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 モガの森は薄暗く、天空より差し込む陽が所々に光の柱を屹立させている。雑多な木々はどれも樹齢数百年をくだらぬ巨木ばかりで、互いに空を奪い合うように枝葉を伸ばしていた。鳥達の鳴き声も虫の音も、全てが始めて耳にする響き。オルカとノエルはそれでも、互いの身の上や狩りでの経験などを語り合いながらモガの村へ進む。
 だが、次第に口数が減ってゆき、終いには言葉は途絶えた。
 そんな二人がようやく口を開いたのは、かれこれ五、六時間は歩いたであろう頃だった。
「……うん、やっぱりおかしい」
「オルカも? そうだね、これはちょっと」
 オルカが振り向けば、難しい顔を作ってノエルが近くの切り株に近寄ってゆく。直径十メートルはあろうかという立派な樹木の成れの果ては、恐らく老い朽ちて倒れたのだろう。その顕になった断面からノエルは年輪を拾っていた。オルカも咄嗟に、別の切り株を見つけて周囲の草を手で払う。
「あたし達、南へ進んでることになってるけど?」
「俺が見てるこの木は、年輪がこっちに寄ってる……つまり、俺達は北に進んでるらしい」
 今更確かめるまでもなく、オルカは察した。自分がそうであるように、ノエルもまた方向感覚を見失っていたのだ。天を仰げば、空の蒼は遥か高く遠い。どこまでも延びる木々の枝葉が、ほぼ完全に上空を覆っていた。それでも、オルカはモンスターハンターになってから道に迷うのは始めてだ。狩人は皆、渡り鳥並の方向感覚を養っている。それが狂うというのはただごとではない。
「どうやら普通の森じゃないってのは本当みたいだ」
「だね。その証拠に……お客さんだ!」
 突然、ノエルがオルカに抱きついてきた。そのままオルカに跨って押し倒すと、自らも身を屈めて密着してくる。不意の出来事にしかし、オルカは黙って息を殺した。唇に指を立てるノエルの表情は、これまでにない緊迫感を滲ませている。
 そして、彼女の言う「お客さん」の足音が響いてくる。腐って土に還る枯葉を踏みしめ、小さな枝を踏み折る音。振動を伴い、木々の狭間から現れた巨躯にオルカは息を呑んだ。
 それは、常軌を逸した大きさにまで成長した、巨大な雌火竜だった。それも――
「あの色、なんだ? 甲殻と鱗が、桜色に」
「しっ! あれはリオレイア亜種、桜火竜って呼ばれてるね。珍しい個体だけど」
 ノエルの手が口を覆ってきて、オルカの言葉は奪われる。防具の篭手越しにも、細い指の小さな手を感じる。やはり鍛えられたといっても、まだまだ少女を抜けきっていない匂いが鼻腔をくすぐってくる。だが、そんな甘い予感に惑うことなく、オルカは緊張の一瞬で桜火竜を見送った。
 幸い、大地を統べる陸の女王は空腹に飢えてはいないらしい。そのままオルカとノエルが重なり気配をひそめる前を、悠々と歩きさってゆく。だが、鋭いオルカの狩人としての嗅覚が、鋭敏な眼力が素通りを許せぬ理由を察知していた。無言で指差し、そのまま指信号で手早くノエルへと無音で意思を伝える。確認に目線を走らせたノエルは、思わず「あ」と小さな驚きを零して、慌てて己の口を両手で塞いだ。
「まずいね、あれ……なるほど、女王陛下は晩餐会に急いでるからあたし達に気付かないって訳か」
「地元の人間だろうか? 見過ごす訳にもいかないけど、今の装備でやれるかどうか」
 地元の人間は確か、モガの森には入らないと船長は言っていた。なんでも、魔女が出るとか……しかしオルカには、見知らぬ魔女よりも熟知した火竜の方が何倍も恐ろしい。その桜火竜だが、口に小柄な人影を咥えていた。それが恐らく、彼女の今日の獲物という訳だ。
「……よし、腹ぁ括りますか。あたしが先制する。オルカ、咆吼と同時に飛び出して」
