ルインの意識は虚空を漂っていた。光の差さぬ闇の中、振り向けば、翳。  上下の感覚もない彼の足元から、一縷の翳がうつしみを象っていた。 「そうか……俺は、機体に視覚を同調して」 『そして俺は、翳に飲み込まれたんだ』  声にならないルインの言葉に、翳が返事を連ねる。暗闇の中、焼けるように冷たく、凍える熱さが身を締め付けてくる。ルインはただ、自分を見詰める翳に相克した。 「お前は、どうして出てくる? シャドウ……どうして」 『……すんません』 「いや、解ってる。自分でも解ってるんだけど、よ」 『すんません』  翳はただ俯き、同じ言葉を繰り返す。  シャドウ現象は未だ謎も多く、その全ては解明されていない。Vコンバーターに使用されるVクリスタルに、搭乗者の負の感情が感応して発生するとも言われているが、人類はこの現象に明確な原因を見出せずにいた。  だが、当事者ともなれば話は別だ。 「家族が……兄貴が、憎いか」 『家族? 兄貴? 違うだろう。俺が本当に憎いのは――』  刹那、覚醒。  ルインの意識は現実へと引き戻され、ベッドの上で彼は目を覚ました。しばし呆然と天井を見詰め、明かり差す窓の外へとゆっくり視線を投じる。  小さな月が弱々しく、身を起こすルインを照らしていた。  この季節、火星の月は二つの衛星の片方、フォボスだけだった。 「あっ、ルイン君。気がついた……良かった」 「……シヨ?」  気付けば枕元の椅子に腰掛け、シヨがモバイルに向かっていた。その小さな画面を睨んでいた顔が、ルインに向けられ頬を崩す。  同時にルインも、シヨの無事に安堵した。  ルインの記憶は、シヨが機体を挺して自身を庇ったところで途切れていた。そこからはずっと、混濁とした意識は翳に囚われ、どこともしれぬ空間を彷徨っていたのだった。それが今、現実へと戻ってきた。 「シヨ、無事だったか……俺は、いや、連中は? 分署は」 「落ち着いて、ルイン君」 「俺は何時間くらい……そうだ、俺は何を……どうなっちまったんだ!?」  うろたえベッドから抜け出すルインの手を、シヨはそっと握ってきた。自然と行き交う体温が伝わり、ルインはシヨの生を実感した。自分を庇って命を投げ出した相棒は、生きている。今も確かに。  シヨはさらに手を重ね、両手でルインを包むと言葉を紡いだ。 「ルイン君はあの後暴走して、シャドウ現象に飲み込まれたんだよ」 「そ、そうか……いや、それは知ってる。その、すみません……」 「あの後、エリオン君やリーインが来てくれて、隊長とみんなで戦って」  その時確かに、ルインは聞いた。  仲間達は今も、各々に戦っていると。一つの意思の元に、火星の存続の為に。  そしてシヨもまた。――まだ。 「でも良かった、ルイン君が無事で。後遺症もないだろうってリチャードさんが」 「そりゃ、俺は……シヨ、お前さんが、守って、くれたんだろうが」  不思議そうな顔で見上げるシヨから、思わずルインは顔を背けた。  目の前の相棒は確かにあの時、絶体絶命の自分を救ってくれた。 「その、あれだ……機体は、どうなった。俺達のテムジンは」 「422号機はシャドウとして、リチャードさんが処理したよ。……最後まで、いい子だった」 「そっか。お前さんの421号機は――」 「新造する方が早いって。もう、治らないんだって。でもっ、まだ終わりじゃないの」  不思議とシヨの目には力があった。その大きな双眸に溢れる光は、まだ前を向いて、上を見ていた。  蜂の巣になった421号機を思い出して、てっきりシヨは落ち込んでいると思ったが……一途なひたむきさが、何より気丈さがルインを安心させる。同時に、少し素直にもさせた。 「そ、その、悪かったな……ほんと、すんません」 「ん、ルイン君? そゆときは、ありがとうだよ?」 「ありが、とう?」 「うんっ。わたしは当然のことをしただけ。みんなもそう。だから」  シヨが月明かりに柔らかな笑みを浮かべた。  同時に、不意に医務室の扉が開いて、聞き慣れた声がシヨを呼ぶ。 「お嬢ちゃん! シミュレーションルームからコクピット、引っこ抜いといたぜ」 「あっ、おやっさん。こっちもM.S.B.S.の補正プログラム組めました」 「しかし、本気でアレを使うつもりかい? そりゃ、出来ることはそれくらいしか」 「後詰の戦力はあるにこしたことないです。大丈夫です、わたし達で乗りこなしてみせますっ」  憔悴のかげりを見せるおやっさんことベンディッツ班長は、シヨの弾んだ声に活気を取り戻した。薄汚れた作業着のエリで頬の汚れを拭うや、シヨを、次いで立ち尽くすルインを見て大きく頷く。 「やれやれ……この歳になって、こんな大改造するハメになるたぁなあ」 「最終調整にはわたし達も立ち会います。ルイン君も目が覚めましたし」 「……膝下は421号機から移植する。白騎士のあんちゃんが持ってきた盾もつけて、後は」 「スライプナーMk5が余ってますよね。マッチング処理もこっちでしておきます」 「胸部装甲を今、若ぇのが全速力で作ってる。コクピットの入れ替えも任しておけぃ!」  他に短いやり取りを二、三交わして、おやっさんは慌しく出て行った。  ルインはまだ、事態がよく飲み込めずにいた。シヨが熱心に、新型テムジンが三機配備されたこと、それを駆りエルベリーデ達が既に出撃したことを伝えてくる。  だが、解せぬことが一つだけ。 「解った解った、そんなにいっぺんに喋るな、シヨ。……他に機体は残っているのか?」 「うんっ。誰も動かせない子だけど、でも残ってるよ。だから、わたし」  シヨは瞳を一際輝かせて、握る手に力を込めてきた。  気恥ずかしさに思わず、ルインは手を振り解く。同時に、記憶は鮮明になり、普段の明晰な頭脳が回転を始める。確かに一機、一機だけテムジンが残っている。正規のパイロット以外、歩かせることも困難な難物が一機だけ。 「……俺よ、兄貴のことが嫌いじゃなくて……いつも比べてる自分が嫌だった」 「? ルイン君?」 「軍人一家の落ちこぼれってレッテル、言われるまでもなく自分から作ってたんだ」 「……でも、わたしは今、ルイン君を必要としてるよ。ううん、わたしだけじゃない、みんな」  シヨは再度ルインの手を取り、戸惑う彼をつれて歩き出す。モバイル片手に、医務室を出て廊下へ。 「だから、目を覚ましてくれて嬉しいの。安心もしてるし、ホッとしてるんだから」 「シヨ、お前さん……すんませ、いや――ありがとな」 「うん。だから、ルイン君も手伝って。わたし達にもまだ、できることがあるから」  二人は忙しく人が行き来する廊下を、ハンガーへと歩いた。  ルインの手を引くシヨの歩調は強く、そこに宿る強い意志が伝わり自然と、ルインは背筋を伸ばした。二人の行く先に、MARZウィスタリア分署最後のテムジンが、密かに大改装を待っていた。