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 それは恐らく、最も強い負の感情。あらゆる理を捻じ曲げ、不可能を可能とする無限の力。この世においてただ一つ…憎しみ。それは常に、失う事で得られると彼女は知っていた。嘗て最愛の人を失う事で、比類無き力を手にしたのだから。そして恐らく、今彼女の前に崩れ落ちた、巨大な銘入の鎧竜も。
 煉獄を揺るがす咆哮と共に、大質量が地を揺るがす。同時にクエスラは膝を付き、次いで肩を押えながら倒れ込んだ。灼けた火山岩の大地へ、血と汗が音を立てて染み込んでゆく。それでも呼吸を貪るように身体を揺らして、満身創痍のベテランハンターは生存を全身で感じていた。激しい痛みと身を炙る熱気も、今を生きている事の確かな証。

『やぁ…久しぶりだね』

 鼓膜を震わすその声に、クエスラの身震いがピタリと止まる。まるで同時に、早鐘のような心臓すら止まったかのような錯覚。幻聴はあまりにも懐かしく、その主は恐らく優しげに微笑んでいるように感じる。瀕死で地べたに転がり、このまま転がり続ける事で死ねる恋人を、具現化した追憶が見下ろしていた。彼岸の彼方を見上げるように、クエスラは地に伏した面を上げる。

『懐かしいなぁ、コレもキミも。どっちももう、俺の知る姿じゃ無いけど』

 ぼんやりと光るその姿は、もう何年も前に去った影。一生忘れない、一瞬たりとも忘れられない姿。動かなくなった凱龍の首筋に、楔のように打ち込まれた大鎌へ手を伸べて。男はクエスラに穏やかに微笑む。生が死へと置き換わるのを感じて…彼女は弱々しく笑みを返した。

「迎えに来たの?」

 幻影は問いに答えず、黙って生前に愛用していた武器を撫でる。嘗て彼の手にあって、数多の飛竜を屠って来た戦斧は…今も魔女のギロチンとして、鋭い刃で血を吸い続けていた。流石に凱龍の首を撥ねる事は適わなかったが、居並ぶ墓標どどれよりも深々と、強固な堅殻へ深々と突き刺さる。

『…これがキミの墓標となるのかい?』

 灼熱のマグマに照らされ、長い影を刻む武器達…それは全て、振るい手達を弔う狩人の墓標。一瞥して目を細め、男は質問に質問を返す。それはまるで、最初の質問を繰り返すような。その真意を今一度、慎重に確かめるように。
 黙ってクエスラは見詰めた。哀しげな瞳の、今でも昔以上に愛しい人を。熱気に揺らぐ幻影は、手を伸べれば触れられそうな程に鮮明に。想いの強さを色濃く感じる、あの日のままのその姿。だがしかし、両者は既に生死で隔てられ、長い年月に曝され過ぎた。クエスラは搾り出すように、永らく堆積していた気持ちを告げる。結晶化した恋の化石が、小さな音を立てて弾けた。

「それは…貴方のお墓よ。私、まだ死ねないの」

 精一杯の笑みで見上げて、潤いの飛んだ髪を掻きあげる。尽きるまで泣いたあの日に、僅かに残った最後の一滴…一筋の光が頬を伝った。寂しそうに、しかし大きく頷く幻影。既にもう、その声はクエスラには聴こえなくなっていた。その姿も徐々に薄れ、あるべき場所へと還って行く。涙で滲む輪郭は、灼熱の空気へ拡散して消えた。最後に僅かに、唇が言葉を形作る。私もよ、と…クエスラは小さく呟き見送った。

「そうよ、私まだ死ねない…オマエは?」

 死せる者の残滓は霧散して消え、生ける者の残光が蘇る。真っ赤に充血した瞳が見開かれ、重々しい巨躯が隆起した。クエスラも震える膝に手を付いて、歯を食いしばって立ち上がる。凱龍はまだ、その復讐に滾る命を途切れさせては居なかった。例え背負う墓標が増えようとも、彼の傷が癒される事は無い。憎しみはより強い憎しみを呼び、その連鎖は果てしなく続く。

「やるならいらっしゃい…私、トカゲ風情が落とせる女じゃなくてよ」

 火傷と裂傷に蝕まれ、肉も骨も血に濡れながら。振るう武器も無く、体力も罠も尽き果てて。それでも自らの足で地を踏みしめ、狩人は鋭い眼光で飛竜を射抜く。低い唸り声で応えて、凱龍はクエスラの白い顔を睨み返した。その口からは僅かに白い湯気が上がる。
 剣の山が動いた…その巨体がゆっくりと、墓標の並ぶ背をクエスラへ向ける。凱龍もまた満身創痍…脚を引き摺り痛みに喘いで、それでも憎悪に身を焦がしながら。火山の王は熔岩のうねりへと、その巨体を沈め消えてゆく。その逞しい翼越しに一度、クエスラの姿を振り返りながら。真っ赤に滾るマグマの海へと、その姿が完全に没してから…クエスラは血を吐いて再び地に伏した。

「ふふ…私もヤキが回ったわね。討伐失敗、か」

 もう二度と立てない…立つ余力も無い。じりじりと削られてゆく命を、今はもう繋ぎ留める術が無かった。だが、まだ死ねない。愛しい人の言葉ですら、抗うクエスラを止められないのだ。彼女の帰りを待つ者が、彼女の居場所に沢山居るから。何よりまだ、気持ちが擦れ違ったままの息子が居るから。

「帰らなきゃ…帰って、あの剣で…守るの。あの街を…皆を…あの子を」

 手を伸べる。家路への一歩へ代えて。未だ完治せぬ手の傷が、灼けた石を掴んで酷く痛んだ。それでもクエスラは今、強く強く生還を望む。這ってでも帰る…あの場所へ。生きて生き抜いて、そして生き終えたら。その時はあの人へ還る。だが、今はその時ではない。何故ならこの瞬間も、クエスラ=カーバイトは生きているから。生きようとしているから。
 一歩にも満たぬ、足取りとも呼べぬ速度で。無様とさえ感じず、ただ懸命に。クエスラは光を目指して我が身に鞭打った。あの世でもう、彼女を呼ぶ声は聴こえない。ただ黙って待つ人が、何時でも見守ってくれるから。代わって聴こえるのは今、この世で彼女を待つ仲間達…その幻聴がはっきりと近付くのを感じて。クエスラはただ光へ手を伸べ、身体が軽くなるのを感じた。

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