電脳暦a8年、夏。ウィスタリアRJは、年に一度の基地祭で賑わっていた。当然、その敷地内で治安を預かるMARZウィスタリア分署も、この日ばかりは施設を一般市民や観光客に開放している。署内は今、雑多な物好き達でごったがえしていた。  当然、子供達の案内役であるシヨも、シミュレーションルームで大忙しだった。  ――つい、先程までは。 「ねーちゃん、すっげえええ!」 「何? ねえ今の何? 俺にも教えて!」 「ずるーい、次はわたしの番! わたしもバーチャロイドにのーりーたーいー!」  圧搾空気の抜ける音と共に、シヨが普段使っているシミュレーターが解放された。その後部座席、いつもならエルベリーデが座っているシートの上で、シヨは放心していた。本来、彼女の今日の任務は、素人同然の子供達をシミュレーターに乗せて、実際にバーチャロイドを体感して貰うことだったが。余りに突然のことで、腰が抜けてしまった。  目の前で立ち上がるセーラー服の少女は、ほどほどの難易度とは言え、シヨの組んだシミュレーションプログラムを易々とクリアしてしまった。それも、組んだ本人のシヨよりもベストなスコアで。 「……拍子抜け、簡単すぎ。テムジンでも」  灰色の髪の少女は、その刈り取られたような短い頭髪を退屈そうにかきあげると、ヒョイとシミュレーターから飛び降りた。慌ててシヨも立ち上がる。気付けば身が強張り、手の内に汗をかいていた。  自分が今見た操縦が信じられない……子供相手のお遊びとはいえ、それなりのプログラムを組んだつもりだったが。少女はいとも簡単にクリアしてしまった。MARZチューンのテムジンを、己の手足のように操って。  たちまち少女は、周囲を大勢の子供達に取り囲まれた。観戦していた大人達からも感嘆の声があがる。  シヨとしては立場もなく、ただぼんやり呆然とヘッドギアを脱ぐしかない。 「エイス! こんな所にいたのか。どうだい? 面白かったかい?」  不意に人混みの中から、小太りな男が声をあげた。エイス……それが少女の名前らしく、虚ろな瞳が振り返り、小さく頷く。そうして彼女は、わたわたと子供達を掻き分ける極彩色のスーツ姿に近付いた。 「面白かった、少し。もういいの、でも」 「そうかい、じゃあハンガーの方にいってみよう。オイラもう、実物に触ってみたくて――」  世の中には、理屈で説明のつかない才能が存在する。  それを痛感して見送るシヨは、エイスの言葉に思わずシミュレーターから身を躍らせた。 「わたしも興味ある。羽根付きの方になら」 「411って書いてあるアレだろ? うんうん、じゃあ行こう、早く行こう、すぐ行こう」 「引っ張らないで、監督」  少女は、エイスはその時確かにそう呼んだ。  監督、と。  ニヤついた笑顔でたるんだ頬肉を緩ませる、その男の背中が人混みの中に遠ざかる。思わず駆け出すシヨの脳裏に、その名は特別な印象を刻んでいた。監督……あるいは、Director。それは偶然にも、まだ見ぬMARZの敵と同じ名。耳朶を打って鼓膜に浸透するのは、正体不明の明らかな害意。 「あっ、あのっ、待ってください」 「ん? ああ。エイス、遊んでくれたMARZのお嬢さんにお礼をいわなきゃ」 「ん……ありがと。楽しかった、結構」  本来、シヨが組んだプログラムは、子供が程よく気持ちよく暴れて、そこそこで撃墜される……バーチャロイドの怖さを教える教材でもあるのだが。それをアッサリと紐解き、結構楽しかったとエイスは振り返る。その光を吸い込む暗い瞳が、洞のように大きくシヨを見詰めていた。 「それは、その……それよりっ。今、監督って……あなたが監督さんですか?」 「ん〜、職業柄そう呼ばれるね、オイラは」 「じゃあ、ええと、もしかして……」 「あー、うん! 言いたい事は解るよ、お嬢さん。ネット上に動画をUPしたのはオイラさ」  肥満体の男は悪びれた様子も見せず、「なかなかの名編集だったろ?」と薄い笑みを浮かべる。対するシヨは、思わず握る拳に力がこもり、スーツ越しに爪が掌に食い込んだ。  悪趣味で陰湿なMARZの冷やかし屋が、目の前に今いる。  