タンジアの港から大灯台を望む蒼海は、今日も静かに凪いでいた。  その海の名は、厄海。  遥か太古の昔、この海は紅蓮の業火に沸騰したと伝えられている。人がまだその叡智をもって世を支配し、龍をも従え竜を生み出していた神代の時代。それも今は大灯台に見守られ、僅かな痕跡を海底に残すのみだった。  活気に溢れるタンジアの港で、その絶景を眺めてオルカは親友を待つ。 「オルカ様! 申し訳ありません、少し遅れてしまいました」 「おうオルカ、久しぶりだなあ。元気そうじゃなねえか。ええ?」  懐かしい声に振り返ったオルカは、久方ぶりに再会する知己に顔を綻ばせる。背の高い流麗な美丈夫はアズラエル、その横で杖を突くのはキヨノブだ。二人はオルカにとって、共にユクモ村で苦楽を共にした竹馬の友。なにものにも代えがたい絆で結ばれた仲間だった。  三人は三者三様に喜びの笑顔で再会を祝い、互いの息災を確認し合う。 「アズさん、キヨさんも。お久しぶりです。お元気そうで。ドンドルマの暮らしはどうですか?」 「それがよ、オルカ。どうもこうもねえのよ、ありゃ酷い街だぜ」 「月に一度は古龍に襲われ、ハンター達には厳格な上下があり、大老殿なる組織が幅を利かせています」  相変わらず全身の身振り手振りで近況を語るキヨノブに、静かにアズラエルの声が追従する。その穏やかな澄んだ声音が、また以前よりもどこか安らいでいる気がして、オルカも自然と笑顔になった。  以前はどこか、礼儀正しくもよそよそしかったアズラエル。それが今、心からの笑顔で微笑んでいる。 「なるほど、ノエルの言ってた通りか。あ、アウラさんにはお会いしました?」 「ああ、ノジコちゃんも来てたぜ? 忙しいみてえだなあ、古流観測所は」  西シュレイド王国の中にあって異彩を放つ城塞都市、ドンドルマ。古龍の迎撃を前提とした山城のようなこの街は、古くから自治権を得て強力な権限で運営されている。交易の要でもあり、あらゆる富と人材、知識が集う場所。あたかもその人々の営みに誘われるかのように、危険な古龍達が大挙して来襲する。だが、人類の最前線でもあるこの街は、一度足りとも古龍の跳梁を許して陥落することはなかった。  そんな街でアズラエルとキヨノブは、シキ国の故郷との連絡係を務めている。この時代、国家は既に枠組みの形成を終えて、互いの覇権を競い合っていた。東方の小さな国の、その中のさらに小さな冴津といえど、世界には敏感で備えも万全という訳だ。  モガの島で敏感な国際情勢と隣合わせに生きるオルカにも、そのことは酷く実感が湧く。  だがそれ以前に、この二人にとって互いの他に顔も名も知れぬ異国というのは、暮らしやすいのだ。 「でもよかった。アズさんもキヨさんも、幸せそうだ」 「ええ、とても。実入りもいいですし、生活も安定してます。それに……キヨ様がいてくれますから」 「よせばいいのにこいつ、まだハンター家業続けてんのよ。俺ぁまあ、塾みてぇなことしながらだな」  キヨノブに脇腹を肘で突かれ、アズラエルは気恥ずかしそうにはにかむ。  オルカには不思議と、この壮麗な美青年が同じモンスターハンターをまだ続けていることが嬉しかった。勿論、狩りに対する気構えや思い入れは大きく違う二人だ。だが、同じ狩場で汗を流した者同士だからオルカにはわかる。アズラエルはその身を立てて日々の糧を得るため、これからも狩場へと赴くだろう。彼は北の海に生まれ育った、生粋の狩人なのだから。  そしてアズラエルは、キヨノブが夢見て見果てたその夢を継ぐ者でもある。 「ああ、それはそうとな。オルカ、もうサキネちゃんには会ったか?」 「え? サキネさん、お元気なんですか? って、このタンジアに?」  アズラエルとキヨノブは驚くオルカに互いを見て笑い、そして手を取り合うと歩き出した。二人に促されるまま、混雑する人混みの中を歩くオルカ。