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 年中雨が続く水没林は、どこかシキ国は冴津の近くにも同様の地域があったのをオルカに思い出させる。だが、渓谷の奥深くに広がる窪地が山野の水分を集めてできた冴津の水没林に比べ、この場所はさらに湿気が酷い。大まかにこうした地域はまとめて、どこの狩場でもギルドが水没林という名を当てているが、今オルカ達が訪れた場所はその大半が濁った水に沈んでいた。
 ここはモガの村より船で半日の、大陸に渡った場所にある水没林。
「よぉし! 少年っ、釣りもまたハンターの基本……覚えているかっ!」
「はいっ、全然覚えていません。……すみません、ええと、この竿で」
「ハッハッハ、よいよい。記憶喪失なのだから仕方がない。どれ、見ているのだっ!」
 相変わらず豪気で豪快な夜詩が、暑苦しい笑みを高らかに響かせる。この不快に湿った狩場でも、彼は底抜けに陽気で上機嫌だった。今も遥斗に釣りの手ほどきをしながら、自分の釣り針に黄金ダンゴを仕込むや「とぉっ!」と水面へ投げ込んだ。
 オルカも自分の釣りの準備をしつつ、夜詩の一挙手一投足を真剣に見詰める遥斗へ目を細める。
「随分とかわいがられてるじゃないか。兄貴分としては嬉しい限りだろう?」
 そんなオルカの隣では、ウィルが黄金ダンゴを調合するためにツチハチノコを釣りフィーバエと一緒にすり潰していた。その作業は手慣れたもので、手元を全く見ずにニコニコとオルカへ視線を投じてくる。どこか生暖かいその目つきに、オルカは肩を竦めて曖昧に笑ってみせた。
 ウィルはやはり掴みどころのない男だが、敵意も悪意も感じられないという自分を信じることはできる。
「さあ、俺達も釣りを始めようぜ。ええと、たしかノルマは」
「五匹ですね。黄金魚を五匹」
「まあ、アロワナからなにからガンガン釣ろう! ……こう見えても実は、釣りは好きでね」
 ウィルはニコニコと笑って釣竿を取り出すと、その針に今しがた調合した黄金ダンゴを手早くつける。そして、なんの力みもなく遠くへと静かに竿を振った。そうして浮きを見詰める涼やかな横顔は、心底この釣りを楽しんでいるようだった。
 オルカも支給品の釣り餌を使ってそれに倣う。
 向こうでは夜詩に手取り足取り教えられながら、ぎこちない動きで遥斗が釣りを始めていた。
「……宮家のお坊ちゃん、皇子様だからな。釣りなんざ初めてだろうよ。見ろ、あんなにはしゃいで」
「ええ。毎日楽しそうで、それがせめてもの救いというか」
 二人だけに聞こえる声を潜め合って、ウィルとオルカは笑い合う。オルカはまた、自分の中でウィルへの警戒心が優しくほどかれてゆくのを感じていた。そしてそれは、モガの村のハンターが皆実感していること。最初こそ怪しげな外からの人間、それも傭兵団《鉄騎》の百人隊長だという男を警戒していた。だが、気さくで人懐っこく、その上無類の女好きというウィルの性格は、あっという間にモガの村に溶け込んでしまった。ギルドの看板娘アイシャとデートしてるかと思えば、漁師達を取り仕切る女将を口説いている。そのことで漁団の三兄弟と一騒動あったと聞いて駆けつければ、レストランで意気投合して酒宴に興じているという有様だ。
 あっという間にウィルはモガの村のハンターとして皆の中に自分の居場所を作ってしまった。
 そういう世間での世渡りというのがオルカはそこまで得意ではないので、感心してしまう。
「きっと兄さんや姉さん達も、こんな気持ちだったのかなあ」
「兄弟かい?」
「ええ、うちは大家族でしたから。いつも俺は、兄や姉から沢山のことが学べたし、面倒もみてもらった」
「いいねえ……で? お姉ちゃんは美人かい?」
 ウィルの相変わらずの調子に苦笑しつつ、オルカは手元の竿がグンとしなる気配に身構える。先程から浮き沈みを繰り返していた糸の先は今、大きく沈み込んだ先で水飛沫と共に円を描いていた。
