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 マーズブルーのスーツを、一分の隙もなくピシリと着こなして。改めて襟元を正すと、シヨは気を引き締め扉の前へと向き直る。額から飛び出る一房の紫髪が揺れた。
 仕事を終えた彼女が足を踏み入れたのは、MARZウィスタリア分署内のシミュレーションルーム。もっとも仕事と言っても……目下、機体が修理中の為、シヨのここ最近は一般職員と変わらない。ウィスタリア市民の平和の為に、毎日端末とにらめっこして書類をやっつけ、当番を回されれば軽二輪でパトロールにも出かけたりした。
 それでも、このスーツを着てヘッドギアを小脇に抱え、今の部屋に入る時は違う。
 シヨ=タチバナは間違いなく、MARZウィスタリア分署第二小隊のパイロットだった。
 手にするは、今時珍しい紙媒体の擦り切れた冊子。それはシヨに夢の階段を駆け上がらせた、MARZ戦闘教義指導要綱。それをしたためた教本だった。アチコチから飛び出た無数の付箋が、シヨの厳しく激しい教習時代を無言で物語る。

「よしっ、今日は68ページから……チーフ、わたし頑張りま――」

 片手で教本を胸に抱き、一人決意を呟く……そんなシヨは、一部始終を見詰める視線に気付いて言葉を飲み込んだ。

「お疲れ様です、シヨさん。68ページって確か『接敵遭遇時の対応』ですよね」

 中央のターミナル端末前に、エリオン=オーフィル三査がくつろいでいた。筐体へと華奢な身を預けてよりかかり、正にくつろいでるとしか言い様がないしどけなさで。柔和な笑みに思わず、シヨはピタリと硬直し……次の瞬間には駆け寄っていた。

「エリオン君……いいの? 隊長も『休める時に休んでおくように』っていってたけど」
「うん。だからこうして、休んでるんだ」

 ウィスタリア分署が誇る、唯一誇れると言ってもいいエースパイロット、エリオン少年。現在、彼の愛機を除く全てのテムジンが修理中の為、実質ウィスタリアの治安維持は若干18歳の双肩に圧し掛かっている筈だった。
 しかしシヨが見た感じでは、その気負いも気概も、気苦労も伝わっては来ない。
 エリオンはただ、ターミナル端末が表示する自分のデータを横目に眺めつつ、呑気に紙コップを傾けている。湯気の失せた珈琲から、彼がそうしてどれだけの時間を過ごしていたかをシヨは察した。

「僕は、バーチャロイドが……コクピットの近くが一番落ち着くんだ。安らげるのかな」

 そう言って温かさも香りも飛んでしまった珈琲の残骸を飲み下し、紙コップをエリオンは握り締めた。僅かに銀髪を揺らして、彼はそのままターミナル端末を操作し、シヨがどう足掻いても得られぬ戦果の表示を消す。
 ちらりと見ただけだが、シヨはその数値に呆然としてしまった。今更ながら、はっきりと両者の間に横たわる実力の差を自覚した。同じMARZウィスタリア分署のフォワードとして、何よりバーチャロイドのパイロットとして……その差は余りにも深く広く、そして果てしない。

「それよりシヨさん、教本もいいですけど。良ければ、一緒にどうですか?」
「え? あ、えっと、その……一緒に、っていうのは」

 エリオンは野球の投球フォームを真似て、紙コップをゴミ箱と言う名のキャッチャーへブン投げた。だが、ことバーチャロイドの操縦意外に関しては人並み……むしろ人並み以下であるらしく。暴投気味の投球は大きく外れて、エリオンはシヨの返事を待ちつつ、結局ゴミ箱へと歩む。

「対戦しましょう、シヨさん。あ、大丈夫です、手加減しますか――あ、いや、そゆ意味じゃ」
「対戦……実戦形式で、特訓……?」

 手加減という言葉が、シヨを突き抜け、刺し貫いた。
 確かにエリオンが手加減してくれなければ、全く勝負にはならないだろう。何度もニュースや機体の蓄積データで見たが、エリオンの操縦センスは飛び抜けていたから。マニュアルに書かれた全てを生かす才能があり、全てを実践する技量があり……何より、マニュアルを逸脱した機転があり、それを自分でフォローできるだけの余裕が彼にはある。
 驕った気持ちではなく、何気ない一言だったが……それでも手加減という言葉はシヨを打ちのめした。

「ん、ありがとう、エリオン君。わたしはでもね、今は基礎からやり直してみたいんだ」
「でもシヨさん、僕が見た限りでは……」

 何かを言いかけて、出かけた言葉をエリオンは押し戻した。言葉を飲む気配が気まずさを誘発し、本当にバーチャロイドの操縦意外に能はないと、体現せざるを得ずに恐縮するエリオン。
 そんな同僚の拙い気遣いに、シヨは優しく笑いかける。自分の拙さに未だ気付かずに。

「チーフから学んだこと、もう一回思い出したいの。それは、わたしが一人でやらなきゃ」
「……そうですか。でもシヨさん、これだけは知って欲しいです。その、僕は……何というか」
「ううん、気にしないで。わたし、いつかエリオン君に並びたいもの。同じとこ、向いてると思うし」
「すみません、こゆのはラボでは刷り込まれなかったもので。ようするにですね」

