なにも聞こえず、なにも見えず、そしてなにも感じない。  虚空の闇に身を漂わせて、遥斗は虚無の深淵へと沈んでいった。全身の筋肉を萎縮させる恐怖と、生物としての本能が感じる畏怖だけが、今も身体を凍えさせていた。恐るべき海竜ラギアクルスの謁見は、その気迫に呑まれた遥斗の力を全て奪っていた。そのままラギアクルスの猛攻に晒され、海の底へと引きずり込まれたところまでは覚えている。 (僕は……死ぬのか。なにも思い出せないまま……ハンターとして、なにもできないまま)  そう考える頭も、ぼんやりと霞んで霧がかかったよう。思考は定まらず思惟は紡げず、ひたすらに闇をさまよう遥斗。  だが、不意に灼けるような熱さが身に灯った。まるで燃え盛る業火に触れたかのように、唇が熱い。そう感じた瞬間、生命の息吹が流れ込んできて、遥斗は現実世界へと覚醒した。  目を見開いた遥斗が最初に見たのは、眩しさの中で揺れる二房のたわわな実りだった。それで自分が、女性に膝枕をされていると気付く。同時に、鼻はつままれて顎を固定されたまま、再度真っ白な顔が唇を重ねてきた。 「ん……んぐぐっ! んー! ぷぁっ! はぁ、はぁ……あ、あの、もう大丈夫です……」 「あ、気付きましたか? おはようございました!」  肺が破裂するかと思われる程に新鮮な空気を吹き込まれて、慌てて遥斗は飛び起きる。そうしてようやく呼吸を落ち着かせて振り向くと、そこには紅白に彩られた半裸の女が立ち上がっていた。その長く伸びた髪は烈火のように紅く、透けるように白い肌との強烈なコントラストを網膜に刻み付ける。遥斗の視線に女は、無邪気そうに目をくるくると丸くして小首を傾げた。 「……あの、ここは……!?」 「ここはモガの森です! ハンターさんはこの地底湖に打ち上げられていたんですよ。……エルみたいに」  驚く遥斗に構わず、ズイと顔を近付け鼻先で女は喋る。  不思議とその声は、どこかで聞いたことがあるような気がした。そしてその理由を改めて遥斗は聞かされる。 「ふふ、ハンターさんをお助けするの、二度目ですね。怪我、もういいみたいでよかったです!」 「あ、ああ……じゃあ、モガの森で以前僕を助けてくれたのは」 「はいっ! エルがお助けしました」  ぐるりと周囲を見渡しながら、肌寒さを感じて遥斗は己を抱く。天井一面には何かの結晶が複雑な隆起を織り成しており、外からの光に七色の反射で洞窟内を薄っすらと照らしていた。そして背後には、一面に広がる地底湖が鏡の如き水面を広げている。  恐らく底で海に通じており、運良く遥斗は海流に流されてここへと漂着したのかもしれない。 「ん? エルみたいに……エル?」 「あ、自己紹介がまだでした。エルグリーズと申します、ハンターさん。仕事は、ええと、魔女? かなあ?」  エルグリーズと名乗った長身の女は、その起伏がはっきりとした身を傾け腕組み難しい顔で考え込んでいる。だが、あまりいい答えが見つからなかったのか、不意に思考そのものを放棄してパン! と手を叩いた。 「ニャンコ先生のお世話とかお手伝いとか、色々と沢山やってます。ええと、ハンターさんは」 「ああ、僕。僕の名は遥斗。助けてくれてありがとう、エルグリーズ。それも二度も」 「いいえっ! どういたしました、遥斗さん。気軽にエルと呼んでくださいね」 「じゃあ、僕のことも遥斗と。……あ、そうだ。オルカは? あの、僕は一人でしたか?」  改めてぐるりと視線を巡らせるが、先輩ハンターの姿は見当たらない。  その代わり、遥斗の視界に異様なものが飛び込んできた。 「……なんだ、これ。……棺桶?」 「ああ、これですか? ふふ、エルはこの中に入ってたってニャンコ先生が言ってました」  それはまさしく、硝子の柩だった。人が一人すっぽりと収まる、不思議な容器が岸に打ち上げられている。その蓋は既に開かれており、中には何か不思議な光が明滅していた。一目で見て太古の文明の遺物だと知れたが、遥斗にそれ以上の知識はない。そして、その中から出てきたというエルグリーズは不思議そうに大きな深紅の瞳を瞬かせている。 「エルが、この中に?」 「はいっ! この地底湖、下で海と繋がってるんです。だから、エルも海から来たのかもしれませんね!」 「しれませんね、って……まあ、僕も人のこと言えないか。そうだ、エル。以前の僕のこと、少し聞いてもいい?」 「エルにわかることならなんでも! ええと、遥斗は森でリオレイアに襲われてて」  あれこれ思い出しながらぶつ切りに喋るエルグリーズ。その声は明朗で闊達だが、あまり要領がいいとは言えない。たどたどしいことも手伝って、その口ぶりは見た目を裏切る幼い印象を遥斗に与えた。  二人へ外から声が投げかけられたのは、そんな時だった。 「エル、彼は目を覚ましたかね? 一応小屋から薬を持ってきた。客人も一緒だが、どうか」 「オレチャマが活躍するかもだ! おい子分、早くついてくるっチャ」 「おいおい二人共、待ってくれよな。こっちは人間サイズなんだからよ」  現れた人影達は奇妙な取り合わせだった。