 濁った水の中でさえ、ひときわ輝く鱗を黄金色にゆらめかせて、大きな魚影が暴れている。
「おっ、デカいな! オルカ、少し泳がせろ。……そう、その調子だ。なんだ、慣れたもんじゃねえか」
「ユクモ村で散々やりましたからね。それに、ただ竜を狩るばかりが、ハンターじゃ、ないって」
 モンスターハンターという職業はこの世界では、なくてはならない生活の最前線だ。自然と人間が暮らす生活圏では、厳しい自然の中で社会を運営していく上でモンスターハンターの存在は必須となる。かつてはアウトローの荒くれ集団、無頼漢だったハンターも、今では完全に社会の一員としての地位を確立していた。大きな国の都ならいざしらず、モガの村のような辺境では、自然と人間のなかだちをして両者のバランスを保ちつつ、集落に利をもたらす者達の存在は欠かせない。
 だが、世間一般では今だモンスターハンターとは「竜をも狩る恐るべき蛮勇の者達」との印象が強い。直接モンスターハンターに馴染みのない都会ほど、その傾向は顕著だった。実際にはハンターは、必要があれば飛竜と戦い狩猟するが、基本的には普段は小物の駆除をして田畑を守ったり、採取で益草を集めたりが日常だ。虫あみやピッケルは欠かせぬ武器の一つであり、自身の武具は勿論、自分が暮らす生活圏への還元を第一に狩猟を行うものだ。
 竜と戦う勇者という姿に幼少期に憧れたオルカも、今では地に足のついた一人前の狩人だった。
「ま、そういうこった。俺もねえ、若い頃はそりゃもう、採取や運搬が嫌で嫌で」
「ウィルさんは西シュレイド王国の方から来たんですよね、あっちはたしか」
「そう、貴族様はやたらと竜の卵を珍しがってね。ありゃあでも、喰っても美味くねえんだがよ」
「まあでも、そういう話が儲けになるって人もいますから……よっ、と! よし、まず一匹目」
 オルカがタイミングを合わせて竿を立てると、どんより灰色の曇天に小さな日輪が踊った。まさしく陽の光の如く煌めく黄金魚は、空中で身をくねらせながらオルカの手元に落ちてくる。ずっしりと重い金塊にも似たその魚体は、高額で取引されることで有名な希少魚だった。
 オルカの手並みに感心した様子で、ウィルも笑顔で頷いてくれる。
「っと、見ろよオルカ。あっちも上手くやってるみたいだぜ?」
 ウィルが顎をしゃくって指すので、オルカは魚籠に黄金魚を納めて振り返った。
 そこでは、夜詩が手を添え助ける竿を懸命に振る遥斗の姿があった。勿論、彼にとって釣り、それもこんな状況下での釣りは初めてだろう。しかし彼は、自分は記憶を失ったとはいえハンターの技を修めたと信じ込んでいる。故に毎日一生懸命で、その実力は徐々にではあるが本物へと近づきつつあった。今も見よう見まねで一意専心、夢中で黄金魚と格闘している。
「いいぞ、その調子だ! 少年、黄金魚の力に逆らうのではない、その力を使わせ弱らせるのだ」
「こ、こうでしょうか……でも、竿がこんなに撓んで。糸が切れたら」
「心配は無用! ヘルブラザーズのハンター心得その45! その時はその時っ!」
「はいっ!」
 遥斗はその少女然とした顔に、はつらつとした表情を浮かべていた。
 気付けばその笑顔にオルカは、どこか自分達の嘘が許されるような気がして、しかしいつかは真実を打ち明けなければという想いを強くする。生来オルカは嘘がつけない人間で、それをさらなる嘘で上塗りするという器用さを持てない類の男だった。< そんなオルカの気性を見抜くように、ウィルがその声に真剣さを滲ませる。
 そんなオルカの気性を見抜くように、ウィルがその声に真剣さを滲ませる。
「……オルカ。あまり遥斗に入れ込みすぎるなよ。かわいがってると後で辛いぜ?」
「それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味さ。いつかは別れる日も来る、それは正体を知ってるお前には明白な未来だろ?」
