ノリトにとっては、かつて一度となく訪れたであろう、アイゼン皇国。  だが、今はその記憶も思い出すことができない。すでにこの土地は、ノリトにとって知識でしかなく、それ以上でもそれ以下でもなかった。  しかし、今はレオパと共に向かった先で軽い衝撃に驚かされている。  こんな場所がアイゼン皇国の一角にあっただなんて、思いもしなかったから。 「レオパ、ここは」 「ここはアイゼン皇国の裏の側面……貧民街です」 「貧民街? では、ここの民たちは」 「過大な税で財産を失い、表の街に住めなくなった市民たちですね」  レオパは落ち着いていたが、その冷静な声の裏に憤りを微かにノリトは拾った。彼はこの場に率先して訪れた。皆が羽々宮の屋敷で休憩を選んだが、彼は別行動でここに来たのである。  同行したノリトには、同じヒーラーとしての興味も、あるにはあった。  なにか人手が多い方がいいならばとも思い、無理を言って同行したのである。 「ここが、貧民街……まさか、こんな側面がアイゼン皇国にあっただなんて」 「今の国王、ソウゲンの重税政策は有名ですからね。もうすでに、国を出る余裕すらここの人たちには許されていない。持ち出すべきものすら、もうないのですよ」  一通り貧民街の説明をして、レオパは一歩前へ出る。  珍しく身だしなみの整ったルシェの男に、誰もが暗い目で振り返った。  だが、レオパは笑顔だ。  そして、その第一声にノリトはさらに驚く。もしかしたら本当に「ギャフン!」という言葉が口をついて出たかもしれない。 「ごきげんよう、皆さん。私は医者です。怪我人や病人がいたら、診せていただけませんか?」  明日には、ノリトたちは恐るべきドラゴン、それも帝竜クラスとの戦闘を控えている。今は心身を休めて、戦いに備えるべき時間だった。それなのに、わざわざレオパは持参した医薬品を大盤振る舞いで青空診療所を始めてしまった。  あっという間に、老若男女を問わず市民が殺到する。 「ずっと咳が止まらないんじゃが、どうにかならんかのう? お医者様」 「ママが軍人さんに蹴られて、その時の傷がよくないの。助かるかなあ、お医者様」 「うちの子がずっと熱を……ここには薬もなくて」 「とにかく痒い! 足の裏が痒いんだよ! 水虫でも診てくれるかい? 若いの!」  殺到する治療希望者に、レオパは快く応じた。  彼に言わせれば、もうすでに決戦準備は整っているし、余剰な備蓄や資材、薬品は持って歩けないので使ってしまおうという話らしい。それを店で売って現金に替えず、あくまで病人や怪我人に使おうというところに、ノリトはレオパのひととがらを感じた。  ならばと、荷物の鞄から例のアレを取り出す。  そう、なぜか皆に不評なあの狐のお面である。 「へんっ、しんっ! トォ! 謎の仮面ドクター、ギンコ! ここに、参上!」 「うおお、なんだなんだ! かっけえ!」 「すごーい、みてママ! 狐のお医者様だー!」 「これっ、見ちゃいけません! 近寄らないの!」  相変わらず、子供以外には不評である。レオパも苦笑しつつ、次々と患者を手当てしてゆく。ノリトも手伝おうとしたが、やんわりとレオパに断られた。  あと、真顔ではっきりと仮面が滅茶苦茶イケてないと言われたのだった。 「もうその仮面も必要ないでしょう、ノリト。あなたは勇気ある立派な医者だ」 「いや、そんな……私は逃げ出そうとして、それで、でも、それでも」 「頼みがあります。貧民街を回って、動けない重症者を見てあげてくれませんか? ああ、もちろんその仮面は脱いで」 「……そんなにイケてませんかね、これ」 「うん、正直イマイチ。それとね、ノリト……あなたにはもう、隠すべき弱さはないはずですし」  こうして、渋々ノリトは脱いだ仮面をしまい、巡回へと歩き始める。  家らしい家などなく、ボロ小屋に住めている者たちはまだいいほうだ。貧しき民が身を寄せ合って、少ない糧を分かち合って暮らしているのがよくわかる。  ベッドから動けぬ者たちを診て回り、ノリトがちょうどぐるりと貧民街を一巡りした時にその光景は突然現れた。 「おや? あれは確か……いやしかし、なぜ?」  恰幅だけはいい小さな男が、大釜で炊き出しをしていた。  多くの貧民が集まっていて、中には着る服すらない半裸の者たちもいた。そういう者たちには、ケープを目深くかぶったローブ姿の男が衣料を配っている。  その二人組の片方に、ノリトは以前出会ったことがあった。 「おや? あれはたしか……サイモン村のシオンさん、でしょうか」  記憶喪失だが、記憶力には自信がある。  なんどか挨拶を交わした程度の仲だが、その気弱そうな風体に灯した強い瞳の光をノリトは覚えていた。そのシオンが、謎の男と共に貧民に施しをおこなっていた。  そのローブ姿の男も、妙である。  大柄だが引き締められた筋肉質な肉体は、まるで武人か騎士かという雰囲気だ。  骨格と体格がローブ越しに、ノリトに人物像を伝えてくる。 「さあ、みんな! お腹いっぱい食べておくれ!」 「着るもののない者はこっちだ。赤子の産着もあるし、一通りそろえてある」  どうやら、この貧民街の救いの主は、レオパだけではないらしい。  ノリトはなんだか、闇の中に一条の光を見たような気分だった。アイゼン皇国は東の巨大軍事国家、あの湯津瀬家や羽々宮家でも口出しはできないのだ。  だが、そんなアイゼン皇国が隠す闇に、僅かな光が差し込んでいるのだった。 「これは……フフ、私も負けてはいられませんね。どれ、ほかにも患者がいるかどうか、もう少し見て回りましょ――!?」  その時だった。  絹を裂くような、という形容詞がこのためにあるかのような悲鳴が響く。そして、向こうの大通りから大量の市民が走ってくる。否、あれは逃げてくるのだ。 「憲兵隊だーっ! みんな、大事なものを隠せーっ!」 「女子供は家に! どこの誰でもいい、女子供を家にかくまってくれ!」 「くそぅ、連中まだまだ俺たちから搾り取るつもりだぜ!」 「最後にゃさらわれて強制労働かよ……たまったもんじゃねえ!」  逃げまどう民の中、シオンもまた急いでの店じまいである。長身のローブ姿と二言三言確認すると、シオンは民に紛れて見えなくなった。  同時に、広場に馬に乗った憲兵隊の一団が現れる。  彼らはまるで家畜を追いやるように、市民たちに鞭を振るっていた。 「なんてことだ、民こそ国そのもの、民あっての国家だというのに……っとぉ!?」  逃げ出す民たちの中で、ふとノリトは先程のローブ姿の男とぶつかった。倒れそうになったが、支えてくれた片手の腕力がやはりただものではないと教えてくれる。  そしてノリトは見た……聞き覚えのある声を聞いた。 「大丈夫か。若いの。すまん……うん? 君もハントマンか? いや、御互い詮索はよそう。では失礼する!」  いそいそと逃げていったその男は、確かに王城でソウゲン国王の隣にいた、リッケン将軍その人なのだった。ノリトは唖然としたが、しばらくこの事実を胸の奥にしまっておくことにしたのだった。