なにやらローブを纏ったアイルーが一人、そして奇面族が一人、最後にすらりと見心地のいい男が現れた。どれも皆、遥斗が初めて目にする人達だが、男は遥斗を見るなり一瞬表情を固くした。  エルグリーズは遥斗の手を握ると、そのまま引っ張って彼等へと無防備に近付く。 「あ、ニャンコ先生! ウィルもチャチャも! 遥斗は大丈夫です、さっき息を吹き返しました」  エルグリーズの声に、アイルーの老人はヒゲをつまんで笑顔で頷く。 「ふむ、ならいい。遥斗くん、と言ったかね?」 「は、はい。ええと、あなたは」 「小生、いささかこの島の古代文明を研究しておる。エルはニャンコ先生などと言うが、好きに呼ぶがいい」 「は、はあ……で、あの、そちらの方々は」  そう言葉を向けながらも、流石の遥斗でもすぐに分かった。男は引き締まった肉体で自身がモンスターハンターであることを語っている。その装束はどこかで見たことがあるような気がするが、なかなか知識が記憶の奥から出てこない。  逆に男の方はいやに真剣な表情で遥斗へ近付いてきた。 「ちょっとごめんよ、お前さんが遥斗かい? ……クソッ、なんてこった。いやがるじゃねえか」 「え、ええ。あ、もしや僕のことをご存知ですか?」 「ご存知もなにも、お前さんは――」  気付けば遥斗は男に詰め寄っていた。 「あのっ、教えてください! 僕のことを! 記憶が戻るかもしれませんし。お願いします!」 「……は? ええと、ちょっと待て。もしかしてお前さん」 「記憶がないのです。雌の火竜に殺されかけて、エルに助けてもらったのですが」  男が視線をエルに向けると、彼女は大きく頷き鼻息も荒くどうだと得意満面の笑みだ。  そして遥斗は、自分のことを知る人物の登場に淡い期待を感じる。もしかしたら、記憶を取り戻すいいきっかけになるかもしれない。 「ええと、ん……参ったぜ、こいつぁ。俺はウォーレン・アウルスバーグ。ウィルって呼んでくれ」 「はいっ、ウィルさん。それで……ウィルさんは僕とどういった関係がある方なんですか?」 「……ちょいと説明し難いな。それと、記憶喪失か……厄介なことになってきたぜ」  まさか遥斗には夢にも思わない。この異国から来た凄腕ハンターが、実は自分を暗殺するという密命を帯びていることを。勿論ウィルが一流ゆえに、それを全く悟らせないのだが。それでも彼は、正直に困り顔でバリボリと髪を掻きむしった。元来、腹芸ができるようにはできていないのがウォーレン・アウルスバーグという男だった。  遥斗が期待の目で見詰める中、溜息を零してウィルが口を開いた。 「まあ、その、あれだ。仕事の関係ってとこかな」 「やはり……ウィルさん、失礼ですがハンターですよね。僕と同じ」 「お前さん、ハンターなのか?」 「そうだと聞きました。自分でも狩り場での最近は楽しいので、そうなのだと思います、けど」  フム、と腕組みウィルは考えこんでしまった。  そんな彼はさておき、エルが再び目の前に顔を近付けてくる。 「よかったですね、遥斗! 遥斗を知ってる人がいて。頭、治るといいですね!」 「え、ええ……そ、その、ええと……近くないですか、顔」  だが、ニッコリ笑ってエルはニャンコ先生と二、三の言葉を交わし、洞窟の出口へと歩いて行ってしまう。腰に大きなブーメランを吊るした細いシルエットが遠ざかっても、まだ遥斗は熱を感じていた。自分の頬が火照っているのだとさえ気付けない。  ただぼんやりと、陽光の差し込む中に消えてゆくエルグリーズを、無意識に見詰めていた。 「とりあえず、あれだ。なあ、遥斗。記憶、ないんだな?」 「ええ」 「そいつぁ酷な話だな……始末するにしても、事情すらわかれないってのは理不尽に過ぎる」 「……ええ」 「とりあえずもう一度、今度こそモガの村に言ってみる必要が……おい? 遥斗?」 「え、ええ」  ぶつぶつと呟きを織り交ぜていたウィルだが、遥斗の熱視線のその先を見やってニヤリと笑う。 「おい、大丈夫か? 参ったぜ、ガキが色気付きやがって。なあ遥斗」 「ええ」 「いいから聞けよ。あの女は、エルグリーズはやめておけ。たしかに上玉だが、ちょっと特殊だからよ」 「……そうなんですか?」  確かにウィルが言う通り、誰もが紅蓮の魔女と呼んで恐れるモガの森の主は、とても美しくて幻想的ですらある。その実、非常に無垢で無邪気な表情がまた可愛らしい。完全に魅了されてしまった遥斗は、そのままエルグリーズの姿が見えなくなるまでじっと光の差し込む場所を見詰めていた。 「オレチャマ、わかったっチャ! オマエも子分にしてやる、三人でモガの村に行くっチャ!」 「だ、そうだ。俺としても前後の事情を正確に知りたいしな。仕事はその後考えらぁ……いいか? 遥斗」  遥斗は足元で飛び跳ねる奇面族の戦士と、ウィルとを交互に振り返って頷いた。  それから最後に、もう一度洞窟の奥へと目を凝らす。海と繋がっているという湖面にはさざなみが寄せて、例の硝子の柩が波に洗われていた。そのどこかこの世の物ではない華美な輝きは、その中にエルグリーズを閉じ込めていたかと思うと神秘を感じさせずにはいられなかった。