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 一人前のモンスターハンターならば、太陽と大地のある場所で方角を見失うことはない。まして、あの傭兵団《鉄騎》の百人隊長ならば当然のことだ。だが、当然のことが当然ではなくなり、身につけた知識と経験が自尊心を裏切る場所がある。
 モガの森は不思議の森、ここではあらゆる常識がひっくり返る。太陽は高く伸びた巨木の枝葉に身を隠し、大地を覆う雑多な植物が季節感と土地勘を消し去っていた。
「ふむ……お、そうか! ははーん、わかったぜ」
 そんなモガの森の深淵で、ウィルことウォーレン=アウルスバーグは納得に独りごちた。軽薄で軽妙を信条としていた彼だが、こと狩りに関しては妥協がない。そんな彼は今、初めての経験を確かめて知識を一つ豊かにした。
「これが道に迷うってことか。なるほど、これが迷うってことね。女郎街の安アパート並に複雑だぜ」
 生まれて初めて、自分の立っている場所を見失ったことにウィルは気付いた。幼い頃から鉄騎のメンバーとして鍛えられた、いわば筋金入りのモンスターハンターである自分が、だ。そのことは小さな驚きと大きな好奇心を彼にもたらす。
「さて、どうするかね……どうする? 相棒」
 ウィルはどこか楽しげに足元に問いかける。
 この男に危機感や緊張感、悲壮な想いというものは欠片もない。むしろ、初めて味わう迷走を楽しみつつ、魔の森だとか帰らずの森だとか言われているこの場所を注意深く観察していた。周囲の木々はどれも、本来ならばここにはふさわしくない東西南北のあらゆる種類が乱立している。草花も同じだ。そして棲息する動物すら、地域性を無視した群れを形成している。
 冷静に情報を整理していたウィルは、足元で甲高い声があがるのを聞いた。
「当然、このまま進むっチャ! オレチャマについてくれば間違いないっチャ」
 奇面族の矮躯が、飛び跳ねながらウィルに抗議の声をあげた。
 迷子だったこの奇面族の戦士、チャチャを助け出したのが数時間前。ウィルは久しぶりに見る火竜の亜種に驚きつつも、襲われていたチャチャを救った。だが、感謝されるどころか狩猟の邪魔をしたと猛抗議された挙句、手下にしてやると言われてしまったのだった。
 だが、旅は道連れだ。出来れば美女がいいのだが、この際贅沢は言わない。
「はいはい、わーったわーった。とりあえずじゃあ、どっちに進むんだ?」
「……オレチャマは寛大! そろそろ子分にも選ばせてやるっチャ!」
「りょーかいっ、それじゃまあ、適当に進みますか」
 やれやれと鼻から溜息を零して、ウィルはさてと森の奥を見据える。
 その時、鋭敏な聴覚が僅かに声を拾った。それも――
「女の声だ、しかも……歌? それと、水の音だ」
 森のあらゆる生命が奏でる営みの奥から、僅かに響いてくる水の調べ。その合間に僅かに拾えるのは、たゆたう歌声だ。その方向を示してやった瞬間、チャチャは飛び跳ね元気を取り戻す。
「オレチャマもそう思ってたっチャ! さあ、もうすぐモガの村、このままあレッツゴーっチャ!」
「ったく、調子がいいねえ。……さて、鬼が出るか蛇が出るか、それとも例の魔女が出るか」
 モガの森には魔女が住む。紅蓮の魔女が。そういう話は既にリサーチ済みだ。この島でモガの村を除く、ごく僅かな人の生活圏。例えば小さな船だまりだったり、狩りに訪れるハンター達のベースキャンプだったり。そういうところで綿密に、かつさりげなく調査は完了しており、ウィルはその噂を聞き及んでいた。
「さて、俺としてはモガの村直行ってのも困るからな。ま、それにしたってこの森が一番困る」