三人は自然と酒場へ向かっており、自然と周囲には様々な武具で着飾ったハンター達の姿が行き来する。 「ヌオオオッ、この吾輩としたことがっ! 誰か! 吾輩に金を貸してくれええええ!」 「ったく、都会は騒がしくていかんぜ。なあアズ……お、おい、アズ。はは、しょうがねえなあ」  ふと足を止めたアズラエルは、どこか他人という気がしない一人の男に財布を開いていた。物乞いの類にしては立派な防具を身に着けているし、その肉体は鍛えられて精悍さを感じさせる。なのに、情けなくもぺこぺこと頭を下げながら、その男はアズラエルから金を受け取っていた。  そんなアズラエルを見守るキヨノブの目は、口とは裏腹に優しく穏やかだ。 「うまくいってるんですね、アズさんとは」 「ああ。だからまあ、最近落ち着いたしよ。その……サキネちゃんと同じさ」 「と、いうと」 「まあ、旅行にくらい連れてってやらないとな。俺が出歩きたいってのもあるけどよ」  世間では連れ添う伴侶を得た時には、旅行に出かけるという風習がある。オルカは自然と二人の幸せを実感し、戻ってきたアズラエルが不思議そうに見詰める中で微笑んだ。 「しかしあの男、どっかで見たことあんだよなあ……なあ、アズ」 「以前は西シュレイドの方で訓練所を開いていたそうです。おや……キヨ様、オルカ様も。見つけました」  人一倍目のいいアズラエルは、群集でごった返す中で酒場の方を指さす。その先、まだよく見えない人垣の向こうに、どうやらお目当ての人物はいるようだ。 「私は料理を調達して参ります。オルカ様、キヨ様をお願いできますでしょうか」 「ああ、うん。じゃあキヨさん、行こうか」 「アズ、たまには贅沢しようぜ! 飯も酒も、一番いいやつを頼む」  アズラエルは雑多な匂いで満たされ食欲を刺激してくる、カウンターと厨房の方へと歩いていった。その背を見送り、オルカは足の悪いキヨノブに歩調を合わせて歩く。するとすぐ、聞き馴染んだ声が嫌でも耳に入ってきた。それはとても優雅で華美な響きなのに、がっかりする程に残念過ぎる言の葉を紡いで楽しげだ。  オルカは意外な再会をしかし、とても嬉しく思う。 「さあチヨ、アーンするのだ。たんと食べて精を付けねば」 「サキネさん、一人で食べれますれば」 「む、それはいかんぞチヨ。私は勉強したのだ。新婚とはな、こうして与え合うものなのだ。さあ」 「は、恥ずかしいです、サキネさん。……それにしても、注文し過ぎではないでしょうか」 「なにを言う、しっかり食べなければ駄目だ。今夜は子作りに励むのだからな! ハッハッハ」  相変わらずのノリにやれやれと肩を竦めつつ、お目当ての人物のテーブルへと辿り着く。  ユクモ村での仲間、サキネは元気な姿で料理に囲まれていた。その隣では、チヨマルが小さくなってあれこれと世話を焼かれている。どうやらオルカとキヨノブには気付いていない様子で、目も当てられないほどに甘ったるい雰囲気を発散していた。……主にサキネがチヨマルを甘やかしているようだった。 「どんどん食べろ、チヨ。ふふ、今夜は寝かせぬからな」 「サキネさん、あの……あ、皆さん。お久しぶりです」 「や、やあ……その、ええと……邪魔、だったかな」  ようやくチヨマルが気付いてくれて、いたたまれない気持ちでいっぱいだったオルカがおずおずと挨拶をする。にやにやと笑うキヨノブもそれにならうと、サキネは「おおう!?」と目を白黒させて驚いた。 「オルカではないか! それにキヨノブも……息災か? 元気そうだな」 「それ、こっちの台詞なんですけど。でもよかった、お二人は」 「うむ、私はチヨを婿に貰ったのだ。チヨは身体が弱いが大丈夫、私が立派な子を産んでみせる!」 「は、はあ……張り切るのはいいですけどね、サキネさん。そゆことは大きな声では」  周囲の客達の視線が先程から痛い。それでなくてもサキネは、その竜人特有の優れた容姿が目を引くのだ。