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 歩き慣れた廊下は今、無限に続くかの如く感じられる。ぼやけた視界は大きく揺れ、不快な汗が額に滲んだ。壁に身を擦り付ける様にして、クエスラは全身の痛みに耐えながら追った。最愛の人との別れを終えた今、真に愛情を注ぐべき…否、ずっと昔からそうすべきだった息子を。

「あの子に、言わなきゃ…そして、これ、から…駄目、血が足り、な…」

 山猫亭全体が今、歓喜の喧騒に満ちている。それなのに誰とも擦れ違わない…その幸運を感じる余裕も、今のクエスラには無かった。血の気の失せた白い顔には、余裕の一欠けらも無い表情が浮かび。荒い呼吸は小刻みに浅く、込み上げる吐息は鉄の味。遂に彼女は、崩れるようにその場に倒れ動けなくなった。その耳朶を打つ聞き慣れた、懐かしい友の声。

「もう限界かい?ギルドナイトの名が泣くねぇ…お立ちよ、クェス」

 見上げる霞んだ目にも、豪奢な金髪を揺らす人物の顔が、クエスラにはハッキリと見えた。古くからの知己が今、腕組み黙ってクエスラを見下ろしている。何時に無く厳しい表情で。

「ハンターを支え守るハンターになる…ハンター達の心の故郷になる。確かにそりゃ立派さね」
「…ナル」
「そうやって見栄張って、気張って生きてるアンタは好きさね…でも」
「ん、解ってる…いいえ、違うわね。解った積も、りで、いた…だけ」

 自分が凱龍の討伐に失敗し、瀕死に等しい重傷を負った…王都ヴェルドのマーヤにさえ、その一報は届いていたのだ。ココット村の彼女が…ナル=フェインが聞き及ばぬ筈は無い。そしてそれは、彼女がミナガルデへ駆け付けるには充分過ぎる理由だった。
 苦しげに呻き、天を仰いで壁にもたれ掛かりながら。引き裂かれるような全身の痛みに抗う様に、ゆっくりと立ち上がるクエスラ。微動だにせず、その様子を見守るナル。何百と言う言葉を交わすよりも重く、何千と語らうよりも深い沈黙が、二人の間を行き交う。

「私、この店の、ハンター達が、好きよ…みんな、クッ!みんな、いい子…」
「その女神様気取りが、あの子をずっと一人ぼっちにしちまった。何よりクェス、アンタはアイツを…」
「あの人、にね…お別れして来たの。フフ、馬鹿な女、でしょ?何年も、掛かって、やっと」
「…そうかい」

 再び大きくよろけて、倒れそうになるクエスラを。間一髪で抱き起こし、肩を貸して身を起こし。ナルは大きく息を吸い込み、声を張り上げた。

「しっかりおし、クエスラ=カーバイト!あの子が待ってんだよ!」

 山猫亭全体に響く、凛とした重い一言だった。同時にナルは、クエスラを引き摺るように玄関へと歩き出す。

「さっきのガキ、ありゃアンタが居なけりゃ死んでたね…でもね、クェス」

 何とか自分で立とうと、クエスラが残る力を振り絞るのを感じて。しっかりと支えつつ、思いのたけを遠慮なくぶち撒けるナル。

「そんなアンタが一番、ああやって母親やんなきゃいけなかったのは…あの子に対してさね」

 力の入らぬ膝に手を付き、歯を喰いしばって。クエスラは前に進む。例え這ってでもと思いながら。厳しい言葉とは裏腹にナルは今、その痛みを分かち合うように傍らに寄り添っていた。徐々に意識が鮮明になり、クエスラの顔に僅かだが生気が蘇る。

「全く…愚痴なら酒無しじゃ聞いてやれないね。なんだい、こんな掠り傷で…らしくないね!」
「ごめんなさい、ナル。私…どうかしてたわ」
「その台詞を聞くのはあたしじゃないさね、それに…」
「それに?」

 あの子は私達の子も同然だろ?…そう言ってナルは、何時もの強気な笑顔でクエスラを励ました。その笑みだけで不思議と、傷の痛みも和らぐように感じて。先程の大声に、何事かと酒場や部屋からハンター達が顔を覗かせた時には。もうクエスラは、自らの足で毅然と立っていた。そして今、しっかりとした足取りでマーヤを追う。ナルと共に。

「クェスもマーヤも甘え下手さね…それでも、甘える相手が居るアンタは良かったのさ」
「そうね…確かに甘えていたのは私の方」

 心配そうに駆け寄る新米ハンターや、古い馴染みのベテランハンター。先程の少年が命を取り留めたと知り、賞賛と安堵の言葉を述べながらクエスラに集まる酒場のハンター達。その一人一人に笑顔を返しながら、クエスラは山猫亭の玄関に立つ。その背を押すような眼差しで、微笑み見送るナル。

「ま、しっかりやんな…母親代わりじゃなく、あの子の母親になってやんなよ」
「ありがと、ナル…今までもずっと、ありがとう」
「礼には及ばないさね。あたしゃあの子に懐かれて、そりゃ悪い気はしなかったさ」
「じゃ、行って来る…あの子は私を許してくれるかしら?」

 扉を開き、差し込む陽光に溶け入りながら。クエスラは肩越しに一度、ナルを振り向いた。

「さて、ね。あたしならでも、マーヤを信じるさ…それがあたし等の流儀じゃないかい?」

 そうね、と微笑み、クエスラは対峙した。愛する過去と決別した今、愛されぬ過去を生きて来た息子と。

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