マーヤは激しく動揺した。本来ありえぬ事態に直面して、周りに目もくれず取り乱した。王都ヴェルドより馬で山猫亭へ乗り付けると、落馬同然の勢いで店内へ転がり込む。そこはもう、幼少より彼が知る場所とは思えない…身が軋むかと思われるほどに、重苦しい場の雰囲気。誰もが俯き黙って、招かれざる客を一瞥した。 「はぁ、はぁ…かっ、か!かあさん…義母さんはっ!」  応える声は無い。荒い息を整える間も惜しんで、マーヤは店の奥へと歩を進める。幼少期を過ごした懐かしの我が家が、今は途方も無く広く感じた。擦れ違うハンター達と、肩が触れるのも構わず走る。店の厨房を通り抜け、裏庭を横切って…あちこちで途方に暮れるハンター達に、意味深げな視線で舐られながら。久々に自宅の門を潜ると、マーヤは一目散に義母の寝室へ。 「義母さ…ん?あ…ああ、そんな…」  開け放たれた窓から、斜めに差し込む穏やかな光。そよぐ風はレースのカーテンを波立たせ、マーヤが開け放った扉を優しく閉じた。そこに求める姿は無かった。言いようの無い虚脱感に襲われ、しかし頑強に抵抗してマーヤは近付く。陽だまりに浮かんだ空の寝台へ。一歩一歩確かに、現実へと近付きながら…  まるでつい先程まで、この場に義母が寝ていたような。そんな気がして、マーヤは白いシーツへそっと触れた。所々点々と、赤い染みを残して…僅かに感じる義母の残り香。日の当る匂いに混じって、確かにそこにはまだ、懐かしい温もりが存在していた。 「っと、居た」 「待ってメル」  嗚咽と共に涙零れて、マーヤは大声を上げて泣いた。血で汚れて乾いたシーツを握り締め、その温もりに顔を埋めて泣いた。戸口に立つ少女達にも気付かず、ただ無心に理性を決壊させて。濁流のように押し寄せる後悔を、隠す素振りも見せずに解き放った。 「嘘だ!こんな…こんなことっ!どうして!?どうして義母さんが…!」  最後の別れが今、強い自責の念となってマーヤを苛む。大嫌いだと一言、言葉の刃で切り付けたあの日。取り返しのつかない事をしてしまった…もう、許しを請う事も適わない。最後の記憶でマーヤを見詰めるのは、深い悲しみに彩られた表情。涙は留まるところを知らず流れ続けた。 「…悲しいん?」  この日初めて、その背に声を掛けられて。袖口で涙を拭って、マーヤは振り返る。そこには何時かの少女が金髪を揺らしていた。空色の大きな瞳に、顔をくしゃくしゃにした自分が映る。嘗て互いに命を掛けて、それを相手より奪おうと剣を振るった。それでも今、見知った人物に声を掛けられ…どこか安堵の気持ちを感じるマーヤ。それは恐らく、眼前の少女も同じ気持ちに沈んでいるから。 「あ、ああ…僕っ、僕は…取り返しのつかない事をしてしまった」  既にもう、あらゆる現実に耐えられない。人と言葉を交わすだけで、相手を問わず支えを求めて。ただ慰めに飢えて待ちながら、ひたすらに悲しみを反芻するマーヤ。悔やんでも悔やみきれぬ想いが、行き場を求めて胸中で膨れ上がる。 「…死んだと思ってるん?クエスラさん、帰ってきたんよ」 「じゃあ何故?義母さんは何処っ!ああいいさ、言わなくていい!もう義母さんはグッ!?」  激して叫び、押えようの無い感情を吐露するマーヤ。しかし、求める物とは真逆の行為が彼を襲う。少女は無造作に彼の襟首を掴み、その華奢な身体からは想像もつかぬ力で吊るし上げた。そこには純然たる怒りの表情があった。メル=フェインは涙を堪えてマーヤを覗き込む。互いの吐息が髪に掛かる距離で、思わずマーヤは目を逸らした。 「何でそんな簡単にっ!何で…ホントに死んだと諦められるん?」 「だ、だって…皆だってそうじゃないか!」 「違うっ!違う違う!祈って待ったし、待てずに探しもしたっ!」 「お、お前…」 「信じたんだもん!だから帰ってきたもん…クエスラさん、嘘付かない言うたもん」 「メル…マーヤさんも。これ以上は…」  見かねたイザヨイが手を伸べ、マーヤを締め上げる小さな手に触れる。開放されて咳き込みながら、マーヤは床に膝を突いた。彼に代わって泣き出すメルを、そっとイザヨイは抱き締める。 「貴方には一番、信じていて欲しかったんです。もう本当に…諦めてしまったのですか?」 「…え?だ、だって…それで皆…ま、まさか…」 「強いんです、貴方のお母様は。哀しくなる程に…つい先程、戻られたばかりなのに」 「じゃ、じゃあ…義母さんは」  メルの震える肩を抱き、その背をさすってあやしながら。イザヨイは静かに、途切れ途切れに言葉を紡いだ。状況が飲み込めぬまましかし、芽生える希望に喜べないマーヤ。もし仮に、義母が死を免れたとしたら?その身は今何処へ?瀕死のギルドナイトは、手負いの魔女は何処へ? 「ったくよ、このガキ…女子供泣かせるんじゃねぇ!…来いっ!」  苛ただしげに突然、寝室のドアが蹴り上げられた。始めてみせる憤怒の表情で、キヨノブは有無を言わさずマーヤを掴む。普段ならばその実力差は歴然だが、今のキヨノブには抵抗を許さぬ強さがあった。怯え竦みながらマーヤは、引き摺られるように寝室の外へ。 「おら、こっちだ!…女将が死ぬかっつーの。目ぇ逸らさねぇでしっかり見なっ!」  メルを慰めながらイザヨイも続く。その時まだ、マーヤにはキヨノブの言う意味は解らなかったが。これから脳裏に刻む光景を、この時まだ彼は想像すら出来なかった。