 先をゆくチャチャを追いかけながら、背中で金属の音色を響かせる双剣を背負い直す。こいつの出番はできれば、モンスターが相手の時だけにして欲しい。生まれてこの方、まだ狩りの道具で人を殺めていないことがウィルの密かな自慢だった。勿論、そうでない得物を持っていた時や必要な時は躊躇わない。そして躊躇わずに生きてきた。
 だが、先日モガの村の新人ハンターと会った感触では、目的の人物は恐らくモガの村にいる。
 ウィルが鉄騎の団長より言い渡された任務は唯一つ、シキ国の砌宮家が第七皇子、遥斗を探しだして……消すこと。どこの国もそうであるように、モガの島を巡る領土争いは水面下で激化している。そして、シキ国では別の宮家が砌宮家の台頭を快く思っていなかった。そういう話には反吐が出ると感じるのがウィルだったが、仕事となれば感情は胸の奥に沈める。
 それでもやはり、面白くないものは面白くない……そう思っていた時、視界が開けた。
「ニンゲン発見だっチャ! 見ろ子分、ニンゲンの女の娘がいるっチャ」
「はいはい、娘はもれなく女だっつーの……あ、ああ……」
 目の前の泉で、一人の女が水浴びをしていた。すらりと背が高くて細い、しかし肉付きのふくよかな娘だ。腰まで伸びる真っ赤な髪で、反対に肌は淡雪のように白い。そして、振り向いた彼女はウィルを見ても動じず、歌い続けていた。
 思わずその全身をくまなく見詰めて高得点で評価しつつ、股間を見てウィルは言葉を失う。
「……まあ、娘にも色々いるからなあ。よ、よぉ! こんにちは」
 とりあえずコミュニュケーションの基本、ウィルは元気よく挨拶してみた。これでどこの地域でもだいたい、笑顔を向ければ話が早く済むというのは経験則だ。勿論相手が女性だと、成功率が五割増しになる。
 ただし、全裸の娘と初対面というのは初めてだったし、五割増しの効果が期待できる相手かも微妙だ。
 その女は水からあがると、ザクザクと裸のままウィルに詰め寄ってきた。ぐっと鼻先に通りの良い目鼻立ちが近付く。
「こんにちは、旅人さん!」
「お、おう……な、なあ、顔、近ぇよ」
「?」
「そ、それとあれだ、か、隠したりしねぇか? 流石の俺もちょいと罪悪感だぜ」
 すぐ目の前で小首をかしげて、娘は見えない疑問符を頭に浮かべている。
「あの、ひょっとして道に迷ってますか?」
「あ、ああ。そうだよな? 相棒っ」
「オレチャマは迷ってなどいないっチャ!」
 娘はウィルの足元でキーキーがなるチャチャを見ると、その小さな身体をヒョイと両手で抱え上げた。
「あら! 奇面族の子供ですね、エルは初めて見ます! こんにちは、お名前は?」
「オレチャマはチャチャ、お前も子分にしてやるっチャ!」
「ふふ、どういたしました!」
 微妙に話が噛み合っていないが、娘はそうして難なくチャチャと打ち解けると、彼? を再び地面に下ろした。そうして再度、居心地の悪いウィルに顔を近付けてくる。
「あの、旅人さん! エルは水浴びをしていたのですが、続けてもいいでしょうか!」
「いやだから近いって……そ、そりゃ、あれだ、うん、まあ……」
 キリリとそこで表情を引き締めて、一番の笑顔を咲かせることができるのがウィルという男だ。
「どうぞ、お嬢さん。このウォーレン=アウルスバーグが見守りましょう」
「では!」
 娘は再び歌いながら泉へと分け入ってゆく。その背を眺めて、俺はなにやってんだと呆れる反面、ウィルは素早く周囲の異変を拾っていた。そのことに気付いて、同時に異様な光景へ舌を巻く。
「……モガの森の魔女、あながち嘘って訳でもねえってか」
