モガの島を囲む南方の海は、どこまでも碧く透き通って広がる。  海岸線の砂浜に集まったオルカ達は、これからのクエスト準備に余念がなかった。今日の依頼は、古代鮫の皮の納品。獰猛なサメから取られる皮は、モガの村を始めとするモンスターハンター主体の地域の特産品だった。素材品として重用される他、薬の材料としても重宝されている。 「ごめんな、オルカ。本当はあたしも行ければよかったんだけど」  申し訳なさそうに俯くのはノエルだ。  彼女は実は、カナヅチなのだ。だが、モンスターハンターの活動が水中に及ぶ機会は滅多にない。彼女はあらゆる地域で狩りをしてきた熟練のハンターだったが、流石に海の中は初めてだった。  だからオルカは、そんな彼女の肩をポンポンと叩いて微笑み安心させる。 「大丈夫さ、サメ相手ならすぐに終わるよ。遥斗も手伝ってくれるしね」 「ノエルさん、安心してください。オルカのサポートは僕がしっかり務めます!」  既に防具を脱ぎ捨て、インナーだけになった遥斗は海に浸かっていた。本来ならば防具を着込んだままで泳ぐのが普通だ。だが、今日は凶暴とはいえサメを狩猟して剥ぎ取るだけだ。ならばとオルカも防具を脱いで、もはや見慣れたユクモシリーズを丁寧に折りたたむ。サメが相手でも、相手は体長数メートルもの海の暴君だ。それでも身軽な方がと、オルカは銛を準備して片方を遥斗に投げる。  その様子を見やって、にこやかに声をあげる少女はいかにも手慣れた様子だった。 「サメは沖の海中にいます。あたしはノエルさんの泳ぎの練習に付き合うので、よろしくお願いしますね」 「ああ、多分大丈夫。だと思う。……気がする。なにせ、俺も水の中は初めてだしね」  オルカの声に微笑むのは、モガの村の先輩ハンター、アニエスだ。彼女は海中での狩りにも慣れているらしく、やはり防具を脱ぎ捨てて見事なプロポーションを顕にした。そして促されるので、渋々ノエルもレザーシリーズを脱ぐ。二人の少女は歳も近く、すぐに打ち解けて連帯感を見せていた。  互いの体型を褒め合い恥ずかしがる少女達を見て、たまにはこういうのもいいとオルカは苦笑を零した。 「さて、それじゃあ俺はちょっと行ってくるか」  オルカはノエルとアニエスに見送られ、黄色い声援を受けながら海水に身を浸す。この時期、気候も穏やかで水温は温かい。そのまま手を振る遥斗に泳いで近付き、ニ、三の確認を取ってオルカは沖へと泳ぎ出した。  遥斗は妙にオルカに懐いていて、達者な泳ぎですぐ後をついてきた。 「これぐらい沖に来れば大丈夫かな? 遥斗、相手はサメだから気をつけるんだよ。普段の狩りと一緒さ」 「非常に恐ろしい魚だと聞いています。二人で大丈夫でしょうか」 「さあ、どうだろうね。正直、俺にもよくわからない。見たことないんだよね、サメ」 「オルカ……やっぱり引き返して、アニエスさんに助けてもらいましょうか」  不安そうな遥斗には申し訳ないのだが、実はオルカは内心楽しみでしかたがない。  それというのも、オルカは意外にも海が好きなのだ。もともとあまり海には馴染みのない土地で生まれ育ったが、故郷の人は皆、海に焦がれて憧れ生きてきた。自分の名も兄達の名も、悠々と海を泳ぐ生き物から取られたと聞いている。  ここにきてまた、オルカは持ち前の好奇心を発揮して狩りの喜びにワクワクしていた。  概ね穏やかで平凡な少年、あるいは青年という歳のオルカだが、時々こういう面が顔を出すのだった。 「とにかく、一度潜って様子を見てみよう。武器は大丈夫だね?」 「はい。銛もちゃんと持って来ました」  遥斗は背の太刀に手をそえつつ、もう片方の手に握った銛を軽くあげて見せる。オルカも最近ようやく手に馴染みはじめたスラッシュアクスを腰に持ち、手には鋭い合金製の銛を持っていた。