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「あ…朝だ」

 東の空が朱に染まり、燃えるように赤い太陽がゆっくりと昇る。ユキカゼはそれをただ、呆然と眺めていた。我が身に起こった事も解らず、我が身の無事すら感じられず。酷い振動に揺られながら、彼はぼんやりと天を仰いだ。日の光に追いやられるように、雲は嵐を引き連れ彼方へ飛び去る。その流れに逆らって、白み始めた空を引き裂く翼があった。

「あれはでんこの…っ!?」

 ユキカゼは長いまどろみから覚めた。正気を取り戻して最初に気付いたのは、危険に身を晒されている己自身。彼は老山龍の背甲の、屹立する巨大な触角の一本に引っかかっていた。驚きもがいた反動で、微妙なバランスを保っていた四肢が重力に捕まって。珪化したかのような甲殻上を、真っ逆さまに転げ落ちるユキカゼ。

「そ、そうだ…俺は老山龍の風圧にあおられて…」

 辛うじて身体が小さな棘に引っかかり、すぐさま手を伸べてしがみ付く。肩越しに見下ろす眼下では、仲間達の剣が閃いていた。何人かがユキカゼの存在に気付いて、歓声と悲鳴を上げているのが聞こえる。目も眩むようなその高さに、思わず少年は息を呑み…続いて苦笑を漏らした。今の今まで気付かなかったが、彼は片手で老山龍の側面にへばりついてた。利き手にはまだ、愛用の蛇剣が握られている。こんな時だというのに、離す事は愚か握っている事も忘れていた。

「アズさんなら見つけるかな?目がいいもんな…よしっ」

 暫しの別れを惜しむように、軽く左右に振ってみる。そのまま強張る指の一本一本をゆっくり引き剥がして。握力が抜けると同時に、蛇剣は乾いた音を立てて見えなくなった。狩りの道具である以上に、自分にとっては大事な一振り。だが何故だろう?今は躊躇い無く手放せる。それは恐らく、大事ゆえに。あれを抱えて死んではいけないような、そんな気がしたから。
 両手で掴まり直すと、ユキカゼは全身の筋肉に鞭打って、果敢に重力へ抗い始めた。たちまち乾いた血の上に汗が噴出し、息は詰まって鼓動は高鳴る。食いしばる奥歯の軋む音を聞きながら、彼はゆっくりと、だが確実に老山龍の背へと這い上がってゆく。着慣れた甲冑が嫌に重く、少年の身体に覆い被さっていた。

「くっ!はぁっ!…はぁ、はぁ…さてどう、しよう…」

 広い広い老山龍の背に、大の字に転がって。吹き抜ける風に冷えた汗は、直ぐに凍える寒さを感じる。だがもう、指一本動かす気力も無く。荒い息を徐々に落ち着かせながら、ユキカゼは振動に身を任せて眼を閉じた。どうやって降りるか、その後どう闘うか…今はもう、何も考えられない。思考は結びつく前に拡散し、意識の一部を持ち去って。しかしどこかで、ユキカゼは自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。

「…そう、だ…あの飛竜…ええと、シハ…キ?」

 重い瞼を持ち上げて、うっすらと開くぼやけた視界に。まだ翼は羽ばたいていた。弱々しくふらふらと宙を舞い、二度三度と小さな火球を瞬かせながら…その翼影は次第に速度を失い、空気すら重た気に墜ちてくる。ユキカゼは咄嗟に上体を起こし、勢いに乗じて立ち上がる。が、それが最後の力…そのまま再び膝を付く。広い広い老山龍の背の、突き立つ触角の向こう側へと…幼くも勇敢な雌火竜は消えていった。

「くそっ!立てよ、立てっ、て…?こ、ここは…これが老山龍?」

 ぴくりとも動かぬ我が身で、唯一両の眼だけが周囲を見渡す。遥か先に天を突く、巨大な首は霞んで見えて。その大きさは背に身を置いても変らない…寧ろ、生物の背に居ることすら忘れるような圧倒的スケール。小さな村ならば、この背にまるまる収まってしまいそう。
 だが、少年の言葉を驚きで奪ったのは、その広大な空間の存在ではない。老山龍の背を見渡し、ユキカゼは似たような場所を見た事がある気がした。異様とも言えるこの光景は、世界中のどこにも無いとは思うが。この場を支配する空気を知っている。