「うん、宜しく。あの子を離した瞬間を狙ってかっさらう。そのあとは一目散ってことでいいかな」
 頷くノエルは、音もなく背の弓を展開して矢をつがえた。
 そう、桜火竜が口に咥えているのはまだ小さな子供に見えた。
 オルカとノエルは互いに目配せでカウントダウンを刻み、ゼロを胸の内に呟いた瞬間飛び出した。それは、桜色の雌火竜が大きく首を両者へ巡らしたのと同時。巨大な紅玉にも似た二つのまなこが、無音で立ち上がるモンスターハンターを捉える。
 瞬間、ノエルの弓が空気を震わせ鏃を歌わせた。
「んぎぎっ、この距離で弾くかっ! そうそう、亜種って硬いんだよねっ」
 ノエルが放った矢は、一発必中の精度でリオレイアの眉間に命中し……硬く厚い甲殻に弾かれた。
 瞬間、女帝の怒号に森は沸騰する。吠え荒ぶリオレイアはその口から、血に塗れた矮躯を地面へと落とした。そのことにも気付かぬ様子で怒り狂い、地面を蹴るなり自らの大質量をぶつけてくる。耳をつんざく激昂に竦んでいた二人は、咄嗟に森へと走り出した。
 リオレイアは並ぶ大木を物ともせず、まるで草原を馳せるが如く薙ぎ倒して突進してくる。
「あたしが引き受けたっ、オルカはあの子を!」
「すまない、任せるっ!」
 オルカは渾身のジャンプで身を躍らせ、腐葉土の積もった大地へとヘッドスライディング。そのすぐ鼻先を、ノエルを追いかけ怒れる女王は通り過ぎていった。その荒れ狂う嵐の如き獰猛さが去る中、ノエルの無事を祈りつつオルカは来た道を引き返す。
 先ほどの場所には、傷にまみれて出血も痛々しい一人の少女が倒れていた。
 否、よく見ればそれは太刀を背負った少年だ。
「まずいな、出血が激しい……君、大丈夫かい? しっかり! くっ、意識がない、これは――」
 一瞬脳裏を諦めがよぎる。その黒い霧を振り払って、オルカは応急処置をすべく少年のズタボロになった衣服を脱がせにかかった。
 突然の蒼風が襲ったのは、まさにその瞬間。
「くっ、リオレウスまでっ! ……なんだ? 蒼い、リオレウス?」
 巨大な翼を羽撃かせて、空の王が降臨した。その巨躯は空よりも蒼く染め上げられて、空そのものにすら感じられる。全くの無防備な状態で、オルカは身動き一つできずにリオレウスを睨み返す。隙を見せた瞬間、オルカの身は強靭な爪と牙で引き千切られるだろう。目を逸らせば、あっという間に魂魄は肉体とおさらばだ。
 永遠にも思える一瞬の連続が、オルカの全身に冷たい汗を滲ませた。動けば殺られる……目の前で宙に羽撃たくリオレウスは、風圧で周囲の木々をしならせながらじっとオルカを見詰めていた。その燃えるように赤い双眸に、吸い込まれるかのような錯覚を感じてオルカの身体から力が抜けてゆく。同時に四肢は、まるで石になったように動かない。
 万事休すかと思われたその時、不意に不思議な音色を奏でて空気が揺れた。
「なんだ……? ブーメラン? 大きいっ!」
 耳の奥底をひっかくような、狩猟笛の高周波にも似た反響音が周囲にこだまする。それを発しているのは、突如頭上に飛来して弧を描くブーメランだ。モンスターハンター達が狩猟用に持ち歩く小型のものではない、片手剣程もある一回り大きな物だ。それはクルクルと回転して中空で翻ると、歌いながら森の奥へと再度消えてゆく。同時にその方向から角笛の音が響いた。
 着地した蒼いリオレウスは、最後にオルカを一瞥するや、モガの森の深淵へと駆け去っていった。
「ぷはっ! た、助かった……あいつ、最後に笑ったな。これは……なるほど、魔の森かもしれない」
 オルカを前にして去ったリオレウスは、その間際に固まるオルカへ口元を歪めてみせた。それは空の王の慈悲だったかもしれないし、とるにたらない獲物と嘲笑されたのかもしれない。それでもオルカは、拾った命の重さを噛み締めるように膝を突く。
