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 ユクモ村は柳ノ社に封じられし災禍……その名はアマツマガツチ。勇敢なハンター達の手でその脅威が取り除かれたという報せは、またたくまにここタンジアの港にも届いていた。そして、ハンターズギルドや古龍観測所から漏れでた情報が、巷に恐るべき都市伝説となって駆け巡る。
 酒場でも今、あちこちのテーブルで囁かれているのは、三獄の星龍なる災厄。
 そのうち、二体が討伐されたという噂で持ちきりだ。
 だが、むっつりとしかめっ面で酒をあおるキヨノブは面白くない。さっきから飲んでるのにさっぱり酔えないのだ。時刻はまだまだ宵の口、ようやく昇りだした月が今夜も紅い。
「ちきしょーめぃ、クソッ! ああもう、やりやがったぜ流石だぜ! ……やったな、アズ」
 本日何度目かの祝杯を仰いで、キヨノブは目の前の麗人と少年に聞かせてやるように独りごちる。本音を言えばほっとしているし、仲間達の助力もありがたい。何より自分の相方が誇らしいのに。それなのに、キヨノブの奇妙な苛立ちは収まらなかった。
 それは、まだその手にアズラエルの無事を確かめてないから。
 一流のハンター達がそうであるように、キヨノブもまた自分が見聞きして触れ、己が感じたことをこそ信じる。
「チヨ、どうしてキヨは怒っているのだ? キヨの嫁は立派ではないか」
「サキネさん、アズラエルさんはキヨノブ様のお嫁さんではありませんよ。厳密には。それと、そうですね……」
 不思議そうに小首をかしげるのは、向かいに並んで座る夫婦の片割れ、サキネだ。そして彼女に聞かれるままに、まだ年端もゆかぬ少年が静かに応える。どこか中性的で肌も白く、線の細い男の子はチヨマル。二人は夫婦の契りを交わして、今はこのタンジアの港に新婚旅行で長期滞在中だ。
 チヨマルは食器に一度箸を置くと、静かに、しかしハッキリと言い切った。
「お嫁さんではありませんが、キヨノブ様にとってアズラエルさんが大事な人だからですよ」
「ふむ……嫁ではないのに。ああ、確かに。はっ! ……婿なのか? アズラエルが婿なのか?」
「そういう問題ではありません、サキネさん。例えばそうですね、同じ立場なら私も少し不満に思うでしょう」
 むむむ、と腕組みサキネは唸ってしまう。そのまま考え込む仕草もまた、整い過ぎた顔立ちを優美に飾っていた。それを愛でて眺めつつ、人妻にそれもイカンとキヨノブは杯を乾かした。
 ――アズラエルは、キヨノブに無断でアマツマガツチ討伐に飛び出したのだ。
 そのこと自体を今、キヨノブは理解できる。アズラエルのことがわかるのだ。立場が逆なら自分もそうしただろうし、そうできない脚を引きずり生きる隣でアズラエルは支えててくれる。だが、納得するかどうかはまた別の話だ。相談されればキヨノブはきっと止めてしまう……行かないでくれと。太古の昔より社に伝承を伝える、風神雷神の封印で眠っていた恐るべき古龍だ。例えユクモ村と冴津に危機が迫っていたとしても、キヨノブにはアズラエルを差し出す気にはなれない。
 そして、キヨノブがアズラエルを知り得ているように、逆もまた熟知されていたのだ。
 だから察して、アズラエルは黙って消えた……その不器用な優しさがキヨノブには心憎い。
「あいつはようやく、自分で見つけたんだな。自分が命を賭けてもいい、命を燃やせる狩りの理由を」
 嬉しいような、少し寂しいような。誇らしいけど、やはり悲しいような。
 自分にだけ素顔で甘えてくる少年はもう、立派な青年に、一人前の狩人に成長したのだ。
 そのことを呟き杯に手酌で酒を注ぎ足していると、
「それは違うぞ、キヨ」
 不意にサキネがきっぱりと否定してきた。
 強い言葉だったので思わず、キヨノブの徳利を持つ手が止まる。
「アズラエルは見つけたのではない、気付いたのだ。いや、前から気付いていたのだな……きっと」
「なんだいサキネちゃん、そらぁ――」
「アズラエルが命よりも大事にしているのは、キヨ、お前だ。私にはわかるぞ。……今の私には」
 不意の一言にキヨノブは目を点にして、改めてそのことを自分の中に発見する。
 こんなにもアズラエルの不在で落ち着かない自分は、間違いなく大事に思っているのだ。そしてそれは、アズラエルの中にも同じ想いが存在するのだとサキネは言う。静かにチヨマルも黙って頷いた。
「やはりアズラエルはお前に惚れているのだ。お前がそうであるようにな、キヨ」
「ば、ばばば、馬鹿野郎っ! ……当たり前じゃねえか。だって俺ぁ、その、あれよ……お、おう」
「私が生まれた里で育んできた、一族全てが家族という愛ではない。もっと深く重いものだ」
 サキネは両性具有の竜人希少種で、一族だけで隠れ里に住んでいた。そこでは誰もが誰かと子を作り、里全体で産み育てるという。だから、ユクモ村で出会った頃のサキネには男女の機微も恋愛という概念もわからなかったし、結婚という制度すら知らなかった。
 それが今、生涯の伴侶を得てその隣で微笑んでいる。
 形は違えどキヨノブも同じだと、彼女は言ってくれているのだ。
「かーっ! 飲まずにはいられねえ! まあでも、流石はアズだぜえ」
