もはや決して振り返らずに。多くの仲間達と擦れ違いながら、ゼノビアは黙って小走りに駆けた。続く男達も皆、誰一人何も語らない。奇跡的にも約半数が、吊橋の難を逃れ後に続く。彼等の誰もが、しっかりと大砲の弾を抱えていた。疲労に痺れ感覚の薄らいだ手でも、それはズシリと感じる確かな重み。 「な、なぁ…さっきの音、ありゃ何だ?」 「橋が落ちた…のか?あいつ等、無事なのかよ…」  言葉少なげに、ポツリポツリと言葉が零れる。身の内に燻る不安は、汗と共に体外へ噴出した。だが、答える者は誰も居ない。言える事は何も無く、今はただ歩を進めるのみ。それは先頭をひた走るゼノビアも一緒だった。 「みなさーん、あと少しですよー!頑張っていきましょー」  僅か数分の邂逅が、言葉に出来ぬ貴重な経験をゼノビアにもたらした。人智を超えた古龍、山かと見紛う程に巨大な老山龍。その見開かれた瞳に直視され、目も逸らせぬ威圧感に押し潰されそうになりながら。彼女はその瞬間、生ある命を痛い程に実感していた。ちっぽけな自分、ちっぽけな人類…だからこそ、今を輝く生がある。何より為すべき事が、守るべき者がある。 「油断は禁物ですよー、これは運んで終わりじゃないんですからねー」 「違ぇねえ!連中が踏ん張ってる内に、きっちり運んじまおうぜっ!」  今この一歩を踏みしめている瞬間。谷では老山龍との激闘が繰り広げられている。既に闘いとは言えないレベルで、しかし互いに敵意を認めて。龍と人の果て無き闘争が、まるで太古の伝承にある古龍戦争のように。  ふと、ゼノビアの胸中を疑問が過ぎる。ただ龍脈を辿り、その線上にある全てを灰燼と化して進む…それを自然の営みとし、ひたすらに脈々と続けてきた老山龍。それが今、ココットを守るハンター達を敵と認識する理由は何だろうか? 「っ!ゼノちゃん、危ねぇ!」  物思いにふけるゼノビアを突如、焼けるような痛みが襲った。思わず歩を止めよろけて、その手の砲弾を落としそうになる。辛うじて堪えるも、激痛に苛まれる全身からは、先程までとは違う冷たい汗が滲んだ。何が起こったのか、直ぐには状況を把握できないゼノビア。呼吸を整え砲弾を保持しながら、踏ん張って薄闇に眼を凝らす。驚きうろたえる仲間達が視界に飛び込んで…その隅で真紅の閃光が走った。 「くそっ、何だってこんな時にっ!」 「こいつ等、群ごとアチコチに逃げてったんじゃねぇのか!?」 「…群からはぐれたんだ。こんなの持ってちゃ逃げ切れねぇっ」  真っ赤な鱗に覆われた身体。鋭い爪と牙に滴るのは、防具もろとも切り裂かれたゼノビアの血。僅か数頭のイーオスが、ハンター達の前に突如立ち塞がった。そのどれもが、正気とは思えぬ程に気を荒立てて。普段の統制の取れた群なす毒牙は、今は孤独と不安に我を失っている。低い唸りを喉から搾り出し、闇雲にハンター達へ襲い掛かる真紅の走竜。  仮にも皆が皆、ココット防衛の為に集った猛者。腕に覚えの有る連中ばかり。若い連中に谷での戦闘を譲ったとはいえ、イーオス如きに恐れをなす者など居はしない。普段の彼等なら、の話だが。今の彼等が手にするのは、鋭い刃でも強固な槌でも無く…ただただ発射されるのを待つ大砲の砲弾。それは屈強な狩人達にとっては、枷以外の何者でもない。 「みなさんっ、行ってください!ここは私がっ!」  金切り声を上げて飛び掛る、イーオスの一頭が悲鳴を上げた。大人一人ほどの重さも有る鉄球を顔面に受け、ジタバタと空中をすっ飛んで行く。自ら大砲の弾を放り投げたゼノビアは、その反動で大きくよろけながらも抜刀した。膝が笑うのは、運搬による疲れだけではない…傷口から侵入した猛毒が、徐々に彼女を蝕み始める。 「御嬢ちゃん、そいつぁいけねえ!俺等も…」 「いけませんっ!は、早く…いってくださぁいー」  僅か数頭とはいえ、老山龍から逃げ遅れてパニック状態のはぐれイーオス。気がふれたように誰彼構わず襲い掛かる姿は、無防備な運搬ハンター達ならずとも、戦慄を覚えずには居られない。続いて砲弾を破棄しようとする男達を引き止めつつ、その背を守って最後尾へ走るゼノビア。手にするバスターブレイドが閃き、鱗を裂いて骨を割った。その一振り一振りに体力を削られながら、それでも彼女は道を示す。 「わ、私は毒にやられましたぁ…もう運べま…でもー」 「誰か解毒と回復を…おい誰か!くそっ、両手が塞がってて…」  狡猾で知性の高いイーオスも、今は混乱を極めて。恐らく人と同じだろう…今の毒鳥竜を支配しているのは、老山龍への原始的な恐怖。それが幸いしてか、イーオスは一丸となってハンター達への猪突を繰り返した。対処はしやすいものの、押し返す度に意識を削ぎ取られて。僅か数度打ち合っただけで、ゼノビアは膝を付いた。 「ハンターならぁ…獲物を間違えてはいけませ…私達の、倒すべきは…」 「畜生っ、たかがイーオスで…待ってなゼノちゃん!この弾ぁさっさと運んで…」 「すぐに戻るっ!だから、適当にあしらって逃げ回…うおっ!」  牙を剥いて迫るイーオスが、また一頭弾き飛ばされた。間一髪で助かった老ハンターが、胸を撫で下ろす代わりに砲弾を持ち直して。唇を堅く噛み締めると再び走り出した。躊躇いがちに誰もがその背に続き、追うイーオスは何度も押し戻された。 「常に解毒剤は持ち歩けってー、何時も言ってましたよねぇ…先輩」  千鳥足でイーオスをいなしつつ、順を追って数を減らしてゆく。ハンターズランクこそ低いものの、ゼノビアは立派に一人前のハンター。猛毒に身を犯されながらも、遅れを取る事無くイーオスと刃を交える。朦朧とした意識は、狩りの師でもある先輩ハンターを思い出して。教訓を疎かにした愚を呪いながら、ゼノビアは大の字に地面へ倒れ込んだ。最後のイーオスを両断したその勢いで。 「ハァ、ハァ…傷は背中、かぁ〜…毒抜きはちょっと、難し…」  登り始めた太陽が地平を染め、その輪郭を浮かび上がらせて。最初の光が零れ落ちて、徐々に闇夜を塗り潰してゆく。だが、朝日がゼノビアに見せたのは過酷な現実…早くも腐敗の始まったイーオスの死骸を踏み越えて。真っ赤な鱗の群が今、毒牙を向いて天へと吼えていた。