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 モガの森は原初の密林。その奥地には陽の光さえ遠い。頭上を奪い合うように生い茂る樹木は、伸ばした枝葉に不思議な木の実をぶらさげて遥斗を見送った。
 遥斗はただ、少ない荷物を手にとぼとぼとエルグリーズの背を追う。
 半裸に巨大なブーメランをぶらさげたエルグリーズの長身が、遥斗を振り向き手を振った。
「遥斗! この子、出口まで乗せてくれるそうです! お言葉に甘えましょう」
「この、子? エル、それって」
「大丈夫です、気性は荒いですけどいい子ですから」
 ぼんやり俯き歩いていた遥斗は、初めてエルグリーズを見上げて、その背後の巨体に腰を抜かした。
 小ぶりな若い個体だが、そこにはれっきとした飛竜が屈んでいる。巨大な二本の角が、砂色に捻れ突き出ていた。
「ディ、ディアブロス……!? エッ、エエエ、エル、これは」
「よいしょ、っと。遥斗、こっちです! エルの後ろに乗ってください」
 慣れた様子でエルグリーズは、すいすいとディアブロスの背に乗った。そして、自分がまたぐ後ろをポンポンと叩いている。呆気に取られつつも、恐る恐る遥斗もその逞しい肉体へとおずおずよじ登る。大きさは最小のゴールドクラウンサイズにもまだ届かない、ちょっと大き目のアオアシラくらいだ。だが、まごうことなき飛竜の眷属は、二人を乗せる腰を浮かせて立ち上がった。
 揺れる背の上で、慌てて遥斗はバランスを取る。
「遥斗、エルにしっかり捉まっててくださいね。じゃあ、お願いします!」
 まるでエルグリーズの言葉を理解しているかのように、ゆっくりとディアブロスは歩き出した。その足取りは、木々が乱立する中をしっかりと踏み締め進む。遥斗は上下に大きく揺れる硬い背の上で、エルグリーズの細い腰に抱きつきながら周囲を見渡した。
 ケルビや虫達はディアブロスに道を譲り、自然と目の前が開けてゆく。
 頭上でさえずる鳥達は、その雄々しい二本の角で翼を休める者すら見て取れた。
 全てが調和した不思議な森の中では、この場所だけの食物連鎖が均衡を保ち、独特な生態系を織り成していた。
「この子で行けば、一時間もしないでつきますっ!」
「そ、そう……あと、一時間か。ね、ねえ、エル」
「はい? なんですか、遥斗」
「……ううん、なんでもない。あ、あのね……ゴメン、ちょっと、こうしてて……いいかな」
「はいっ! 少しゆっくり歩いてもらいますね」
 遥斗はエルグリーズの腰に抱きついて、そのなだらかな背に顔を頬を寄せて泣いた。静かに揺れる真っ赤な髪の、その僅かに汗と整髪料が香る中に顔を押し込み、声を殺して涙を零す。
 居場所がないと言われた。
 狩りの仲間と認めてもらえなかった。
 そればかりか、未だ戻らぬ記憶へ向けて帰れと言う。仲間と頼った者達も、兄と慕ったあのオルカでさえ。そのことに言い返して自分を誇示するだけのものを、遥斗は持ち得ていなかった。未熟者と言われて反論することができなかったのだ。
 心なしか歩調を緩めた角竜の上で、背中越しにエルグリーズの鼓動を聞きながら遥斗は嗚咽を噛み締める。
 仲間の仕打ちに優しさが感じ取れて、それに応えることができない弱さが身に沁みた。
「遥斗……泣いてるですか? どこか痛いですか?」
「んっ、いや……なんでもない、なんでもないんだ」
「泣かないでください、遥斗! 遥斗が泣くと、エルも悲しくなります!」
 揺れるディアブロスの上で器用に立ち上がると、エルグリーズは「よっ」と身を翻して振り返った。そのまま遥斗に膝を突き合わせる形で跨ぎ直すと、そのままストンと腰を降ろす。慌てて涙を拭う遥斗の手を、優しくエルグリーズの手が握ってきた。
「ご、ごめん、なんか僕みっともない……エ、エル?」
「そんなことないです! 悲しい時は泣いていいって、ニャンコ先生も言ってました」
 そして、そっとエルグリーズが唇を近づけてくる。彼女はチロリと赤い舌で、遥斗の頬を滑り落ちる雫を舐め取った。
「えへへ、遥斗の気持ちの味がします!」
「エル……」
「涙は人の海なんだって、ニャンコ先生が言ってました」
 そうしてエルグリーズは、小柄な遥斗の肩に手を置き抱き寄せて、溢れる涙を舐め続ける。
「遠い昔、人が海から陸に揚がる時……海が譲った贈り物、それが涙なんです」
「……エルはロマンチックなんだね」
「よくわからないですけど、ニャンコ先生が言うならホントだと思います!」