「うむ、アズラエルは本当にいい腕をしている」
「腕だけじゃねえぜ、気も回るし目配せも利く。ミナガルデでのシノギは伊達じゃねえのさ」
 アズラエルを褒められると一転して、先ほどからの怒りも忘れて嬉しくなってしまう。
 アズラエルのことだ、今頃無事に死闘を終えて今後のことにも頭が回り始めているだろう。あいつもまた、ユクモ村でまんじりともせずに自分のことを考えていてくれるだろうか? 無断で飛び出したことへの叱責を恐れているなら、今すぐ飛んでいって伝えたい。そんなことを心配する必要はないし、お前を責める俺ではないと。そして褒めてやりたいのだ。
「まぁ、いいさ。帰ってきたら甘やかしてやらにゃいかん。……俺ぁおいそれとユクモ村には近付けねえからな」
「そうか、キヨは……そうだな。だが、郷里や国に戻れずとも、人は人と共になら居場所を見つけられる」
「言うようになったねえ、サキネちゃん……ん? なんだ、全然飲んでねえじゃねえか」
 ふとキヨノブは、サキネの前でジョッキが泡を失い琥珀色に満ち満ちているのを見とめた。この娘はバツグンのスタイルが嘘のように、よく飲みよく食べる健啖家なのだが。狩りと子作りの次に好きなのが酒という、とってもワイルドな肉食系女子なのだが。それが、今日はおかしい。おかしいのは普段にもまして何故か、サキネが綺麗に見えるから。普段はしどけなく着流しを着崩して胸元など見放題なのだが、今日はきっちりと着物を着こなしている。
 そんな彼女の口から、驚くべき言葉が転がり出てくる。
「実は、子宝を授かったのだ」
「おおう、そいつぁめでて……ええええっ!」
 ブフォー! と思わずキヨノブは酒を吹き出した。その奔流から守るべく、サキネはヒョイと傍らのチヨマルを抱き上げる。そして膝の上に座らせると、改めて真顔で言い放った。
「このタンジアでも逗留中は励んでいたが、以前からチヨと子作りをしていたからな。うむ、妊娠した!」
「サキネさん、声が少し大きいです……」
「はっはっは、恥ずかしがる必要はないぞチヨ。私は誇らしい……なんと幸せなことだろう。里の者達にも早く知らせたい」
 朗らかに笑うサキネは、膝の上のチヨマルに頬ずりして、キヨノブの視線も気にせず唇を重ねた。そしてそのまま、真っ赤になってしまったチヨマルを抱きしめながらしみじみと言葉を選んだ。
「私達の中から子を孕む者が出るなど、何年ぶりだろう。やはり外に血を求めたことは間違ってはいなかった」
「それは、その、あれだ……めでてえなあ、サキネちゃん」
「うむ。私は立派な母となって子を育てるぞ。そして確信したのだ。里の未来を救うにはやはり、外との交流だと」
「アズの奴も喜ぶぜ……た、多分。まあ、顔には出ないだろうけどよ。仲間だからな」
 あの仏頂面の鉄面皮の下にはもう、豊かな感情と情緒があって、何より人の心の温もりがある。冷血な人形だった時代をもう、アズラエルは脱ぎ去ったのだ。
 それを一番よく知るのは自分だと思えば、幸せな気持ちがより豊かになる。
 周囲のざわめきが気になりだしたのは、そんな時だった。
「っと、やけに騒がしいなおい……ありゃりゃ? いっけねえ、もうそんな時間か。夜明けが」
 立ち上がって振り向けば、背後から吹き込んでくる海風が燃えていた。空が真っ赤に染まり、水平線の向こうに強烈な光が登り始めている。唯一厄海から全てを睥睨する大灯台だけが、その中に黒い影を刻んでいた。
 払暁の光はしかし、海を燃やして空を焦がしながら……不意に翼のように焔を広げた。
「キヨノブ様、あちらは東ではありませぬ。あれは――」
「なんだ? あれはまさか……そんな!」
 驚きの声をあげると同時に、サキネはチヨマルを抱きしめたまま立ち上がった。
 静かに凪いだ海をにらがせて、遠くの水平線に巨大な影が持ち上がる。その姿は、伝説の黒龍にも似て暗い炎をゆらがせていた。
 ――煉嶽の焔帝。そう誰かが呟いた。
「もしや、里に伝わる伝承の……彼の地とはここ、タンジアだったのか!? では、あれは」
 その時、空と海の蒼をないまぜにするかのような咆哮が迸った。遥か沖で吠え荒ぶ古龍の雄叫びに、キヨノブの総身が泡立ち毛穴という毛穴が開いて汗を吹き出す。
 そんな中、冷静な声が闘志を燻らしていた。
「キヨ、チヨを頼む」
「お、おいサキネちゃん! な、なにを……」
「この港に動けるハンターは少ない。あれが上陸すれば、タンジアの港は、いや……この国は」
「だからって身重で! おい、サキネちゃんっ!」
 サキネは黒髪を翻して駆け出していた。大混乱で誰も彼もが慌てふためく中、店を出る前に彼女は一度だけ振り返る。
「我が子に恥じるような私であってはならない! 今、命を宿してわかったことがある……私には守りたい命がある!」
 それだけ言い残して、サキネは言ってしまった。
 キヨノブはただただ立ち尽くして、とうの昔に機能を失った脚の重みを痛感していた。そして自分の隣で拳をぎゅむと胸の前に握って見送る、チヨマルの切実な表情に気付く。だが、次の瞬間には空が一条の光に灼かれて周囲を爆風が襲った。

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