普段から狩りに使う武器では、サメを相手に威力が高過ぎる。ともすれば、剥ぎ取る余地もないほどに傷つけて、結果的に必死の逃走を許してしまうのだ。そこで、武器で牽制して足を止め、銛で仕留めるのだとアニエスは教えてくれた。  オルカとしては初めての試みだったが、逆に初めてであることが彼を言い用のない高揚感で包んでいた。 「よし、じゃあ潜ろう。なにかあったら合図を指信号で。……ええと、わかるよね?」 「はい、さっきアニエスさんに教えてもらいました。僕、駄目ですね……そんなことも忘れてて」 「またそんな顔をする。よしなよ、悲観してもいいことないさ」  そもそも、そんなことを遥斗が知っている筈がないのだ。なぜなら、記憶喪失というのは本当の話だが、彼がハンター候補生としてオルカの元で修行をしたというのは嘘だから。だが、即席で軽く説明を受けて、ハンター同士が無言でやりとりする指信号を覚えてしまうのには正直オルカも驚く。モンスターハンターは狩りの際、無音での意思疎通を時として強いられる。そういう時に身振り手振りでのコミュニュケーションが使われ、今では手と指だけで伝え合うことができるのだった。  まあ、オルカとしては連れ添う遥斗が優秀なことに困る必要はない。 「さて、それじゃあ行ってみよう」 「はいっ!」  オルカは大きく息を吸い込み、蓄えた空気を肺腑に留めて海中に没した。その後に遥斗も続く。  快晴の太陽がきらきらと光を反射させる海中は、静寂を讃えた蒼の世界だった。思わずオルカは、仕事とは関係がないとはいえ遥斗にそのことを伝えてしまう。モガの島近海の底はなだらかな地形で、周囲を魚達が乱舞している。マンボウやエピオスといった大型の種類も、まるで警戒心を知らぬかのようにゆったりと泳いでいた。  その光景を見渡し感動しているのか、遥斗はオルカへの返事も忘れて首を巡らせていた。  多種多様な見たこともない魚達は鱗にキラキラと光を集めて群れをなし、海流に時に逆らい、時に身をゆだねて泳いでいる。 (遥斗、行こうか……遥斗?) (は、はい! 凄いですね、オルカ。海の底はまるで別世界です)  同感だとオルカは、指を立ててそれを伝える。  二人はしばらく、周囲の景色を楽しみながらゆっくりと海中散歩を楽しんだ。幸い肺活量には自信があったし、遥斗にも問題はないようだった。遥斗は宮家の皇子、いってみれば貴族なのだが、不思議とその肉体は過不足なく鍛えぬかれている。華奢な細身でパッと見にはひ弱な線の細い印象を受けるが、剣術は巧みで体術にも優れ、その肉体は研ぎ澄まされた刃よのよだった。  ただ、持久力に関しては難があり、狩りの知識と経験においては皆無であることをオルカは改めて心に刻んだ。  この忘却の皇子が、そのまま全てを忘れてモガの村に根を下ろすなら、それもいいと思う。自分がその一助になれればと思うし、懐かれて悪い気はしない。自分もこうして、兄を慕って後をいつもついてまわった経験があるから。だが、もし記憶を取り戻したら……そのことを考えると、オルカは少しだけ切なくなる。遥斗は既に、帰るべき場所を奪われているのだから。  そんなことを考えていたオルカは、ポンと遥斗に肩を叩かれる。 (オルカ、いました。あれがサメではないでしょうか。沢山います) (……ほんとだ。ルーンが図鑑で見せてくれたサメに違いないね。さて、どうしよう)  オルカはとりあえず遥斗を連れて、教えられた通りに岩場を丹念に調べた。このモガの島近海は不思議なことに、海の底にところどころ空気が噴き出している場所があるとアニエスは言っていた。そこでは息継ぎができるが、何故空気が漏れ出ているのかは誰もわからないという。オルカはその場所を目で確認して遥斗に教えつつ、漠然とだが考えを巡らせた。  思えば、このモガの島には不思議が多過ぎる。  