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「女将ー、お客さんスよぅ!」

 眠そうに目を擦って、クエスラはカウンターに身を起こした。一時の居眠りでまどろむ、夢の世界に別れを告げながら。だが目の前に居るのは、ニコニコと笑みを浮かべるサンクのみ。今日は珍しく、身形を整え防具を纏って。彼女は未だ夢から冷めやらぬ女将の、肩を掴んで大きく揺すった。

「はいはい、聞こえてましてよ…で?お客様は何処ですの?まさか…貴女?」
「いやいや自分じゃ無いスよ。ほらっ!」

 くるりとサンクが背を向けると、小さな小さな老人が現れた。まるで荷物のように背負われているが、気を悪くした風でも無く笑顔を湛えて。深い皺を刻んだ顔は、まるで彫像のように微動だにしない。だがしかし、瞳の奥には鋭い眼光。思い掛けない来訪者の正体に、思わずクエスラから眠気が吹き飛んだ。

「フォッフォッフォ〜、ハラヘットンナー?元気そうじゃの、クェス」
「腹減ってるッスー!女将、御飯!今日はとっても裕福スよ!ねー、じーちゃん」

 呆然と立ち尽くすクエスラ。何事かと駆け寄るラムジーも、老人の顔を見て同じ表情で固まる。そんな一人と一匹には気も留めず、サンクは馴れ馴れしく老人を振り返った。年月を刻んだ皺が、先程から微笑を象って僅かに揺れる。
 老人はサンクの依頼人…今日の仕事は護衛クエスト。隣町から山猫亭まで、サンクは老人を背負って来たのだ。難度とは不釣合いな報酬と引き換えに。道すがら話し相手となり、大いに好々爺を喜ばせたサンクは…ミナガルデに到着するなり、工房で防具まで買い与えられたのだ。

「御嬢ちゃんや、ここで降ろしてくれんかの?今までありがとよ」
「ほいっ!自分こそ感謝ッス。報酬貰った上に、着るもんまで買って貰って」

 普段なら断る所だが、独特の雰囲気に押し切られて。店売りならとついつい、サンクは厚意に甘えてしまった。彼女は今、上機嫌で手を振り、酒場の喧騒へと消えて行く。カウンターに腰掛けた老人は、さてと姿勢を正すと…パイプを取り出し煙草を詰めながら向き直った。一際萎縮するクエスラとラムジー。

「達者で何よりじゃ、クェス…怪我はどうじゃ?ラムジーにも苦労をかけるの」
「お、恐れ多いですニャ…身にアニャる御言葉」
「この怪我、次の新月までには…問題ありません、マスター」

 交互にクエスラとラムジーを見渡し、マスターと呼ばれた老人は満足気に頷く。だがしかし、その笑顔には一抹の厳しさを顰めて。労うその次にはもう、本題の言葉を切り出していた。彼こそがハンターズギルドを統べる人物…ギルドマスター。ミナガルデを中心とする辺境を束ね、王国に対してその権益を主張し続ける男。ギルドナイトであるクエスラにとっては、正に主君とも呼べる存在。

「身分を明かしてしまったそうじゃの…ん?クェス」
「!…そ、それは…申し訳ありません、マスター」
「ニャッ、でもミンニャが知らないって言ってくれたニャ!だから…」

 大きく煙を吸い込んで、老人は黒猫を一瞥する。口答えを許さぬ威圧感に、ラムジーは髭先まで震えて押し黙った。気まずい沈黙は長く、老人の口から煙の輪が吐き出されるまで続いた。紫色の大きなドーナッツが、天井へ舞い上がって溶け消える。

「…ここは良い店じゃの、クェス。良い店じゃ…身を落ち着けて専念するもよかろ?」
「!?…マスター!クェスを除名するのかニャ!?」

 思わず詰め寄るラムジーは、鼻っ面をパイプで強かに打たれた。既にもう、その身から溢れ出る凄みは影を顰めたが。温和な笑みを湛えたまま、黙ってクエスラを見詰める。黙って俯き、包帯を巻いた手を握る山猫亭の女将…その顔は青ざめ、固く結ばれた唇が僅かに戦慄いていた。
 ハンターズギルドを支え、狩人と狩場の秩序を守る者達…ハンターの中でも一流の、限られた者しか選ばれぬギルドナイト。その戒律はハンター達以上に厳しい。無論、その正体を知られたとなれば、本来は除名となってもおかしくは無いのだ。

「普通の女に戻るもよかろう…未だあの坊やの母親も、満足に出来ぬ身であろう?」

 返す言葉も無く、ただ頬を赤らめて俯くクエスラ。咎めるでもなく責めるでもない…愛娘を嗜めつつ心配する、父親にも似た情の篭る一言。ギョッとするラムジーの横で、クエスラは黙って沙汰を待った。だがしかし、口をついて出るのは煙ばかり…待てども待てども、クエスラの処遇は語られない。

「…未だ独り身なれど、嫁ぐつもりは有りません。マーヤの事は…私、母親失格です」
「ふむ、その後マーヤは…ん?どうしたのじゃ?」

 家を出ました、とだけ。それ以上はもう、クエスラの口からは語られなかった。だがしかし、彼女を幼少より見てきたギルドマスターは、僅かな言葉で全てを悟る。彼はより一層深く煙を吸い込んで…大きく溜息と共に吐き出した。

「難儀じゃのう、あれも変に頑固な子じゃからな…で、やはりあの男が忘れられんか?クェス」

 黙って頷くともう、ギルドマスターは何も言わなかった。ただパイプを吹かして煙を燻らせながら…細い目をより細めて店内を見渡す。先程自分を送り届けた人物は、仲間達に囲まれて杯を傾けていた。少々能天気だが、なかなかに良いハンターと感じる。その背に負われてみれば、実力の程は自然と知れる…彼は辺境の無頼漢を束ねる、ハンターズギルドのマスターだから。

「沙汰は追って伝える。クェス、最後の恋にも…いつか次がくるぞい?」

 その声をクエスラが聞いた時、小柄な老人の姿はカウンターから消えていた。まるで白昼夢にあったかのように跡形も無く。その小さな背中はもう、現役のハンター達に紛れて群衆の中へ。その存在感はやはり、解る者には自ずと知れて…行く方向へと人混みが分かれ、進む方向へと道が伸びる。新品の防具を自慢しながら、後は武器だと意気込むサンクへ。彼女は近付く老人に気付くと、気圧された様子も無く気さくに語りかける。昔からクエスラ達ギルドナイトを見守り、影ながら支えてきた眼差しに見詰められながら。

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