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「お前は…ずっとそうしているのか?」

 広場の騒ぎが微かに聞こえる。まるで遠い祭のように。風に乗って届く喧騒は、エフェメラの長い耳を僅かに揺らした。早々に祝宴を抜け出した彼女が、息を殺して佇むのは…安らかな寝息をたてる少女の枕元。対峙するは、夕焼けに染まる空色の飛竜。小さな蒼いリオレウスが、窓辺からじっと闖入者を見詰めていた。
 それはまるで、主を守る番犬のように。ただ静かに、彫像のように身動き一つしない幼火竜。その視線は今、瞬き一つせずエフェメラへと注がれていた。恐らく彼女が、眼前の少女に手を伸べれば…即座に噛み付かれるだろう。強い光を灯す瞳に、躊躇の色は微塵も無い。

「案ずるな、危害は加えぬ」

 人の言葉が通じずとも、その真意は伝わっただろう。僅かに警戒の色が緩んだ…が。決して心許す事無く、エフェメラの一挙手一投足に注意を払う。それはまるで、良く訓練された書士隊の部下達を見るかのようで。同じように、王国を守るべき物と定めて生きるエフェメラには、どこか好感が持てた。何をおいても先んじて守る、その覚悟には親近感すら感じる。最も、それゆえ互いに馴れ合う事は無いが。

「血が騒がぬ。老山龍に全ての力を吸われたか?あるいは…」

 初めて少女と接触したあの日…エフェメラの身を流れる血は、燃え滾って逆流した。恐らくそれは、彼女自身が竜人族である事と無関係では無い。もっとも、既に検証する術は失われてしまったようだが。何か聞き取れぬ寝言を呟くのは、何処にでも居る普通の女の子。終わりの見えぬ長い眠りに、あの日以来ずっと囚われている事を除けば。
 もはや異能の血は消え失せ、そこに宿る超常の力も去った。はっきりとした確証も無いのに、エフェメラは一人そう確信する。自分自身の存在そのものが、その恐るべき力に翻弄される血筋だから。だから、王都に戻って国王への報告は容易い。が、大臣達や他の王室血縁者を納得させる自信は…残念ながら彼女には無かった。国王と違い、誰もが竜人族の筆頭書士を疎ましく思っていたから。

「ふむ、弱った。せめて私の居る内に目覚めてくれれば…」
「誰?カー助っ、そこに誰か居るの?」

 小さく短く吼える幼火竜。その声色に敵意と殺気がない事を読み取り、少女は部屋のランプに明かりを灯す。気付けばもう、既に日はとっくに沈んでいた。振り向くエフェメラは不法侵入を詫びつつ、新たなココット村の英雄をまじまじと見詰めた。

「傷はもういいのか?メル=フェイン」
「え?…は、はい」
「そうか、それは何より。どうだ?村長の方は上手くいったか?」
「は、はいぃ」

 極度に緊張した面持ちで、じっと空色の瞳がエフェメラを見詰める。二人は並べば、まるで同世代の少女のようにも見えるが。実際には親子程にも歳は離れていた。エフェメラ自身、見た目に反して近寄り難い雰囲気。だが、メル=フェインの強張る理由は、そればかりでは無い。静かに羽ばたき彼女の肩に乗る、蒼火竜の幼子と同じ視線で。じっとエフェメラを見詰めて言葉を待つメル。

「何もせんよ…そうだな、すまぬ。勝手とは思ったが、時間が無いのでな」

 一人と一匹の守護者を前に、エフェメラは深い溜息を付いた。もはやここに、この場所に…古龍を統べる太古の血筋は存在しない。居るのは、愛する者の愛する故郷を、命を賭して守った狩人の少女だけ。それが王都の人間には、決して伝わらないという現実。国王が許しても恐らく、大臣達は許しはしないだろう。力を欲する人間達を、エフェメラは今まで嫌という程見てきたから。旧世紀の奇跡の残り香を、王国の権力者達は誰もが欲していた。

「あっ、あのっ!いっちゃんはもう…」
「独り言だ、メル=フェイン。これは独り言」

 意を決して口を開いた、メルの唇を人差し指で塞いで。エフェメラは一人、流暢に語りだした。

「私が王都に戻れば、程無くこの村へ人員が派遣されるだろう」

 彼女が不要といくら説いても。

「既にもう王都では、大蛇丸家にも手が廻ってるやもしれん」

 シュレイドでも有数の名家なれば、御家自体には何の心配も無いが…そこには娘を案じる父と母が居る。

「既に無いと知ってさえ…あの力を欲する輩は後を断たぬのだ」

 この国の王子でさえ、その力を欲した。時として人の欲望は、古龍よりも恐ろしく果てしない。エフェメラの意図を汲んだメルは、徐々に事の次第を飲み込み理解する。その大半はチンプンカンプンだったが、一つだけはっきりしている事は…イザヨイの身に危険が迫っているという事。

「…だが、この地に居ないのなら手の出しようもあるまい」
「?…エフェメラ…さん?」
「老山龍を追うようにふらりと、異能者は去ったようだ…違うか?メル=フェイン」
「…うん…うんっ!何か知らないけど、そんな人居ないよ!…最初から居なかったんよ」

 くしゃりと金髪を撫でると、エフェメラはマントを翻して。再び激務と権力闘争が待つ王都ヴェルドへと、帰還の一歩を踏み出した。下らぬ日々の幕開けはしかし、彼女を待つ多くの書士達の為に。無論、彼女がそう報告しても、この地へ王国は人を送り込むだろう。その時もう、ココットには居ないのだ…嘗て超常の力でこの地を救った、大蛇丸家の令嬢は。無論、彼女を慕う金髪の少女も。

「目覚め次第、この地を離れろ。王国も内部は毒蛇の巣…気を許すな」
「だいじょぶ、いっちゃんはココットを守ってくれた。だからっ」

 今度は、メルがいっちゃんを守る番。人目を避けて帰路に着く、学術院の筆頭書士を見送りながら。メル=フェインは一人、揺るがぬ決意を胸に刻んだ。共にイザヨイを守る、幼くも頼もしい翼と共に。

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