ふとスズランが目を覚ますと、まだ周囲は薄闇の中に沈んでいた。  テントを出ると、焚火の番をしているナガミツの姿が見えた。朽ちかけた丸太の上に座って、ぴくりとも動かない。それなのに、手だけが勝手に動くように、しっかりと焚火の炎に薪をくべている。 「ナガミツ? あの、少し休んだら? わたしが見張りを変わるから」  だが、返事はない。  さしものナガミツも、不眠不休では動けないということだった。  見張るといってくれてたからには、スズランに不安は全くない。彼がこうして警戒心を尖らせつつ休んでいるということは、周囲に危険が全くないということだろう。  そっと自分の毛布を、ナガミツの方にかけてやる。  周囲の仲間たちも焚火を囲んで、安らかな寝息を奏でていた。  その空気の震えさえ、子守唄のようにスズランの中で調べになる。  そして、ふと振り向く先で彼女は小首を傾げた。 「あら? そういえばキリちゃんは……一緒に寝てたはずなのに」  テントの中にキリコの気配がない。  すぐに戻って毛布に触れれば、まだ彼女の体温が微かに残っていた。  抜け出してどこへ……? それも、ついさっきのことのようで、スズランは首を捻った。だが、すぐにその答が聴こえてくる。  少し離れた場所から、上機嫌なハミングが夜風に乗って届く。  その方向へと、スズランは警戒しつつ歩を進めた。  夜の森は暗く物騒で、動物と虫の声がコーラスで出迎えてくれる。  だが、危険な敵意は感じられない。  そして、視界が開けるとそこにはキリコがいた。 「あっ、スズラン! 一緒に水浴び、どうですか? こんな月夜はとても気持ちいいのです!」  そこには、裸の少女が月光に輝いていた。  流れる清水は、夕食の時に使った小川の先だ。こんなに近くで小さな流れは太く大きくなって、遠くには滝も見える。その轟音はまるで、力強いドラムのリズミングだ。  思わずスズランは言葉を失う。  真っ白な肌に黒い髪、まだ幼さとあどけなさを残す平坦で華奢すぎる肢体。  笑顔のキリコは、ざばざばと水をかきわけ歩み寄ってきた。  こんな、下の毛も生えそろわぬ女の子が、世界の命運を背負っている。  羽々斬の巫女として起ったキリコの、素顔はやはりいつものユイなのだった。 「キリちゃん、危ないよ……マモノもそこらじゅうにいるんだし」 「むい! ナガミツが守ってくれるから大丈夫です。それに、うふふ……スズラン」  よく見れば、キリコは何かを手に持っている。  小さな固形物で、それが彼女の裸体を泡で輝かせていた。 「汗を清めておくにこしたことはないのです。これはそう……石鹸なのです!」 「……え? キリちゃん、それ……嘘、これが石鹸? 凄く、いい匂い」 「家を出る時、アダおばさまが持たせてくれたのです。これは柑橘系で、こっちは」 「あわわ、石鹸……高級品がこんなにも!?」  この時代、エデンでは石鹸は高級品だった。  先の文明が崩壊し、時代は一気に原生時代に戻って再び進歩を始めた。今はその途上、エデンは中世の世界なのである。当然、文明は日進月歩で進化し続けているが、それでもスズランのような平民にとっては石鹸は高級品だった。  以前、村に行商が来た時、お試しで使わせてもらったことがある。  目が飛び出るような値段だったが、確かに手を洗えば石鹸の香りはその後数日間スズランをうっとりとさせたものである。 「うう、石鹸……確かに、汗の臭いは気になるし、下着は毎日代えてるけど」 「女の子は身だしなみを清潔に、かあさまが言ってたです。冒険の旅路でも、今はとってもいい機会なのです!」 「……じゃ、じゃあ、ちょっとだけ。わたしも少し、気にしてたから」  スズランもそそくさと服を脱ぐ。  遠くで夜鳥のホーホーという声が聴こえたが、周囲に害意は確かにない。完全に安全とはいえないが、今後山道を下ってアイゼン皇国へ向かうまで、こういった機会は訪れないだろう。