 泉の周囲には、水を飲みに来たジャギィが数匹、それにフロギィやバギィも。これらは同じ種別の鳥竜だが、住む地域が全て違う筈だ。フロギィはもっと湿った亜熱帯を好み、逆にバギィは寒冷地でなければ繁殖できない。筈だが、現に目の前に三食の鳥竜がそれぞれ邪魔しあうこともなく水を飲んでいる。そればかりか、
「新しい風が吹いて、笑ったり泣いたり、歌ってみたり♪」
 娘が再び歌を歌いだすと、周囲の鳥竜達は踊り出した。互いに縄張りを主張することもしなければ、娘に襲いかかる素振りもない。群れのボスである大きなメスの個体を呼ぶこともしないのだ。ウィルは、娘の周りを崇めるように踊り舞う姿が、楽しげに見える自分を非常識だと思った。
 そうこうしているうちに娘は水浴びを終えたらしく、髪の水気を払って泉から出てきた。
 あいかわらず隠す素振りがないので、豊かな起伏もうっすらとした下腹部の茂みも顕でウィルは眉を潜める。男というのは、あまりにもあけっぴろげにされるとかえって面白くないのだ。むしろ、普段おくゆかしく恥じらいをもって秘められているからこそ、という気持ちはある。だが、娘はまたウィルの目の前にわざわざやってくると、グイと顔を近付けてくる。
「あの、エルは水浴びが終ったので家に帰りますけど!」
「あ、ああ。お、お疲れ様」
「はい! それで、旅人さんはどうされるんですか?」
「……さて、どうしたもんかね」
 じつのところ、目的の人物を探す調査が微妙に手詰まりで、この島で調べていないのはこのモガの森だけ。その帰らずの森に入ったのを見たという話もあって、ウィルはとうとうこの魔の森に脚を踏み入れたのだ。勿論最初は自分が道に迷うなど、天地がひっくり返ってもありえないと思っていたが。今は、いついかなる事実をも認めよというハンターの基本に立ち返っている。
 モガの森は不思議の森、ここではむしろ、不思議という概念が意味をなさなくなるのだ。
「えっと、じゃあ、エルの家に来ますか?」
「……は?」
 娘はサクサクと歩き出すと、近くの小枝にかけてあったボロ布を身につけ始める。それでどうにか直視できる姿になったが、胸元や腰回りを適当に隠してるのか隠しきれてないのかというったいでたちで、かえってなんだか淫猥な目で見てしまうウィル。
 だが、構わず娘は大きく伸びをすると、すっきりしたような顔で歩き出した。
「あ、おい、待てよ! ……どうする相棒、行ってみるか?」
「当たり前っチャ。オレチャマ、子分の家にしょうがないからお邪魔してやるっチャ」
 その声を聞いて、やれやれとウィルも腹を決める。そうして娘に追いつくと、自分より目線一つ高い顔がまたも寄ってきた。いちいち話すたびにこの娘は、顔を近付け真っ直ぐに目を覗きこんでくる。その紅蓮に燃える紅玉の如き瞳に、思わず吸い込まれそうだ。
「ニャンコ先生も喜ぶと思います!」
「なんだ、そのニャンコ先生ってなあ」
「エルの保護者? エルを拾った人です、学者さんだって言ってました。さあ、急いで帰りましょう!」
 ウィルの腕を抱きしめ掴むと、ずんずん娘は歩き出す。
「さあ、手を差し伸べられて輪の中へ♪ ……ん? どうしたんですか?」
「いや、その歌……もだけどよ、ええと。俺はウォーレン=アウルスバーグ、ウィルだ。こっちはチャチャ」
「まあ、これはご丁寧にっ! エルは、エルグリーズといいます。ニャンコ先生のお世話をしたりしてるです」
 どうにも妙に無防備で無邪気な娘が、ウィルには大きな子供に見えた。だが、彼女はぐいぐいとウィルを引っ張り迷う素振りも見せずに歩く。魔女にたぶらかされているのかとも苦笑しつつ、ウィルは黙って身をエルグリーズに任せた。

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