 聞きなれない単語が飛び出て、シヨは首を傾げつつエリオンの肩に自然と掌が伸びる。その手に手を重ねて、しどろもどろに切々と、エリオンは言葉を紡いだ。一生懸命に、精一杯。あたかもそれが、MARZ戦闘教義指導要綱に明記されているかのように。

「手抜きと、手加減とは違うんです。あの、上手く、言えないんですけども」

 つまるところエリオンは、シヨの成長を促進する為に、自分を適切な強さに調節することが可能で。それを手加減と表現したのだが……やはり、それが"できる"人間の口から発せられれば、シヨは確かに劣等感を感じてしまう。シヨは"できない"人間だから。
 そう、できない――今はまだできないだけと心に結ぶ。

「それと、シヨさんは一人じゃないです。ルインさんは、えっと、あー、うう、言えないですけど」
「ふふ、ルイン君はね、何か別のことで忙しいみたい。今日も帰っちゃった」
「兎に角、一人じゃないです……シヨさんだけじゃないんです。僕もそうだし、ほら――」

 エリオンが不意に視線を外して、広いシミュレーションルームの半分を占める四台の筐体を見詰めた。
 シヨはその眼差しを追いつつ、エリオンほどの腕前でもそうなのかと、思わぬ謙虚さにますます身が縮こまる。真剣な表情でエリオンが見詰めるマシンは、一台が稼働中で低い唸りを上げていた。
 バーチャロイドの稼動時の環境を、そっくりそのまま再現するシミュレーター。バーチャロイドのコクピットと同一規格の、丁度乗用車一台分の大きな箱状の筐体が部屋の大半を占めていた。
 その鋼鉄の檻に密閉されて、一人のパイロットが鍛錬に明け暮れていた。

「あ、あれ? わたしの他にも? あっ、もしかして」

 不意に稼働中のシミュレーターが停止し、エアの抜ける音と共にハッチが解放される。スーツの手首に表示される時間を気にしながら、エリオンが歩み寄った。その痩身を追い越し、シヨは小走りに駆け寄る。
 もしや……そう、彼もまた問題を抱える一人だから……そうだったんだ!
 しかしシヨのありふれた、いかにもなドラマは成立しなかった。寧ろ、全くその必要性がなさそうな人物が姿を現した。いつでも知的で冷静で、彼女の言葉を借りれば"ある意味理想な"同僚の、見るも痛々しい艶姿。

「ハァ、ハァ……エリオン、いる? いるわ、よね、ある、意味……今、何時?」

 ホァン=リーイン三査。ウィスタリアのエースを影から支える、名実共に良き女房役(と言うと怒られるのでやめたほうがいい)の第一小隊バックス担当。その彼女が今、顔面蒼白で戦慄く唇を噛み締め、汗に凍えてシミュレーターから這出てきた。弱々しく、思わず支えたシヨがいなければ、恐らく倒れこんでいただろう。

「07:32……リーイン、無理しちゃダメだよ。ちゃんと署のカウンセラーの言う事は聞かないと」
「二時間超え、未だならず、か。ダメよね……シヨ、ありがと。……ん? それよりっ!」

 リーインはシヨから離れると、毅然と普段の様相を取り戻した。取り戻したつもりで喋る彼女は、しきりに瞬きを繰り返しながら、遂には目頭を指で押さえつつ……それでも言の葉を矢継ぎ早に放って二人を射る。

「シヨ! あんのバカは……ルインはどうしたの? パートナーでしょ? いつもシヨ一人じゃない」
「えと、それは。ルイン君は、ルイン君で、忙しいと思うの。今日も、帰っちゃった」
「っとに、兄弟でも全然違うわよねっ! どうして中尉みたいに……あ、今は少佐か」
「リーイン、ルインさんは実は……これはナイショ、ここだけの話にし――」

 ここに居ない同僚を庇うエリオンにも、リーインは口やかましくまくしたてる。まるで何かから逃げるように。表面上は元通りの光景は、シヨにはどこか実家の兄弟姉妹を思わせた。小うるさい姉のリーインは、不出来な弟分を叱りつつ……エリオンの着崩した襟元を直してやる。

「っとにもう、しゃんとしてよね? エリオンしか今、戦えるパイロットいないんだから」
「は、はいっ! ……すみません。って、何かルインさんの癖がうつっちゃったみたいだ」
「お風呂はちゃんと入ったんでしょうね? ご飯は? 隊長も言ってたけど、休める時に休――」
《緊急入電! 第209管区にてバーチャロイドによる乱闘事件発生! 繰り返す、第209管……》

 突如、MARZウィスタリア分署に警報が鳴り響いた。瞬時に臨戦態勢に入り、外の廊下が慌しくなる。

「っと、きたわね……いい? 行くわよ、エリオンッ!」
「僕はいいけど、リーインは……あ、待ってよ。じ、じゃあシヨさん。いってきます」
「うん、いってらっしゃい」

 署内を満たす警報が、鎮圧対象がマイザーVSアファームドであると告げる中、リーインはエリオンを引っ張るように駆け出した。挨拶もそこそこに、出動する第一小隊の二人を見送って……シヨはヘッドギアを被り、自分のシミュレーターへと歩み寄る。
 今、自分にできることを。今、自分が持てる全てで。
 シヨもまた、自分一人の戦いへと……仲間達に気持ち並んで飛び込んだ。

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