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「待ちかねたぞ、フリック=セプター。話があ…」
「悪ぃ、後だ後!後で広場で聞くから…急いでんだっ!」

 呼び止めた竜人族の結わえた髪を、一陣の疾風となって揺らしながら。フリックは我家を目指してひた走った。止むを得ずエフェメラは後を追う。疲労と睡眠不足に縺れる足で、転がる様に駆ける背中を。

「先の防衛戦、見事であったな…殿下も驚いておられた」
「あ?ああ、そんな話か。誉められたもんじゃねーけどな」

 隈が縁取る目を血走らせ、無精髭が覆う頬に汗を浮かべて。涼しい顔で歩調を合わせるエフェメラと違って、フリックは全力疾走で家路を急ぐ。その息は荒く、既に顎が出て苦しげで。だが、見慣れた我家が視界に入るなり、歯を喰いしばって加速する。エフェメラは本気の走りで後を追った。

「ただいまっ!クリオ、今帰ったぞ!無事か!?女の子だってな、俺のグフォ!」
「…騒がしいねぇ、全く。父親になったんだ、少しは落ち着きな」

 ドアを蹴破る勢いで開け放ち、夫婦の寝室目指して駆け込んだフリックは…突如襟首を掴まれ急減速。彼は咳き込みながら膝に手を付き、呼吸を整え空気を貪った。続いて遠慮がちに敷居を跨ぐエフェメラは、この村の鍛冶屋と眼が合った。互いに目礼を交わして、フリックの回復を待つ。

「今やっと赤ん坊が寝たとこさね…騒いだらまた起きちまうよ」
「…フリックか?戻ったか、ではもう全て終わったんだな」

 寝室から呼ばう声に、フリックは身を正して短く応える。彼は高鳴る心臓を何度も撫で付けながら、深呼吸を繰り返して背筋を伸ばした。我が子と初めて対面し、愛する妻と再会する…エフェメラはナル=フェインと互いに頷きあい、席を外すべく戸口へ向かった。

「…ナル姐、御客人も中へどうぞ…どうした?フリック、怖気づいたか?」
「な、何おぅ!?ば、ばば、ばっ…馬鹿、男はこゆ時は緊張すんだよ」

 ベットのクリオは穏やかな表情で、肩で息する夫を迎えた。そのすぐ横では、小さな命が安らかな寝息を紡いでいる。その光景を目にした瞬間、瞬く間に歪んで視界はぼやけた。フリックは思わず感極まって、気付けば自らの意思に反して泣いていた。すぐさま汚れた袖で顔を拭う。

「…泣く奴があるか」
「ち、違げーよ、走ってきたから…汗が」

 感謝の気持ちが込み上げ、それは言葉ではなく涙となって溢れる。だが、それはクリオも一緒だった。老山龍が地を踏み鳴らす、その震動を間近に感じながらの出産。不安はあったが、同時に確信が彼女を支えていた。小さな家族が加わるこの家を、あの男は必ず守ってくれる、と。

「と、とりあえず、その、何だ…し、しっ…幸せになろうな」
「…なっ、何を今更。よせ、恥ずかしい…当たり前の事を言うな」
「おう、任せとけっ!それと…これは大事な話だ。エフェメラ」
「…良い話は聞けそうに無いな。何だ?フリック」

 言わずともフリックには用件が伝わっていた。

「城の軍師には戻らない。俺はこれからココットで生きて往く。妻と我が子と、ずっと」
「やれやれ。魔術師、還らず…か。解った、陛下にそう伝えよう。だが当面はどうする?」
「村人は皆退去した。が、無人の廃村にはしない…俺等はここで乾季を越す。どうだ?」
「…私は構わん。家族の長は御前だ、フリック。大丈夫、三人でココットに暮らそう」

 騎士崩れの某ハンターは、親しい間柄故にペテン師呼ばわりするが。城での彼の呼び名は魔術師。その鮮やかな策ゆえ、国王陛下より絶大な信頼を得る、西シュレイド王国軍の知恵袋。だがその名も、今日限り消える事となった。出来る限りの慰留をと思っては居たが…エフェメラは無駄な努力を諦める。

「私の流儀も同じさね…出てけって言ったって行きゃしないよ。私も残る」
「貴女にも是非、王都の工房に来て欲しかった。ふむ…だが水はどうするのだ?」
「オレが汲んでくるっ!幾つ山を越えようとも、日に何度でも汲みに行くよ!」

 カーテンの揺れる窓辺から、元気の良い声が飛び込んできた。顔を覗かせたトリムは、自分にもココット残留の意思がある旨を高らかに宣言する。驚く顔が並ぶ中、目覚めた赤子が泣き始めた。まるで火が付いたように勢い良く、自らの生命を誇示するように。身を起こすクリオが抱いても、その泣き声は収まらない。

「あ、ゴメン…オレ、起こしちゃったかな?ええと…」
「俺等を呼びに来たんだろ?広場には直ぐ行く、先に始めちゃっててくれ」

 こくん、と頷き首を引っ込め。再度身を乗り出してトリムは念を押した。ココットに残る、と。元より一家三人だけで残り、一人で遠方の水場と村を往復しようと考えていたが…フリックに思わぬ頼もしい助っ人の登場。彼女もまた、この村に残る理由を十二分に持ち得ていた。

「わーった、じゃあ俺等にナルさん、お前で五人か…ま、いいだろ」
「むい、じゃ先に行くね。早く来ないとサンクさんに全部食べられちゃうよっ!」

 赤子をあやすクリオに頭を下げ、ナルやエフェメラとも丁寧に挨拶を交わして。唯一のココット在住ハンターは広場へと走り去った。徐々に日は傾き、もうすぐ宴の夜が始まる…勝利を祝い別れを惜しむ、この村のささやかな祭が。ナルや周囲の厚意もあって、エフェメラも賓客として招かれている。

「…では、その件はいい。あとは…ふむ、問題はもう一つの件だな」

 野に下るには惜しい人材だが、もはや魔術師と呼ばれた名軍師は居ない。居るのは幸せな家族を持つ父親。エフェメラはそうそうに諦める一方で…もう一つ抱えた難題に頭を悩ませた。腕組み額に眉を寄せながら。

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