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 死…それは誰もが等しく迎える最期。無論、その訪れる時期は公平では無いが。しかしマーヤにとっては、今がまさにその時に思えた。縦横無尽に跳び回る相手など、今の今まで経験した事の無い強敵。まして巨大な剣とは言え、不安定な宙空で踏んで足場とするなぞ…常識の範疇を逸脱している。限りなく狭い、排斥と美化で塗り固められたマーヤの常識を。
 まるで獣のよう、と。侮蔑にも似た言葉を耳にして。しかしそれはもう、ただ響く音に過ぎない。メル=フェインは既にもう、本当に一匹の獣と化していたから。血に飢えた牙を剥くように、鋭い刃を突きつける。怯み慄く少年の表情が、メルの視界で真っ赤に染まった。確かな手応えと、メルの理性を引き戻す声。真っ赤な鮮血を浴びて、メルは思わず短刀を手放した。と、同時に身を竦めて着地。

「大丈夫よ…もう大丈夫だから。ね、メル…私、平気だから。ほら、蒼丸も心配してる」

 駆け寄るイザヨイの腕の中で、彼女は止まらぬ震えに恐れおののく。普段から感じる感触とはまるで違う…硬い甲殻を切り裂き、屈強な肉や骨を断つ時とは。メルの手に今残るのは、鍛えられて尚柔らかい、自分と同じ人を斬った感触。返り血に濡れた頬を、一筋の涙が伝った。

「駄目よメル。これは人に向けるものじゃないわ…ね?」
「…あ、あれ?俺、生きて…!?…か、義母さん?」

 恐怖に硬く瞑った瞳が、再び光を映す時。マーヤの目の前には、懐かしい笑みが佇んでいた。その温かさは今、自分では無く金髪の少女へと向けられている。あの日と同じ言葉と共に。交差する殺意の狭間に、眼前の人物は躊躇無く飛び込んで来た。必殺の一撃を受けた手の甲…滴る血は雫となって、とめどなく大地へと吸い込まれてゆく。掌まで貫通した凶器を引き抜きながら、クエスラは何時通り微笑んでいた。

「ウホッ!女将、ソノ手…利キ腕ヤッチマッタカ!?ナンテコッタイ」
「もっと簡単に止められるでしょ!?だってあの人…っとに、困った人なんだから!」
「この程度、掠り傷でしてよ?いっちゃん、メル…ほら、平気。それよりも」

 パン!響く音にその場は、水を打ったように静まり返った。突然現れたクエスラの姿に、ざわめくハンターズと騎士達の双方が。何より頬に熱を感じて、マーヤは発すべき言葉を失った。始めて見る育ての親の、その厳しくも悲しげな眼差し…黙って見詰めれば、再度逆の頬を走る激痛。

「ぶ、打ったな!にっ、にに、二度も!…どうして、義母さん」
「解らない?そう、残念だわ。もっと早くこうするべきだったのね」

 久方ぶりに交わす言葉は、想う気持ちとは裏腹に。マーヤは激高してクエスラを問い詰める。答は短い溜息と、俯き翳るその表情。伏せた睫が僅かに揺れて光る。もはや期待のルーキー騎士の面影も無く、ただ幼子のように叫ぶマーヤ。だが、クエスラはいつまでも母親の顔では居られない。責任ある者として、この場を納めなければならないのだから。

「何を今更…そうだよ、もっと早く!早く迎えに来てよ!俺、ずっと…ずっと!」
「甘える為に巣立つ雛がいるかしら?マーヤ、もっとしっかりなさい。さて…ラムジー!」

 人混みを掻き分け、一匹のメラルーが白いマントを放る。それを受け取り羽織ると、もうクエスラはマーヤを振り向かなかった。誰もが知りつつ見た事は無い、ハンターズギルドの紋章を刻んだそのいでたち。選ばれし者の一声が、瞬く間に周囲を飲み込んでゆく。駆け寄るラムジーは、自らの主人を頼もしげに見上げた。

「ギルドナイト、クエスラ=カーバイトの名において命じます…双方共に退きなさい!」

 それはミナガルデを統べるハンターズギルドの全権代理人。それは最高峰のハンターである証。ギルドナイトの名を出せば、この街で通らぬ道理など何一つ無い。絶対の信用と信頼を背負う、狩人と狩場の守護神。

「さ、乱痴気騒ぎは終わり。貴方達も王都にお帰りなさいな。さもなくば…私一人が相手よ」
「な、何を…そんな、ギルドナイト?義母さんが!?どうして…だから?昔からそれで…」

 ざわめく騎士達に広がる不安…確固たる信念の揺らぎ。特命を得てこの地に赴き、それを成し遂げ凱旋する筈が。その栄光への道は今、閉ざされつつあるのだ。筆頭騎士の戦意喪失も手伝って、暴走状態だったプリンセスガード達に理性と冷静さが舞い戻る。クエスラの言葉に続く声も手伝って。

「剣を引くべきですね、騎士の皆様…それとも彼女と一戦交えますか?」

 不意に若い男の声。現れたのは、身形の整った長身の紳士。穏やかだが何の思惑も映さぬ瞳が、ぐるりと周囲を見渡した。戸惑う騎士達を諌めるように、未だ冷めやらぬハンター達を制するように。そして少女達の手にある幼竜へと、熱っぽい視線を送る。怯え震えるメルを抱きながら、その探るような視線から蒼幼竜を庇うイザヨイ。トリムの腕の中で、シハキが低く唸って睨み返した。

「あの人、怖い…値踏みされてるみたい。おいで蒼丸、近付いたら駄目」
「落ち着いてシハキ!怖いね、今日は怖い人いっぱい居るね…でも大丈夫、オレが付いてるから」
「あの服…王立学術院の書士?どうして…女将さんが?」

 事件は収束へと向かいつつある…だがしかし、イザヨイの胸中を掠める微かな不安。それが憂慮であるよう願って、彼女はクエスラを黙って見詰める。山猫亭の女将は今、ギルドナイトとしての責務を全うすべく、それを示す装束を纏って騎士達と対峙していた。握るマントの白さを、徐々に真っ赤に染めながら。

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