周囲はただ、シヨが不在になったシミュレーターの前に長蛇の列を作るばかり。部屋の中央にあるターミナルには、先程エイスが叩き出した、驚異的なスコアが燦然と輝いていた。 「うー、ええっと〜……どうしてですか?」 「うん? ああ、そうだな……面白くなかったかい?」 「おっ、面白い? そんな訳ないですっ。わたし達、毎日一生懸命――」 「でも、この街のみんなは喜んでたんだけどなあ? レスも沢山ついたし、あの動画」  自分で言ってて、シヨには否定する気持ちが薄らぐのが感じられた。もし自分が当事者でなければ……無責任な第三者であれば、あれほど魅力的な映像美はないだろう。MARZの活躍を凝縮して編集し、ささやかな日常の一コマや失敗談を添えた映像作品。それはこの街では、面白がられこそすれ、忌避される理由がどこにもない娯楽だった。 「じゃ、じゃあ……景清っ、あの子を使った辻斬りはっ」 「あー、はいはい。あれね。けっこーイイ絵が取れたよね」 「……え?」 「サッチェル・マウスも実働データには狂喜乱舞してたし、面白い機体だと思うな、オイラも」 「……みんな、大変な思いをしたんですっ。居場所を失った人だって……」 「いやー、でもなんつーのかな? 浪速節? ウケるんだよねー、定番っていうかさ」  話がまるで噛み合わない。  必死で言葉を紡ぐシヨに対して、男はあくまでヘラヘラと薄笑いを浮かべるのみ。二人の間でエイスだけが、退屈に焦れたように両者を見詰めていた。シミュレーターが止まっているので、周囲はにわかに慌しくなる。しかし、その声もシヨには耳に入らない。  ただ、目の前の男が、その声だけが土足で思惟に踏み込んできた。 「――お嬢さん、バーチャロンは……バーチャロイドは好きかい?」  先程と変わらぬ笑みのまま、顎を手で摩りながら監督が呟く。その表情は目元だけが笑ってはいない。馬鹿げたけばけばしい色のスーツが、瞬時に色を失い、シヨの中で戦慄のモノクロームに包まれる。  敵は今、見えぬ牙と触れぬ爪で、シヨを圧倒していた。 「オイラは好きさ、大好きだ。限定戦争も……そう、この世界が大好きだ」 「まだ? 監督。飽きてきた、わたし」 「ちょっとだけ待っておくれ、エイス。こいつはオイラなりの宣戦布告なんだからね」  男は胸に手を当てると、すうと息を吸って僅かに身を逸らした。 「この愉快でイカれた世界はでも、欠けている……欠損があるんだ。ピースの足りないパズルだ」 「足りない? 欠損……欠けてる。何が、ですか?」  思わず聞き返すシヨに、監督は身を乗り出して両手を広げる。 「王道! お約束! ……そう言われている何かさ」  ゆらめく狂気が見えるかのように、男の熱弁は質量を増してゆく。圧倒されるシヨは一歩後ずさった。 「足りないんだ。圧倒的に足りない……だから、補うしかない。オイラの才能でね」 「それが……あの動画、ですか? あの事件も全部……」 「いやいや、あんなのはまだ小手調べさ。言うなればプロモーションフィルム。本番は――」  本番は、これからだと男は笑った。腹の底から湧き出るような、心からの笑みだった。  それはシヨの肌を泡立て、背筋に悪寒を走らせる。 「オイラを逮捕するかい? ん? でっきるっかなぁ〜」 「足りない、証拠が。わたし達は残さないもの……物証」  たかが一人の少女と、一人の大きな子供。シヨがもしその気なら、咄嗟に取り押さえられたかもしれない。叫べば即座に、応援が駆けつけたかもしれない。  しかし、その可能性は実現しない。  監督とエイスは互いに頷き合って、祭の熱狂の中へと溶け込んでゆく。後を追おうとしたシヨを、周囲の者達が引きとめた。取り分け、スーパープレイを観た後の子供達は、熱心にシヨにしがみついてきた。  シヨはただ、黙って二人が去るのを見送るしかできなかった。  この日、シヨは確かに認識した。ついに敵を肉眼で確認した。それはしかし、手の届くか届かないかの距離で、ひらりひらりとニヤけた笑みをチラつかせながら、掴めばするりと指の間から逃げ散る……今はただ、敵の跳梁を許すしかないMARZだった。