「…ここは…まるで御墓だ。老山龍…お前はいったい…」

 背甲のあちこちに埋没する飛竜の骨…深く埋まるものは古く、見た事もない種ばかり。浅く埋まるのはまだ、既存の種に近いものが見て取れるが。火竜も怪鳥も皆、どこか見知った姿とは違っていた。そればかりではない、あちこちには刀剣や武具が点在し、中には見た事も無い…武器かどうかも解らぬ朽ちた塊。
 跪く足元にあるのは、恐らくボウガンの類…だが、弦も弓も無い。柄だけの剣は鋼の刃の代わりに、弱々しい光を灯して転がっている。槍や斧、剣に槌、矛…見慣れた武器も皆が皆、触れば未知の素材である事が解る。そのどれもが、ただ老山龍の背で朽ちて眠っていた。竜の巨躯も人の英知も。

「降り積もる悠久の刻、か…埋没したのは歴史か、それとも…はは、らしくもない」

 ふっ!と気合を入れ、一気に立ち上がるユキカゼ。彼は振動と疲労によろけながら、倒れまいと踏ん張り歩く。時に躓き、時に転びながら。周囲の風化した景色を極力見ないように、ただ一点だけ…シハキの消えた場所を見据えて歩く。この光景の一部にシハキが塗り込められるのは、余にも忍びない。銀髪の少女が俯き、涙も見せずに泣く姿が脳裏を過ぎる。

「…やぁ、流石にもうリタイヤかい?御主人に似て頑張り屋さんだね、お前も」

 真っ直ぐに突き立つ錆びた大剣。その根元に彼女は蹲っていた。御主人、という言葉に抗議するように、真っ赤な口を開いて小さく吼えて。そのまま力無く縮込まる。彼女をここまで闘いに駆り立てたのは、果たしていかなる物だろうか?守るべきモノの為に魂を燃やす、人間達に勝るとも劣らぬ闘争心。それが遺伝子レベルで刻み込まれた、彼女達飛竜の存在理由そのもの…そんな事など、ユキカゼには知る由も無く。彼もまたシハキに並んで腰を下ろすと、一人と一匹は黙って老山龍の背に揺られる。

「…見ろよ、あれは多分お前の御先祖様だ…あっちは何だろう?見た事も無い飛竜だな」

 鋭角的な銀翼は、今はもう錆び朽ちて。ジェラルミン色に輝いていたのは、遥か太古の昔。それが科学文明の造り出した、人を乗せて飛ぶ機械とも知らずに。ユキカゼはシハキを優しく撫でながら周囲を見渡した。篭手を外して素手で撫でても、徐々に碧色の甲殻は冷たくなってゆくような気がして。自分の意思に反して涙が零れ、少年は膝に顔を伏せて声を殺した。滅び一色に彩られた中、底知れぬ敗北感を抱えて。

「俺等の知らない、今はもう居ない人達とも…老山龍は闘って、そして…痛っ!」

 ゴン!後頭部に鈍痛。嘗て剣だった錆の塊が、根元から倒れてユキカゼを直撃した。過去に散っていった、高貴なる敗北者達…彼等の無言の抗議か。シハキはユキカゼの身体をもそもそとよじ登ると、耳元で小さく一声鳴いて。じっと錆びた大剣を見詰める。再び剣を取れと促すように。ユキカゼは大きく溜息を吐いて、不思議な触感の剣を握ると…再び老山龍の甲殻に突き立てた。

「俺の剣はもう有るよ。こいつは老山龍の戦利品さ。あと…誰かの墓標なんだ」

 自分の剣を取りに行かねば…過去が澱むこの場を抜け出て、今を生きる仲間達の中へ帰らなければ。ここにある物は何一つ、この場から持ち出してはいけないような気がして。ユキカゼは再び立ち上がると、シハキを背負ったまま再び歩き出した。尾の方へ歩けば、何か降りる術が見つかるかもしれない。淡い希望を後押しするように、その背を英霊達の残滓が見守っていた。

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