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 耳を劈く咆哮の後には、水を打ったような静寂。まるで老山龍の怒声に、あらゆる生命が沈黙で応えたように。ただ全力疾走で駆ける我が身の、早鐘のような鼓動だけが喧しかった。並走する仲間達も皆、言葉一つ零さず闇夜を馳せる。既にもう突破された第一区では無く、ガンナー用に櫓を組み立てた第二区へと。トリムは谷へと降りる細い道を抜け、張り出した崖の上へと飛び出した。そこは幾年月もの風雨に削られた、天然の城砦。

「みんなっ、奴は…老山龍は、っとっと!」
「大丈夫ですか?トリム様。お客様はお見えになってますが…御覧の有様です」

 細い板を渡しただけの、粗末な連絡通路を踏み外して。一瞬だけ無重力に身を預けたトリムを、力強く引っ張り上げる豪腕。長身の男が二の腕を掴み、そのまま片手で少女を抱き寄せる。その落ち着き払った氷のような表情は、殺気立つこの場では異質。色素の薄い髪を掻きあげ、アズラエルはトリムを離すと闇夜を睨んで黙ってしまった。

「…見えない。どうして?もう直ぐそこ、目と鼻の先に居るのに」
「今夜は月も星も出てませんからね。夜明けもまだ遠い…」

 定期的に地鳴りが響き、その音は僅かに大きくなりつつある。姿無き老山龍の足音は、確かに直ぐそこまで来ているのに。僅かに風が吹き抜ける谷底は、漆黒の闇に塗り潰されていた。目を凝らしても黒一色の世界…闇雲に撃って攻めるには、弾薬と人数が余りに心もとなかった。

「クソッ!誰か閃光玉とか持ってねぇのかよ!」
「んなもん入れる余裕有るか?フリックさんが言ったんだ、麻痺も毒も閃光も無駄だって」
「当れば火が付く、兎に角撃ちまくる他あるまい。多少の無駄弾も覚悟の上で、だ」
「お待ち下さい。方向もそうですが、距離が掴めなければ…未だ射程内なのかどうかも難しいです」

 地元のハンター達が口々に攻撃の強行を述べるが、アズラエルが冷静にそれを諭してゆく。普段から何ものにも興味を抱かぬ少年が、今は積極的に討伐へ貢献しようとしていた。他者と言葉を交わす事すら、普段であればめったに無いのに…トリムは説得をアズラエルへと任せると、櫓の手摺から身を乗り出した。

「誰かロープとカンテラを!オレが降りて、可能な限り接近する」
「ばっ、馬鹿言うんじゃねぇよ!でんこちゃん、無茶は駄目だ!」
「無茶だけど無理じゃない。下で地面を聞けば、おおよその距離だって」

 もはや迷っている時間は無い。この暗闇なら、いかに小さなカンテラの明かりでも、ここからはっきりと見えるだろう。トリム自身が危険な上に、あの老山龍を相手に零距離射撃を試みる羽目になるが。迷っている暇は無い…老山龍の地を踏みしめる轟音は、刻一刻と近付いているのだから。

「無駄ですけど、ね。この闇夜で下まで降りれますか?」
「いくら何でも…俺等もとりあえず手立てを考えるから」
「でもっ!今は考えてる時間は…大丈夫、こう見えてもオレだっ…痛っ!」

 不意に左手に痛みが走り、トリムはカンテラを床へ落とした。割れた硝子が小さな音を立て、閉じ込められていた雷光虫が、バチバチと青白い尾を引いて飛び去る。その僅かな明かりが、ぼんやりと痛みの元凶を浮かび上がらせた。ゴム質の防具を容易く食い破る、それは幼い雌火竜の牙。
 殺意は感じない。が、普段のじゃれて噛み付くそれとも違う。食い込む牙には意思があった。決して致命傷でも無く、出血も微量で怪我とすら言えないが。確かに痛みが、痛みを伴う何かが伝わる。狩人のトリムへ、飛竜のシハキから。真っ赤な双眸がじっと、瞬きせずに少女を見据える。