「いやあ、蒼火竜まで出るかあ……モガの森怖いねえ。や、ごめんオルカ! 助けに入れなかった!」
 木陰に隠れていたのか、戻ってきたノエルが手を合わせて歩み寄ってきた。どうやら上手く桜火竜は巻いたらしい。
「いや、俺が迂闊だった。雌雄一対、ペアのつがいであることを念頭に置く、火竜の基本だよね」
「引き返してきたら凄いのがいて、身が竦んじゃって。あたしもあんな立派な蒼火竜は初めて見る」
「蒼火竜、そうか……じゃああれも?」
「うん、リオレウスの亜種だよ。ドンドルマでも遭遇して生還したハンターは稀な、凶暴な雄火竜」
 感心して互いに安堵しながらも、ふと重傷の少年を思い出してオルカは振り向く。早く手当をしなければ命に関わる。せっかく身を危険にさらしてまで助けたのだ、ここで死なせてはいけないと意気込む気持ちはノエルも一緒だった。
 そんな二人が横たわる少年に駆け寄ると、突然目の前になにかが降ってきた。
 それは長身痩躯の女で、淡雪のごとき白い肌を晒した半裸に、燃える炎のように真っ赤な長髪を揺らしていた。
「っ!?」
 すぐ目の前に突然、目も覚めるような美女がゆらりと立ち上がる。その目はやはり紅蓮に輝く深紅で、じっとオルカとノエルを交互に見詰めてくる。豊かにすぎる肢体の起伏があられもなく晒されたボロ着の女は、呆気にとられるオルカの鼻先に身を乗り出した。
「あの! なにかお困りではないですか!」
「え?」
「旅人さんはなにかお困りではないかとエルは思うのです!」
 その容姿を裏切るように幼い言動は、やたらと顔が近い。その甘やかな吐息が肌で感じられるほどに。間近に大きな瞳の精緻な小顔を見詰めて、オルカは思わず言葉に詰まった。ノエルが「あ、いや」と呟くや、目の前の女はグイとそっちに顔を向ける。やはり目の前、密着にも等しい距離に顔を近付けられて、ノエルは言葉を失いのけぞった。
「いや、この子が怪我を……多分、森でリオレイアに襲われたんだと思うんだけど」
「なるほど! このままでは死んでしまいますね。わかりましたっ、エルにお任せください!」
 女はパッと表情を明るくして手をパムと叩くと、腰のポーチから何やら丸薬を取り出す。それをポイと口に放り込むや、死の淵へ転がり落ちる少年の傍らに屈んだ。オルカは目のやりどころに困る半裸の美女が、腰に先ほどのブーメランをぶら下げているのに気付く。
 女はそっと少年の上体を腕の中に抱き上げると、唇を重ねて口移しで丸薬を飲ませた。
 瞬間、オルカはノエルと目を見張る。意識不明の重体だった少年は、苦しげに咳き込み薄っすらと目を開けたのだ。
「意識が! よかった、すぐに止血を。ノエル」
「オッケー、もう安心だ。見た目派手に出血してるけど、この量ならまだ助かるよ」
 そっと離れる女と入れ替わりに、オルカとノエルは急いで応急処置に包帯や薬品を取り出す。少年は苦しげに呻きながら、再び目を硬く瞑ってしまった。だが、その眉間に寄るシワや苦悶の表情は、生きていることの証。手早く手当すれば、傷は深いが全て急所を幸運にも外れていることも知れた。オルカとノエルは、血に濡れるのも構わず必死で手当した。
「急いでモガの村に運んであげてくださいっ! あ、迷ってますか? こっち、こっちです!」
 女は長い長い灼髪を翻すと、迷わず森の中へと分け入っていった。急いでオルカは少年を担ぎ上げ、ノエルに支えられながらその後を追う。朱色に艶めき緋色に輝く女の髪は、まるでオルカ達を導く篝火のように遠く先の方で揺れている。
 その眩いまでの紅色が消えた瞬間、視界が開けて潮風がオルカの肌を撫でた。
 すぐ目の前、坂を下った森の終わりに、小さな小さな集落が風車を回して人々の息遣いを集めていた。

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