スズランは今、呆然と流れる大河を見詰めていた。  かつてあった大きな橋は今、そのたもとから先が破壊されている。風化した腐食具合が、三年という年月を無言で物語っていた。  そう、スズランたちは三年も眠っていたのだ。  仲間たちは皆、覚醒したが……そこにナガミツの姿はない。  彼はスズランたちを救うと同時に、カザン共和国へ戻ったのだ。  しかも、ミロス連邦の安全を確保するために、唯一の要衝であるこの橋を落として。 「ナガミツ、あなたもどこかで眠っているの? それとも」  自然と、歌が口をついて出た。  いつも一人、幼い頃から歌ってきた童歌……素朴でシンプルなメロディにスズランは気持ちを込める。単調ながらも想いに彩られて、その響きは風に舞って消えた。  カザン共和国までなんて、届かない。  それでも、どこかでまだナガミツが生きている気がした。  そんな彼への、感謝と無事を祈ってスズランは歌ったのだった。  だが、不意に背後で拍手が響く。  振り返ると、旅装に身を固めた一人の青年が財布を取り出していた。 「ノリトさん……いっ、いつからそこに!? は、はずかし」 「ディモールト・グラッツェ! なんて素晴しい調べ……さあ、これを」  ノリトは笑顔で金貨を数枚取り出した。  太古の昔にあったと言われる風習、カキンとかいうやつだ。  だが、スズランは以前にそれをやめてほしいと頼んだはずである。 「あ、あのっ! 困ります……わたしなんかの歌に。前もお願いしました、ノリトさん」 「……ふむ。そうでしたか、以前もあなたは私と……私の名はやはり、ノリトと言うのですね」  様子が変だ。  温厚でどこか気取った態度は三年前と一緒だが、不思議とノリトは首を傾げる。  そして、驚きの一言を発したのだった。 「実は、長い昏睡状態だったらしく……以前の記憶がないのです。ですが、プリンセス。あなたは私を御存知なのですね」 「えっ!? 記憶、喪失……ですか? どうして」 「私も医者の端くれ、恐らく恐怖の記憶を心が閉ざしてしまったのでしょう。私の過去ごと封じて、そうして精神状態を守ったのかと」  コインを財布にしまいつつ、そうだとノリトは懐からなにかを取り出す。それは、五芒星に縁どられた金色のペンダントだった。 「以前、学都プレロマで学院を卒業した時のものです。……今の私にはもう、必用ありませんので」 「そんな、高価なうえに大切な……どうしたんですか? ノリトさん」  ノリトは震える手で眼鏡をクイとあげて、瞳の表情を隠す。  彼は、無理矢理スズランにペンダントを握らせると、そそくさと距離を取った。 「私は、逃げるんです。竜災害、太古の昔の御伽噺だと思っていましたが……あれから三年、一部のハントマンが立ち上がろうとしています。まずは、カザン共和国の奪還だと」 「ノリトさん……」 「わ、私には、無理です。恐ろしい、怖くてしかたがない……思い出せない恐怖が、私に逃げろとささやくんですよ」  意外だと思ったし、当然にも感じられた。  スズランだって、思いだせば総身が震える。遺伝子に刻まれた原初の恐怖が、全身を硬直させてしまうのだ。  それでも、スズランには歌がある。  歌を届けたい人がいる。  その人は命の恩人で、今もどこかで生きている……そして多分、戦っている。  改めてペンダントを返そうとした、その時だった。  不意に典雅な声が二人の間に響き渡った。  静かにささやくような、それでいて通りのよい女の声だった。 「逃げるなら逃げなさいな、ノリト。そして、あなたがスズランですね?」  そこには、和服を着こなすルシェの女性が立っていた。やや年嵩に見えて、それでいて清水のような気高さをまとった貴婦人だ。  大きな瞳で真っ直ぐに見詰められれば、その双眸に頼りなげな自分が映る。 「わたしは湯津瀬のアダヒメ。あなたのことをお仲間が探しているみたいだけど……少し素敵な歌が聴こえてきたのよ」  ノリトが突然「湯津瀬……地ノ湯津瀬の、行かず後家! ゲフンゲフン、姫君!」と数歩下がって膝をついた。スズランも名前だけは知っていたので、貴人を前に片膝をつく。  地ノ湯津瀬、それは天ノ羽々宮と並ぶ古き高家の名である。  当主のアダヒメは世界的にも有名な歌姫、本物のプリンセスである。  世界中を巡り、祭事や式典で祝福の歌を歌う姫君。  年齢不詳のアダヒメは美貌も相まって有名だが、狐のマモノだとか実は男だとか、妙な噂が絶えない人物だった。 「そうそう、スズラン……こんな噂を御存知かしら?」 「えっ? アダヒメ様、それは」 「アダヒメでよくてよ。そう、これはカザン共和国に忍び込もうとした、ハントマン崩れの火事場泥棒の話――竜斬包丁」 「竜斬、包丁?」  あれから三年が経って、エデンは竜災害の中で激変していた。毒性こそ弱まったものの、世界全土にフロワロがはびこり、竜とマモノの脅威が跳梁跋扈している。  そんな中、小舟で川を渡ってカザン共和国に忍び込んだ者たちが何人かいるらしい。  いまや竜の巣窟と貸した廃墟だが、持ち出されていない資材や財宝が山ほどある。それを狙ったハントマンたちは皆、命からがら逃げのびてこう言うのだ。 「謎のローグに助けられた、あれは人じゃない……竜斬包丁だと」 「……はっ! ま、まさか、それって」 「ふふ、昔からそうなのよ? あの男は不器用で愚直で、そして斬竜刀としての信念を決して曲げない」  懐かしそうに眼を細めるアダヒメの、次の言葉を待たずにスズランは小さく叫んだ。  三年の空白を経て今、自分がなにを望んでいるのかはっきりしたからだ。 「わたし、カザンに行きます! 行って、ナガミツに伝えなきゃ……きっとナガミツは、生きてる」  静かに頷くアダヒメの背後から、手を振り仲間たちが駆けてくる。  見れば、マメシバもレオパも完全に調子を取り戻しているようだ。 「スズラン! 俺たちも一緒に行くっ! ナガミツの奴には、言いたいことが山ほどあるんだ!」 「メナス補佐官から正式にミッションの依頼がありました……カザン共和国奪還作戦が始まりますので、共に参りましょう」  仲間たちと再会し、そそくさと逃げてゆくノリトの背を見送り……返せなかったペンダントをポケットに今は眠らせる。  そうしてスズランは、いつもの仲間たちと共に反撃ののろしを高々と上げた。  ここに今、運命に抗う人類の旅が始まるのだった。