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 既に日は黄道を降り始め、この季節には珍しい暑さも和らぎ始めた。静かな午後を引き連れて、もうすぐ日が暮れてゆく…ココットの平和な一日の終わり。何も変らないのは、傾き始めた太陽だけ。
 大決壊の瞬間から今まで、フリックは未だあの場所に居た。崖の上から谷を望み、休まず状況と対峙し続けていた。その矢継ぎ早に発せられる指示を、受けるハンター達はもう少ない。大半が倒れた老山龍へと登って難を逃れたが…そこで誰も彼も精根尽き果ててしまった。変って忙しく身体を動かすのは、今まで村にいた非戦闘員。何か自分にも出来ればと駆け付けた、ココットの村人達。

「フリックさん、確認が取れた!さっきの人で全員みてぇだ…あの二人以外は」

 疲弊し動けなくなったハンター達に、村人達は優しかった。ココットがハンターの村である事もそうだが、それだけではない…自分達の故郷、自分達の我家を守ってくれた、いわば英雄達である。その大半が村で手当てを受け、充分な食事と睡眠にありついている。動ける者も僅かに居たが、その姿は正午を挟んですっかり姿を消した。フリックが皆に、休むよう厳に言い渡したから。

「あのコは生きてるさね…きっと、もっと下流に流されちまったんだよ」

 奇跡的に死者は居なかった。急造ダムの決壊という、予想しえぬアクシデントの犠牲者の中に。今思えば、余力を棄てて老山龍に打ち勝った後、よくも生き残れたものだと感心するフリック。無言の帰還を果たす者は無く…ただ、帰還しない者が二人居るだけ。苛いだ様子で爪をかむナル=フェインの、その目尻に光が灯る。

「ああ、生きてるさ…ココットの悪童が死ぬ訳ぁねえ!」
「フリックさん、日没までなら捜索を続けていいだろ?」
「アイツ等、止めても聞かなくてよ…見てくれや、村から小舟担いで来ちまった」

 嘗て堆く岩石が詰まれ、セメント質の流動砂で固められていたダム。その残骸から今、一艘の小舟が漕ぎ出そうとしていた。見知った三人の内、小柄な一人がフリックの視線に気付いて。他の二人を小舟へ追いやり、まっしぐらにこちらへと駆けてくる。サンクとツゥを乗せた小舟は、今や水の満ち満ちた谷へと、小さな航跡を刻んで漕ぎ出した。

「フリックさーんっ!あのっ、もう少しだけ…あの二人、止めても聞かないからっ!」
「ったく、あの馬鹿ヂカラが…担いできた、か。止めても聞かないって、おいおい…」
「フリックさん!…はぁはぁ、ふぅ…もう少し、もう少しだけ。あの二人を探させてよ」
「わーってる、ただし日没までな?…でんこ。お前さん、あの魔女に何言われたんだ?」

 一気に駆け上がって息が着れ、膝に手を付くトリム。彼女の形良い顎を伝う汗は、日差しに乾いた地面へ点々と染みを作った。呼吸を落ち着け顔を上げ、トリムはその問いに応える。聞くまでも無く解っていたが、フリックはその言葉を我が身に刻み付けた。その充血した寝不足の視線は、谷に背だけ見せて水没する、老山龍の亡骸へと注がれている。

「見届ける義務がある、か…あの人は多分、俺にも言いたいんだろうな」

 結果は時として、過程に費やした労力を無とする。今もこうして、文字道理ハンター達の努力は水泡に帰した。その光景をフリックは、黙って腕組み見据えている。髪はボサボサで頬に無精髭が浮き、一児の父親となった喜びと感動も忘れて。血が滲む程に唇を噛み締め、結末を受け止めようと目を見開いていた。傍らのトリムにはもう、かける言葉も無い。
 僅か数刻で大河と化した谷。第一区画を爆破して入り口を塞いだ為、水が引くには数日を要するだろう。その後に待つのは厳しい乾季。僅かでも水を引き直して、村の水源を確保しなければ…そうぼんやりと思考を巡らしながら。フリックは眼下の光景をゆく小舟に目を落とした。

「ツゥさん、何か見えるスか?」
「見エネーナ。潜ッテミルシカネェカモ…ナンテナ」

 小舟が揺れた。遠くから見守るフリックが身を乗り出したのも知らず、サンクは防具を次々と脱ぎだす。下着一枚になった彼女は舳先へ立つと、大きく息を吸い込んだ。

「さんくタン!『ナンテナ』ッテ付ケテ…アーモォ、行ケ行ケ、上デ見テテヤルポ」
「うす、こー見えても自分、泳ぎには自信あるんスよ。ほんじゃ…しゅたっ」

 小さな水飛沫を残して。サンクは静寂の中へと飛び込んだ。上の水面に反射する日光だけが、ゆらゆらと泳ぐ先を僅かに照らす。谷一杯に満ちたとはいえ、まだまだ僅かに透明度のある水。呼吸の許す限り、サンクは谷底目指して沈降してゆく。

(めるめる、いっちゃん…どこスかぁ?居るなら居る、居ないなら居ないと言うスよ)

 徐々に日の光も遠退き、谷底へとサンクは到達した。つい半日前まで、仲間達が命を賭して駆けた場所。老山龍が踏みしめた、龍脈の通ずる龍の道。こうして水に満ちた大地は、もはやその痕跡を些かも残してはいない。何かまるで、老山龍との死闘も、老山龍自体も。一夜の夢だったかのように水は佇む。だが、夢から覚めてもあの二人は居ない。

(一度上がって、ラオラオの根元らへんに潜ってみるスかね…あ?ああ、お前…)

 その剣はまるで、己を棄てた主へ抗議するように。しかし、己より仲間をとったサンクを認める様に。水底に突き立ち、赤い刀身を水に揺らめかせていた。サンクが手放した後、大決壊の荒波に揉まれながら…ここに突き刺さったのだろう。だが、驚異的な重量のこの剣を、今はまだ引き上げてやれない。持って泳ぐ事は不可能…それでも、サンクはその柄に手を掛けた。やはり熱い…周囲の水が沸き立つかと思われる程に。まだ熱いのは、そこに宿る魂が吼えるから。その敵がまだ居ると唸るから。

(熱っ!っとに扱い難い剣…ん?何…「あの光ゲファゴファファファ!?!?」

 肺の空気が全て逃げ出した。全身の血液が酸素を求めて、目まぐるしく体内を暴れ回る。咄嗟に剣を手放し、サンクは全力で浮上を開始した。驚きの声を彼女に上げさせたのは、ほのぐらい水底に光る真っ赤な光…眼光。その巨大さと位置には、彼女とハンター達にとっては見覚えある物。

「ぷはっ!ツゥさん、今っ!今、下でビガッ!って…」
「さんくタン、早ゥ上ガレ!何カ突然、老山龍ガ…コイツァヤベエ!」

 水面は既に波打っていた。揺れる小舟から手を伸べ、必死にサンクを手繰り寄せるツゥ。異変に襲われたのは彼女等二人だけでは無い。彼女達を眺めていたフリックや、その傍らに黙して俯くトリム。涙ぐんで祈るナルや、村で泥のように疲れ眠るハンター達にも。耳を劈く轟咆と共に、再び山は揺れ動いた。

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