「…解った。オレ、行かない。狩場を離れちゃ、狩人失格だよね」

 納得した様子で腕から離れると、幼竜のシハキは一声鳴いて。精一杯羽ばたくと、放たれた矢のように闇夜へ吸い込まれてゆく。どんどん小さくなる背中は、あっという間に見えなくなって。だが、間違いなく誰もが確信して見送った。シハキは今、老山龍へと翔んで征く。真っ直ぐに、全速力で。その小さな翼が千切れんばかりに、吹き荒れる谷底からの気流を引き裂いて。ここ最近の苛立ちが、まるでこの瞬間への闘争準備だったかのように。

「…いっちまった、な。でんこちゃんや、俺等もチビに負けねぇよう頑張らにゃ、な?」
「大丈夫ですよ、トリム様…あれは私が紅玉を剥ぎ取るまで、必ず生きてて貰いますから」
「むい…つーかアズさん、それ困る。シハキの尻尾が無くなっちゃうよ」

 直ぐに生えますよ…と、真顔で応えつつ。生えねぇよ!と笑い合う周囲にやや表情を緩ませて。絶望の黒い霧を払って、状況を打開すべく思案を巡らせるアズラエル。雰囲気が和らいだ今こそ、何か具体的な策で攻撃を開始しなければ…でなくば、第二区をむざむざと素通りさせてしまう事になる。第一区同様に。誰も口には出さないが、不意を突かれて第一区は恐らく…

「音で大体の距離は…」
「掴めますか?私は無理です…あまりに対象が大きすぎて」
「うーん、オレ等も翼があればなぁ…ん?あれは…」

 首をかしげて腕を組み、誰もが無い知恵を絞り上げる。そうして出口の無い悩みに答を求めるも。ただただ近付く音が大きくなるだけ。弱ったトリムがふと見据えた闇に、小さく光る輝きがあった。見間違えかと目を凝らせば、二度三度と光は瞬く。無限にも思える闇へ開いた、それは一点の光明。

「あれは…シハキの火だっ!みんな、あそこ…老山龍はあそこっ」

 撃鉄が唸り、銃身は弾薬を飲み込んで。誰もが愛銃に魂を宿して、その銃口を闇夜へ向ける。ただ一点、闇夜に瞬く火竜の星へと。シハキに当りませんように…祈るように銃を捧げ、そのまま構えて照星を覗き込み。トリムは銃爪を力強く押し込んだ。
 砂竜の鱗で飾られた砲身から、乾坤一擲の拡散弾が轟音と共に飛び出す。反動で仰け反り後ずさって、堪え踏ん張る少女に続いて。幾つもの砲声が高らかに鳴り響いた。着弾までの無限にも思える時間を、誰もが固唾を飲んで待つ。ある者は次弾を装填しながら、またある者は弾薬を調合しながら。

「っしゃぁ!ビンゴ!あれが聳え立つクソ老山龍っ!野郎共、全弾お見舞いしろっ!」
「へっ、がってん!思ってたより小さいぜ…オレぁてっきりあれの何十倍も…」

 爆炎に浮かび上がる、老山龍の不気味なシルエット。僅かに歓声が上がり、士気を得て狩人達は息巻いた。が、気付いた者は誰も沈黙せざるを得ない。喜び勇んで撃ちまくる傍らで、驚きのあまりカラ骨を落とす者も。アズラエルも郷里の言葉を口汚く罵り、舌打ちしながらボウガンを構える。小さいのでは無く、まだ遠いのだ…思ったほどは近付いておらず、今は射程距離ギリギリの場所で。そこでさえ、視界を覆う巨躯。夜間である事も手伝って、熟練ガンナーでさえ見間違う。老山龍の存在が、完全に距離を食い潰しながら迫っていた。

「撃とう、アズさんっ!オレ等はガンナーだから…撃てる弾がある内は、絶望しちゃ駄目だ!」

 既に硝煙が充満する中、トリムは奮い立った。次弾を装填するなり、即座に老山龍へと撃ち放つ。骨身に染みる振動と衝撃に耐え、目まぐるしく手元で弾薬を調合しながら。少女は覚悟を決め、痺れる手足に鞭打って銃爪を引いた。自分が参るのが先か、銃身が撚れるのが先か…脳裏を掠める僅かな不安。
 愛用のデザートストームは砂竜素材、軽さと装填速度で勝る反面…耐熱性に劣り長時間の射撃には向かない。そして彼女自身も気付けなかったのは、ゲリョスのゴム皮による防具。炎に弱い防具と武器が、これから起こる悲劇を呼び込む事になるとは…今のトリムには、思いもよらなかった。

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