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「越峡阻止限界点まであと100、95、90…目標の入水を確認。残念だけどここまでね」

 零れた冷静な呟きは、普段ほど抑揚を欠いていない。ブランカの表情には今、焦りの色がありありと伺えた。もう数分も待たずに、このクエストは失敗となるのだから。国家の興亡を掛けた、国土を挙げての一大クエスト…その緒戦は今、戦略的な大敗北で終わろうとしている。深い溜息と共に巨大なシルエットを見やり、双眼鏡を下ろすブランカ。だが彼女は、視界の隅に信じられないモノを見つけて身を乗り出した。

「ちょっとキヨ君、彼を止めて頂戴!もう無理、これ以上は無駄よ!」
「もうやってらぁ!クソッ、この波でもうあそこまで…アズ、先行しろっ」

 シキ国の人間は目がいい…か、どうかは知らないが。ブランカが叫ぶより速く、キヨノブは走り出していた。彼の声に応えて、長身のガンナーが抜きん出る。夕焼けが照らす端整な顔に、厳しい表情を滲ませて。砂浜に打ち寄せる荒波を物ともせず、アズラエルは仲間を追って海へ入った。
 冷たい海水を掻き分け、アズラエルは腰まで浸かって前へ進む。沈みかけの太陽は真っ赤に燃えて、例えるなら紅蓮の炎か、はたまた真紅の鮮血か。だが、その光は彼へと届かない。アズラエルを包むのは、日光の残滓を遮る巨大な闇。長い長い影法師を落とすのは、海峡を越えんと進む巨大な龍。その足元で僅かに、水晶が閃き煌いていた。それは蛇剣に埋め込まれた双眸の輝き。

「ユキカゼ様、それ以上は深さが…ユキカゼ様!」

 いくら呼び掛けようとも、少年剣士は振り向かない。振り向く代わりに何度も、強く握った剣を振るう。見上げる事すら適わない、山のように巨大な龍へと。根が生えた大木の如き、強靭なその四肢へと。普段のユキカゼからは想像もつかぬ状況にしかし、アズラエルは黙って寄り添い手を掛ける。全身で呼吸するユキカゼの、激しく上下する肩へと。

「あ、ああ…アズさん?丁度良かった、コイツの足止めてよ…俺、ここから登るから」
「いけません、もう今日は退きましょう。それに…止まりませんよ、人の手でこの龍は」

 呆然と見詰めるユキカゼを見下ろし、幼子を説き伏せるように静かに優しく…アズラエルは言葉を選んで説得する。その横を通り過ぎる龍は、足元の二人など眼中に無く。見えない道標をなぞるように、真っ直ぐと海峡へと没しようとしていた。ふと我に返ったユキカゼは、再びそれを追おうとして引き止められる。

「離してよ、行かなきゃ…もう俺はイヤだよ。もう間に合わないのはイヤなんだよ!」
「落ち着いて下さい。船で先回りすれば、上陸間際を叩けます。さ、行きましょう」
「駄目だ!だって上陸しちゃったら…あの村はもう、直ぐそこじゃないか!だから俺が…」

 聞き取れない声が響いた。それが言葉だと知った瞬間に、ユキカゼの頬に焼けるような痛み。自分でも母国語に気付いて、気まずそうに平手をしまいながら。アズラエルは懇願の眼差しを仲間へと向ける。ユキカゼはもう、走り出そうとはしなかった。俯く二人の少年へと、冷たい海風が吹き付ける。

「ゴメン…解ってる。確かにあの村は、俺が生まれ育った村じゃないけど。でも…でもっ」
「貴方の命だって、私自身の命じゃありません…けど、凄く大事です。同じなのでしょう?」

 小さく頷いたっきり、顔を上げられなくなったユキカゼ。自分でも解っていた…故郷でも無いのに、どうして無茶をしてしまうのか。あの村とは…ココット村とは、何の縁もゆかりも無い。だが、それが危機に瀕して間に合わないと知るや、いても立っても居られなかったのだ。間に合わないのはもうゴメンだ…今、自分を見下ろす仲間の顔を見る度に。その想いが胸中を過ぎるから。

「さて…私は砦へ行くわ。キヨ君は?当然、まだ闘うんでしょ…アレと」

 形良い顎をしゃくって、ブランカは夕日の方角を指す。砂浜へと肩組み帰って来た二人を、眼を細めて眺めながら。キヨノブは思案を巡らせ腕組み黙る。今すぐ夜の船便に乗れば、明日の今頃に対岸でリターンマッチが可能。周囲のハンター達も皆、移動を開始し始めた。だが、そこで駄目なら…上陸後三日と待たず、龍はココット村を襲う。否、襲う意思も無く、ただ通過する。全てを踏み潰して。
 王国が威信と存亡を賭け、巨額を投じて築いた砦…それは文字通り、西シュレイド最後の切り札。それは王国から見て、ココット村より手前にある。砦で決戦の火蓋が切り落とされる時、既にもう地図からココットの名は消えているのだ。

「…俺ぁ取り合えず、一度ミナガルデに戻る。アイツ等も疲れて限界だしな。それに…」
「戦力を期待しても無駄よ…ミナガルデはモヌケの空。みんな砦に招聘されてる。褒賞いいし」

 ミナガルデで人手を集めて、ココット村で決戦。ブランカと違って、キヨノブには一筋の光明が見えていたのだが。人手さえあれば、あの男が何とかする…ような気がする。ペテン師一歩手前の怪しげで頼りなさげな、それでも常に奇策で王国を救ってきたあの男が。

「悪いけど、ココットじゃ勝機は無いわ。この闘い、負けられないもの」
「勝機が無い?見えてねぇだけだろ。大体あそこにゃお前のライバ…」
「騎士様気取りが抜けてないんじゃない?…砦の後にも村は沢山ある!解る?」
「っ!…なんだとこ、の、ん…わ、悪かった。ま、俺等で何とかしてみらぁ」

 突然胸倉を掴まれ、女性とは思えぬ力で引き寄せられて。反射的に掴み返そうとしたキヨノブは、慌ててその手を引っ込める。金髪を棚引かせた白い顔は、夕日を浴びて尚白い…血の気の引いた顔でブランカは、唇を噛みながらキヨノブを睨んでいた。
 その闘いは決して負けられない…古来より続く、蟻と象の絶える事無き闘争。それは旧世紀の文明を失った今、闘いですらない。龍とは既に、人類にとっては災害。抗う術も避ける手段もありはしない。だが、滅びを感受する理由もまた、人の世のどこにもありはしないから。例えそれが、数百年に一度の大災厄…老山龍の襲来だったとしても。

「ま…あれだ。また会おうぜ、ブランカの姐さんよ。おーい!アズ!ゆっきー!帰ぇるぞー!」

 微笑を湛えたブランカの返事は、千里を覆う老山龍の咆哮に消えた。水平線へと沈む真っ赤な夕日を、縦に両断するその巨大な影。災厄は龍声の轟きで空気を震わせると、海中へと静かに没して言った。徐々に小さくなってゆく航跡は、確かにあの地を…ココット村を目指して、真っ直ぐに伸びていた。

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