『え……アダヒメちゃん!? えっと、ぼくのことが見えるの?』 『ええ。それに、ほら。触れることもできます』  アダヒメがトゥリフィリの手を取り、更に手を重ねる。  しかし、体温は感じない。  触れているのに、触感すらなかった。  だが、この二人の間でだけは互いが見えて、互いに触れられるようだった。 『フィー、危険な帝竜に遭遇してしまいましたね……おそらくそう、その名はインソムニア』  ――インソムニア。  それが、首都高速道路を迷宮へと変えた帝竜の名か。  今年の竜災害は過去に倒した帝竜の復活現象も多く見られたが、今回は全くの新種である。そしてそれを、目の前のアダヒメは知っているというのだ。 『スリーピー・ホロウが扱うのは、神経毒による催眠と幻覚……しかし、インソムニアは違います。この危険な帝竜は、直接人間の脳や記憶から死の幻影を引き出すのです』 『あっ! それでナガミツちゃんがガトウさんに……ぼくもアオイちゃんに』 『そうです。そして、死者に囚われた者もまた、冥府へと堕ちるのが定め』 『じゃ、じゃあここは……そ、それよりナガミツちゃんが!』  精神攻撃という点では同じだが、インソムニアのものはより危険で卑劣だった。  誰もが追憶に見送るしかなかった、守れなかった人たちがいる。その人の命を貰って今、トゥリフィリたちは生きている。未来を託され、明日へと背を押してもらったのだ。  その記憶を逆手に取っての攻撃に、ギリリとトゥリフィリは奥歯を噛む。 『ナガミツは斬竜刀……牙なき人の牙となる人型戦闘機。多少の耐性があって持ちこたえるでしょう。しかしフィー、あなたは』 『……そっか。じゃあ、ここは死者の国?』 『いいえ、違います。……ただ、フィーを救うためには、この世界線を経由するしかありませんでした』  そう、ここは平行世界。  アダヒメが何らかの力を使って、生きたまま死につつあったトゥリフィリの魂を導いたのだという。それ自体が信じられないが、言われて納得しないでもない。  いつもアダヒメは不思議な女性で、その言動は謎めいていた。  気にしたことはないが、時々難しい言葉を不意に使う。  その意味が今、トゥリフィリには現象として理解できるのだった。 『こ、ここはじゃあ……ぼくたちの世界とは違う、もう一つの世界』 『はい。その証拠に、ほら。御覧なさい』  先程のキジトラを追いかける足音が聴こえる。  それは規則正しく、精密機械のようだ。 「班長、こちらでしたか。躯体の修理に8時間かかるため、スペアボディを使用中です」  現れたのは、一人の少女だ。  その声に、去りかけたキジトラが振り返る。  どこかで見たことがあるような……どこか無機質で儚げな少女だ。その面影が、何故かトゥリフィリに強烈な既視感をもたらす。  そして、キジトラの返事に思わず目を見開いた。 「ナガミツか。……酷くやられたからな、今回は」 「はい。申し訳ありません、班長。13班の備品としての自覚が私にはまだ」 「……そういうことは言うな。お前はいつもベストを尽くしている。俺様の責任だ」 「でも、でも……今度はノリトが犠牲に」 「奴の覚悟に救われたな、今回は。……馬鹿者め、格好つけおって」  なにか、空気が淀んでいる。  同じ国会議事堂なのに、雰囲気が格段に違った。  絶望に満ちてて、どこまでも暗く凍えた世界がトゥリフィリの眼前に広がっていた。 『フィー、この世界線は……竜の摂理に抗う切り札、特異点の存在しなかった世界』 『特異点? それって』 『フィー、落ち着いて聞いてください。ここはフィーが存在しなかった世界なのです』 『じゃあ、時々アダヒメちゃんが言ってる特異点て』 『あなたのことです、フィー。全ての狩る者を統べ、竜殺剣に選ばれし特別な人間』  竜殺剣……それが、竜検体とオリハルコンから生まれる殺竜兵器の名か。  だが、トゥリフィリが特異点? 選ばれた人間?  そんな筈がと思ったが、傷を舐め合うように寄り添うキジトラとナガミツを見ていると、信じるしかない。避難民たちやムラクモ機関、自衛隊にも生気がなく、暗い諦観の雰囲気だけが広がっていた。 『わたしはこの世界線では、既に……キリ様の死という絶望に耐えられず、わたしはこの世界線を閉じたのです。正確には、見限った……その罪を今、こうして償えればと』  俯くアダヒメの手を、トゥリフィリは握り返した。  そして自分も、手に手を重ねてアダヒメを見上げる。 『アダヒメちゃんが助けてくれたんだ……ありがとっ! 大丈夫、ぼくは元の世界線に戻る。理屈さえわかれば、その、インソムニア? とだって戦える』 『フィー……』 『それにね、アダヒメちゃん。見て、キジトラ先輩を。……あれは、あれだけは、諦めを知らない希望の光だと思う。そういう人だからさ、キジトラ先輩って』  そう、キジトラは雰囲気そのものが一変してまるで別人に見えたが、その瞳の光だけは同じものだった。現実世界では今、そのキジトラも死の呪いに苛まれているのだろうか? だとしたら、早く戻って助けねばならない。  そのことを伝えると、そっとアダヒメは手を離した。 『大丈夫です、フィー。死して尚、人の想いは心に宿り続ける。だから、ほら』  そっと手で指し示す先へと、トゥリフィリは振り返った。  そして、絶句……言葉も呼吸も奪われる。  赤い影がゆらりと歩み寄ってくる。  その小さな小さな女の子は、アダヒメを一瞥してフンと鼻を鳴らした。 『まだまだ彷徨うつもりか? 遠いどこかの私は、随分と過酷な呪いを課したものだ』 『いえ、これでいいのです……わたしは全ての竜を駆り尽くす、その可能性に向かう人たちに寄り添わねばなりません。……さよなら、フィー。元の世界へ、そして全ての世界が救いに集束する世界線へ』 『こっちだ、フィー。お前の中にまだ、私が生きてたとはな』 『フィーをお願いします、エメル。……わたしにはまだ、巡らねばならぬ運命が』  そう、エメルだ。  国会議事堂と13班を守って、フォーマルハウトを前に散ったムラクモ機関の長……そのエメルが、そっとトゥリフィリの手を引いて歩き出す。  逆に、突然アダヒメの背後に巨大な穴が現れた。  それは、光を吸い込む暗黒の洞……その中へゆっくりとアダヒメは消えっていった。 『アダヒメちゃん!? エ、エメルさん、アダヒメちゃんが!』 『お前はこっちだ。……あれなるは滅竜の輪廻。奴の愛と憎しみは、全ての竜を滅ぼすまで生と死を繰り返す。そうすることで無限の可能性の一つ一つを彷徨っているのだ』  エメルの歩みで、ふわりとトゥリフィリの身体が軽くなった。  そして、キジトラも美少女型のナガミツも遠ざかる。  アダヒメを飲み込んだ暗黒の渦もまた、螺旋を描いて遠く上へと伸びて消えるのだった。