「そうかもしれません。でも……俺は、偽りとはいえ自由な暮らしを満喫してる彼を支えて助けたい」
「優しいんだな。だが覚えておけよ、オルカ。その優しさはいつか、狩りの仲間を危険にさらす」
 ウィルの声には切実さが浮かんでおり、その奥に微かに悔恨の経験をオルカに思わせた。この熟練の剣士はもしかしたら、そうした苦々しい過去を持っているのかもしれない。
 だが、それは危険な狩りで己を立てるモンスターハンターにとっては日常茶飯事。元からその覚悟はオルカにはあったし、こうして一人前になる過程で学んだ。多くの仲間達に恵まれたお陰で、それを失う未来を全力で回避し、共に狩果をわかちあう生き方を掴み取る術を得ている。それをだから、今度は次の世代へと受け継いでもらうことを考えられるほど、オルカには余裕にも似た心のゆとりが生まれていた。
「もし俺が仲間を危険にさらしてしまっても、その時は全力で抗い戦いますよ」
「ほう? もし敵わない相手だとしたら? 敵は飛竜や古龍だけじゃないかもしれないぜ」
「人には言葉が通じますし、飛竜には野生の本能が備わってます。その理を通じてなら、なんとでも」
「はは、確かに。法則ってか、そういうのあるよな……ま、おせっかいだと思って聞いてくれ」
 ウィルの釣竿はかすかに揺れて、浮きは激しく浮き沈みを繰り返している。だが、黄金魚が針にかかっても、ウィルはそれよりもオルカを真っ直ぐ見詰めて言葉を選んだ。
「お前が大事に育てようとしてる、次の世代……その敵は、意外と近くにいるかもって話だ」
「……俺はでも、敵を作るために生きてる訳じゃないですから」
 狩りも同じだとオルカは心の中に結ぶ。例えば今、こうして釣りで納品すべき黄金魚を釣ってても、ここは大自然の中。いついかなることが起こっても不思議ではない。ギルドは狩場が不安定であることを通知しているし、ロアルドロスやドボルベルグといったモンスターもすぐ近くに潜んでいる可能性がある。狩人の持ち物を狙うメラルーは光物が大好きだし、黄金魚を持ち運ぶ者にとっては強敵だ。
 だが、そうした危険と常に敵対して撃破するだけが狩人の生き方ではない。
「例えば、近くに俺の敵が、俺と敵対を望む人がいるとします」
「おう、それで?」
「でも、俺が敵対を望まない限り、関係性には可能性が残されると思いませんか?」
「……甘いな、お前さん」
 不意にウィルが竿を手放した。手放したとわかった瞬間には、オルカの顔を揺れる空気で掠めて、鋭い刃が飛び交っていた。
 ウィルが背の双剣を片方だけ繰り出したのだと知った時には、すぐ横でブナハブラが木っ端微塵に砕けていた。オルカの肌に触れるか触れないかのところを、殺気をはらんだ一撃が擦過した。瞬時にオルカの背に冷たい汗が浮かぶ。
「まあでも、悪くねえ。悪くねえよ、嫌いじゃねえ。俺はな、俺は。なんだ、まあ……そういう時が来ないことを祈ってる。俺だって平和が一番、物騒な事柄に頭を悩ませるよりなら、女の尻を追っかけててえからな」
「ウィルさん……」
「ウィルでいいって言わなかったか? ああくそっ、しかし今日はやたらと虫がいるな」
 ウィルは即座に竿を持ち直して、逃げかけてた黄金魚をあっという間に釣り上げてしまう。力を使った素振りもなく、黄金魚は釣られたことにすら気付かず空を泳ごうと身をよじっていた。
「ま、あの笑顔だ……お前の気持ちもわかるさ、オルカ。お互いだからよ、仲良くしようぜ」
 オルカはそう言ってウィルが指差す先を見やる。遥斗は満面の笑みでオルカの名前を呼びながら、初めて釣り上げた黄金魚を両手で掲げていた。その無邪気な笑顔が眩しくて、とても大事なものに感じてオルカも笑みを返す。
 その背後で得意げな夜詩がしかし、着込んだアグナシリーズの防具による燃鱗で虫を集めているとわかるのは、この直後のことだった。

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