ならば、今がその時だ。  急いでスズランも服を脱いで、下着と一緒に丁寧に畳む。  ひんやりとした水は少し冷たいが、澄んで透明な流れはゆるやかに肌を撫でて過ぎた。  そして、キリコから石鹸を受け取る。 「ま、まさか、石鹸で体を洗えるなんて……でも、使ったら減っちゃうんじゃ」 「気にしなくていいのです! さあ、貸してくださいスズラン。こうして手ぬぐいに泡立てて」 「待って、ちょっと待ってキリちゃん。巫女様にそんなことさせるなんて」 「わたしはスズランの冒険の仲間、同じハントマンです。斬竜刀である前に、スズランの仲間なのです」  そっとキリコが、背を流してくれる。  自分でも使えるように、石鹸と一緒にもう一枚の手ぬぐいを渡してくれる。  腰まで水に漬かりながら、蒼い月光に小魚が鱗を輝かせる夜……スズランは自身の全てを優しく洗って汗の感触を夜空に溶かした。  とても柔らかくて、自分の素肌が一枚剥がされるような感覚。  石鹸の泡はとても香ばしい匂いでスズランの身を清めてくれた。  せっせと背中を流してくれていたキリコが、岩の上から小さなボトルを手にしてスズランの髪に触れる。 「これはシャンプー? とかいう香油です。リンス? とかいうのも混じってるのです!」 「キ、キリちゃん? 悪いよ、髪まで洗わせるなんて」 「友達で仲間だからいいのです! ……わたしは、スズランたちが、みんなが初めての仲間なのです。修業時代は誰も、わたしに語り掛けてくれなかったのです」  次代の巫女、羽々宮の次期後継者ながらも異能の力を使えないキリコ。だからこそ人一倍、懸命に剣を振るって身を鍛えてきた。そんな彼女には、友情や愛情を育む時間はなかったという。それでも、手と指でスズランの髪を梳くキリコは優しかった。 「キリちゃん……次はじゃあ、わたしがキリちゃんの髪を洗ってあげるね」 「本当ですか! 凄く嬉しいです。スズランの髪はさらさらで、とても綺麗なのです」  どこかむしむしとした不快な肌の湿度が消えた。小川の水が静かに泡を飲み込みながら、スズランの身を清めてくれた。  だが、二人の少女が沐浴に微笑む時間が突然切り裂かれる。  絶叫を張り上げ、突然目の前に巨大な熊のマモノが現れた。その瞳に光る紅い輝きが、獰猛な力をはちきれんばかりに灯している。 「キリちゃん、マモノが……キリちゃん? ――!?」  慌ててキリコを庇おうとした、その時だった。  信じられない光景がスズランの網膜を支配する。  全裸のキリコは、長い黒髪をなびかせながら……徒手空拳の生身でマモノに飛び込んだ。まさに電光石火、先程まで一緒に水浴びしていた乙女の姿はそこにはなかった。  キリコは鋭い肘打ちで熊の魔物を穿つ。  そう、刺し貫いて穿つような一撃だった。  そしてそのまま、大きくぐらついて一歩引いたマモノに拳を引き絞る。 「スズランは守るです! かあさまに嫌われても……鍛えてきた、この拳で!」  キリコの一撃が、その小さな柔らかい拳がマモノを打つ。  ――インパクト。  月夜の静かな夜が戻ってくる。  キリコの真っ直ぐな拳を受けて、マモノは断末魔の悲鳴すら許されずにその場に崩れ落ちる。  ナガミツが現れ、疾風のごとく刃を振るったのは、それと同時だった。 「悪ぃ! ミスった! ……まさか、ここまで俺の機能が落ちてるなんてな!」 「ナガミツ、トドメをお願いするです。スズランはこっちへ、わたしに任せて」  突然、スズランは全身の泡を激流じみた水の流れに洗われ、同時にキリコに両手で抱えられた。まるで物語や叙事詩にある、姫君を守る騎士のような恰好だった。  同時に、駆けつけたナガミツが唸るマモノにトドメの一撃を捻じ込む。  清らかな小川の流れ獣の血の生臭さが入り混じったが、それも全て流されてゆく。  スズランはただただ、キリコの胸に抱かれたまま返り血に濡れるナガミツを見詰めるしかできないのだった。