 そうしてエルグリーズは、ようやく泣き止んだ遥斗を胸に抱きしめ、背をトントンと叩く。甘やかな体臭と体温に包まれ、沈むような抱擁感に遥斗は最後の別れを告げるべく溺れていった。
 だが、森を吹き抜ける風に潮の香りが入り混じり、それは徐々に濃密になってゆく。
 モガの森の東側に設けられた、小さな波止場はもうすぐだ。
「今までありがとう、エル。もう、お別れだね」
「……また、会えますよね? 遥斗。ううん、会うです! 会いましょう!」
「うん。いつか必ず。そうだったらいいと願い祈るよ」
 自分でも実感のない、どうにもならない諦観にも似た言葉が零れ出る。同時に溢れる涙を、ずっとエルグリーズに拭ってもらいたい気がしたが。そこまで甘えた自分が許せなくて、遥斗はポーチの中にハンカチを求める。その時、封筒が一緒に滑り降りた。慌てて手を延べ間一髪でエルグリーズが拾えば、その豊満な双丘がぎゅむと遥斗との密着でたわんでゆがむ。弾力が伝える熱も、これが最後と思えば引き剥がす力が抜けていった。
「遥斗、落としました。これは」
「ああ、船のチケットと……手紙が、入ってるんだった」
 エルグリーズから封筒を受け取り、遥斗は開封してみる。
 チケットが二枚と、同封された便箋。綺麗な文字はオルカのものだ。また、モガの村のモンスターハンター全員の寄せ書きがある。そのどれもが、遥斗のこれからの幸せを願い、無事を祈る言葉で埋め尽くされていた。再び瞼の裏が熱くなって、遥斗の涙が便箋に零れ落ちる。そして、潤む瞳は最後のオルカの一文で決壊した。
「は、遥斗?」
「……チケットが、二枚……エルと、二人で逃げろって」
 びっくりしたように、エルグリーズは目を丸くしてしまった。
 だが、次の瞬間には優しく微笑み、俯く遥斗の頭を撫でてくれる。
「遥斗、エルと一緒に逃げてくれるんですか?」
「それは……エルに、無事でいて、欲しい。……それはでも、村のみんなも、同じだ」
「ふふ、エルとおそろいですね! エルもそう思います。だから」
 エルグリーズは遥斗の手から、船のチケットを一枚そっとつまんで奪う。それをジーッと見詰めて、突然真っ二つに切り裂いた。何度も重ねては手で千切り、最後には前から吹く潮風にさらわせる。遥斗は、白い紙吹雪が吸い上げられる森の空を見上げた。
 遠く高く輝く太陽は、木々が茂らせる青葉の影に光を灯していた。
「エルは島に残ります! 遥斗の分もエルが頑張るんです。遥斗の悔しさ、エルが晴らしますっ!」
 だから、と再び抱きしめてくるエルグリーズの声が僅かに震えていた。
 誰もが等しく感じる古龍への恐怖は、モガの森の魔女さえ凍えさせてしまう。
 エルグリーズは遥斗の耳元へと、静かにそっと囁いた。
 ――生きてください、遥斗。
 その切実な言葉と共に、そっと離れたエルグリーズがディアブロスの背から飛び降りる。彼女は器用に地面に身を屈めて着地すると、両手を振ってその場で飛び跳ね見送った。
「遥斗、元気でいてください! また会えます、エルからだって会いにいきます! あ、あっ、会いに……あ、愛――」
 口篭る言葉を飲み込んで、手を振るエルグリーズが遠ざかる。
 その瞬間に、気付けば遥斗も飛び降りていた。
 もはや理屈ではなく、猛る想いがそよいで身を滾らせる。未熟と言われて居場所のない己でも、血潮は燃えて沸騰していた。
「は、遥斗?」
「僕は……逃げない! 願うのも祈るのも、逃げるのもやめる。エル、帰ろう……モガの村へ」
「で、でも……エル、みんなに言われてます。遥斗を頼むって」
「ならエル、僕を支えて。一緒に戦おう。みんなと共に!」
 思えば、初めて仲間達の助言に逆らう。懐いて慕い、常に規範と尊敬していたオルカにさえ。同時に、初めて遥斗は自分で考え、自分で決断していた。それは、この危機的状況のモガの村に、自分がなにをできるかを忘れること。自分がむしろ、どうしたいか……誰といたいか。そのことが今、大いなる蛮勇を持って遥斗に決断をさせた。
「例え一人ででも、僕は戦う。みんなに認めてもらうまで食い下がる。みっともなくてもあがいてみせる。だから」
「……はいっ! エルは、そんな遥斗が大好きですから! 力になります、力こぶりますっ!」
 二人は手に手を取って、来た道を引き返し始める。その足取りは軽く、海風が背を押していた。

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