そもそも、一人前のモンスターハンターが森で迷うということは異例中の異例だ。本来ならばありえない。加えて、モガの森には普段はなかなかお目にかかれないような亜種モンスターが我が物顔で歩いている。それに、多種多様な異なる地域のモンスターが共生しているのだ。ルーンやアニエス達、モガの村のハンターにそのことを聞いたが、彼女達は現状を正しく理解していても、その理由に関してなにも知らなかった。村長が昔若いころ、そのことを調べていたと言っていたが、やはりなにもわからなかったと言う。 (もしかして、このモガの島にはなにか触れてはならない秘密があるんじゃ……ふふ、まさかな) (オルカ、群れから一匹サメが離れました。僕がちょっと行ってきます!) (あっ、遥斗。待って、俺も一緒に――)  矢継ぎ早に合図をやり取りする間に、遥斗は一人でオルカから離れていった。太刀を抜き放ち、一匹だけ単独行動を始めたサメへと近付いてゆく。オルカは咄嗟に、その背を追ってフォローに入った。兄から聞いているし、本にも読んだことがある。サメは恐ろしい魚だと。  だが、この時オルカは失念していた……この海で真に恐ろしい存在のことを。  慎重に近付く遥斗の進行方向で、突然サメが姿を消した。同時に気泡が泡立ち海中が激しくかき乱される。  なにか大質量の物体が高速で通り過ぎたのだと気付いた時には、オルカは姿勢を制御しながら海底に降り立っていた。 「遥斗っ! 危ない! ……しまった、息が」  思わず海の底も忘れてオルカは叫び、とたんに呼吸を奪われた。海水は容赦なく流れ込んできて、彼の中で空気を外へと搾り出そうとする。慌てつつもパニックになることを避けながら、オルカは落ち着いて失態を挽回しにかかった。  その時、オルカは見た……海中で竦んで沈む遥斗の前に、巨大な海竜が二人を睥睨しているのを。  バチバチと薄暗い海底を帯電で照らす、その威風堂々たる姿こそ……海竜ラギアクルス。ここのところモガの島を襲う頻発地震の元凶とされる、恐るべき海の主。雷公と呼ばれる偉大な存在であった。  圧倒的なその威圧感に、オルカは呼吸を整えつつも息を飲む。なんて美しい……率直に賛辞が脳裏を過ぎった。その海よりも蒼い甲殻と鱗は、スパークするプラズマで光沢を波打たせている。背にはその稲光を生む突起が無数に生え、自ら後光を放つ四肢は強靭、長く伸びた首の先には角をたたえた竜貌がある。その身体は今まで見たどんな飛竜よりも巨大だった。 (遥斗、逃げるんだ。遥斗!)  必死で指信号を送り、身振り手振りで伝えるオルカ。  遥斗はラギアクルスの眼光に射抜かれ硬直したまま海底に落ちていった。声を発することもできず、オルカは奥歯を噛みつつ腰の武器に手を回す。だが、勝てるだろうか? 初めての海中での戦いに、未だ強化もままならない武器……何より今、身を守る防具すらない。そして哀しいほどにオルカは一人前のモンスターハンターで、そういう時にどういう判断を下すべきか知っていた。  だが、賢さよりも自分への誠実さ、正直さをオルカは選んで武器を抜く。 (待ってろ、遥斗! 俺が注意を引いて……!?)  オルカの接近に気付いたのか、ラギアクルスが咆哮を迸らせる。まるで海水が沸騰したかのような衝撃に、ビリビリと肌が泡立ちオルカも竦んだ。その瞬間にはもう、まるで瞬間移動したかのように水の中を馳せるラギアクルスの尾が、漂うオルカの身を弾き飛ばした。  海面を突き抜け宙を舞うほどの衝撃に、オルカは歯を食いしばる。僅かな一瞬、空に浮いた彼は空気を貪る隙も与えられずに海面にしたたかに打ち付けられた。尾の一撃でオルカは、体中の関節が悲鳴をあげている自分に驚愕した。  オルカが最後に見た遥斗は、荒れ狂うラギアクルスが乱した潮流の中へと、その矮躯を吸い込まれていった。