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 余りに荘厳な光景に、男は目を細めてただ見守った。日に焼けた顔は渋みを増し、精悍な顔付きは彫像のよう。真っ赤な夕日に曝される彼の背は、見る者が見れば心奪われずには居ないだろう。覇気と哀愁が入り混じる立ち姿は、男の色気に満ち満ちていた。

「こりゃ凄ぇ…結局間に合わなかったが、最後の最後で凄ぇもんが見れたぜ」

 大量の爆薬で崩された谷は、細かな岩が折り重なる天然の堤防。所々から水が沁み出ているものの、意図した者が思うように、谷へと進んだ老山龍の退路を断っていた。今から急いでこの場を補強し、堤防をより強固に作り上げれば。あるいは、谷に満ちた水をそのまま留めて、乾季を何とか越す事も…男は思案を巡らせつつ、その妙案が実らぬよう祈った。何故なら彼は見たいから。これから眼前に広がるであろう、幾千の冒険に匹敵する一大スペクタクルを。

「よぉし、来た来た…遠慮はいらねぇ、俺達人間の都合なんざ、なぁ?」

 男は嬉しそうに語り掛ける。その声は無論、相手へ届く事は無い。届いてもその言葉が、理解されるとも思わない。それでも彼は、目を逸らさずにその瞬間を網膜へ刻んだ。細かな岩盤の壁が容易くブチ破られ、大量の水が噴出して雨と降る。夕焼けに虹を象りながら、老山龍は谷を出るなり一声吼えた。

「へへ、やっぱ来た甲斐があるってもんよ。なぁ?御嬢ちゃん…見えるか?この光景が」
「ん…見えない…真っ暗で、もう…何も、見え、な…」

 傍らの少女に男は語り掛ける。老山龍から決して目を逸らさず、別に同意など得られずとも構わぬ気持ちで。だが、彼の好奇心を擽り舐る、美女との一夜に等しいこの光景…見せずにおくには余りに惜しい。フム、と唸ると男は、レザーハットを目深に被り直す。

「っと、そりゃそうだよな。悪ぃ、今助けて、やっから、よっ!」
「む、むぐーぅぅぅぅ…ぷはっ!しっ、死ぬとこだった!」

 白銀に輝く鎧を纏い、すっぽり頭の埋まった女性ハンター。その突き出てバタ付く両足を掴むと、男は力の限り引っ張り上げる。泥と槌に塗れた顔が現れ、汚れた金髪が僅かに靡くと…ティスは数時間ぶりに外の空気を灰の奥底まで導き吸い込んだ。銀火竜を紡いだ鎧は、谷ごと爆破されて尚、傷一つ付かず夕日を映す。鏡面の如き磨きぬかれた銀の鱗と甲殻。

「はー、助かったー!おじさん、ありが、と…あーっ!おじさんっ!」
「お?お前さんは…クラスビンの爺様んとこの?でっかくなっ…ホントでけぇな」

 頭一つ分程背の低い恩人へと、礼を述べるなり驚きの声。ティスは幼い頃から、この人物を良く知っていた。野性味あふれる風貌と、そこに隠された知性。飽くなき探究心を灯す強い眼差し。無精髭もそのまま、記憶にある姿そのもの。

「七人も居て皆が皆これじゃ…アヴェルスかーちゃんも大変だろ?」
「うんっ!家は食費すんごいからねー、みんな外に出ちゃったよもう」

 水はとめどなく溢れ、谷は滝となって老山龍の背を打つ。太陽は地平線と再会を果たし、二人で夜へと消えてゆく。全てに決着のついた、全てが終わりを迎える時間。男もしばし、黄昏の時に想いを馳せる。これでも急いで駆けつけたのだから。ココットの我家と、そこで暮す小さな家族。この世でたった一人の家族。

「ま、無事だろ。ヤワに育てちゃいねぇからな。で…お前さんは何チャン?何番目?」
「ア、アタシ!?えとね、何番目かって、ひぃ、ふぅ…ふぅ?ふぅ、ううう…はぁっ!」

 指折り数えて指さえ折れず、何やら要領悪く数え始めるティス。訪れ始めた夜の帳を羽織って、老山龍は再び歩き出した。大気を震わせ地を踏み鳴らし、その姿は正に威風堂々。ハンター達と死闘を繰り広げたとはとても思えない。これぞ世界の神秘…男は胸中に去来する感動に打ち震えていた。僅かな灯火が、男の魂に火を付けるまで。その僅かな時間だけ。

「…老山龍よぉ、今度は何処行くんだ?へへ、どぉれ!お供仕るかいっ!」
「三番目っ!ティスは三女だから、アタシは三女のティスだよっ!…って、あれ?」

 男はひょいと身を翻し、水飛沫を浴びながら谷を降りて行く。呆気に取られるティスは、大事な事を思い出して男を呼び止めた。本来なら彼は止められるまでもなく、ココット村に留まらなければならない。彼の家族が彼の家で、彼の帰りを待っているから。大家族で育って自立したティスだからこそ、そう思わずいは居られない。

「おじさーん!村に寄ってよ、でんこに会いたいでしょー?」
「あぁ?あー、うーん…また今度な。見ろよ、老山龍が…俺の冒険が行っちまう」

 そう言うなり、男は身を躍らせ、夕焼けを脱ぎ捨て夜に滑り込んだ。その姿はもう見えないが、ティスに強烈な印象を刻む。幼い日に優しかった、父親の古い友人。その背は何やら艶めいて、無垢な心を激しく揺さ振った。

「おーい、お前さんどうする?村に行くなら宜しく伝えてくれやぁ!」
「アタシは…うん、おとーちゃんも心配してると思うし…でも…」
「…来るかい?こいつぁ神秘と探求の匂いがすんぜ?冒険の始まりさ」
「ア、アッ…アタシも…アタシも行くっ!」

 無くした兜を探したが、どうやら近くに無いらしい。荷物も無いし、愛用の双剣も無くしてしまった。それでも何故か、ティスの胸は奇妙な気持ちに急いた。九死に一生を得て拾った命を、輝かせる何かを見つけたから。その眩しい存在が今、付いて来いよと誘うから。男は胸躍る冒険を探して、女は胸高鳴るときめきを求めて。二人のハンターは老山龍を追って、新たな探求の道を旅立っていった。

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