その見目麗しい美人が先程から、あけすけなく夜の私生活をビシバシと叫んでいる。  こういう類の人に共通する特徴なのかと、オルカはふとモガの森の魔女を思い出した。 「そう言えばサキネさん。サキネさんと同じ竜人? の方に会いましたよ。同じ一族ですか?」 「ほう? まあ、里から婿や嫁を求めて大勢の者が旅立ったからな」 「こう、真っ赤な髪に真っ赤な瞳で。サキネさんみたいに肌が白くて……その、身体的特徴が全く一緒で」  その言葉を聞いた瞬間、サキネは表情を凍らせて箸を落とした。絶句してしまった彼女を、隣で不思議そうにチヨマルが見上げている。オルカだって驚いてしまって、キヨノブと顔を見合わせるしかない。なにも珍しいことではないと、当のサキネ自身が自分の部族のことを語ったばかりなのに。  だが、サキネは腕組み考えながらも重々しく口を開く。 「里にそのような者はいない。全員黒髪だ。……伝承にある御使か?」  不意に厳かな口調で、サキネは語り出した。  ――その者、雄ながら男にあらず、雌ながら女にあらず。其は御使、破滅の裁定者。朱髪緋眼が紅蓮に燃える時、光炎の龍帝は厄海に蘇る。  サキネは最後に「里に伝わる古い伝承だ」と言葉を切った。  聞き心地のいいサキネの声に、オルカ達も周囲の客達も黙ってしまう。だが、最初に声を取り戻したのは意外な人物でした。 「随分と恐ろしい言い伝えですね。お料理とお酒をお持ちしました」 「お、おう……サンキュな、アズ。ま、まああれだ、積もる話は食いながら話そうぜ!」  わたわたとキヨノブがテーブルにつき、チヨマルも少し身をずらしてオルカを隣に招き入れる。酒場の雰囲気は全てを思い出したように、音楽が再開されて喧騒を取り戻した。だが、オルカの胸中には嫌な予感が黒い霧となって満ちる。 「そう言えばオルカ、最近の調子はどうだ? ええ? バリバリ狩ってるか?」  努めて平静を装い、先程の不吉な言葉を忘れようと笑うキヨノブ。語った当の本人であるサキネですら、それが迷信であるかのようにうんうん頷く。どこの集落にもある古い言葉で、ひょっとしたら歴史の彼方に忘却された古の時代のものかもしれない。だが、それが未来への予言だと思うには、少し勇気も根拠も足りない気がした。 「ええ、モガの村で働いてます。毎日忙しくて、今日も買い出しの次いでに……あ」  そこでオルカは思い出して、ポーチの中から一枚の紙切れを取り出す。そこには、村の仲間であるノエルやルーン達から頼まれた買い物が書かれていた。友との再会で忘れていたが、行商の老婆に品切れを言い渡された品があり、その補充のアテを探さねばならないのだ。 「しまった、うっかりしてたぞ。さてどうするか……」 「ちょっと失礼。ああ、ケルビの角ですね。いにしえの秘薬の調合に使う。……お手伝いしましょうか」  オルカから紙片を取り上げたアズラエルは、それを一瞥して立ち上がった。それは悪いとオルカも立って手を伸べるが、メモを返してくるアズラエルはいつもの穏やかな微笑で応える。そして、先程から精力料理攻めにあってるチヨマルも気を利かしてくれる。 「サキネさん、オルカさんがお困りの様子。よければお力添えを」 「ん? ああ、かわいい婿が言うのならしょうがないな。オルカ、私達に任せろ。当分この街にいるからな」 「二人で空いた時間に調達しておきましょう。私も少し運動をしないと……キヨ様、いいでしょうか」  頷くキヨノブの許可をとって、アズラエルはサキネと打ち合わせをし始めた。二人にとってはケルビの角の採集など容易な話で、だからこそ少し申し訳ないきもする。だが、損得を考えずに気持よく力を貸してくれる仲間がとても嬉しい。 「俺も足がよけりゃ一緒に行くんだけどな。まあ、みんなお前が好きなのさ、オルカ」  豪快に笑って酒をあおるキヨノブの、その一言がとてもありがたかった。  自然と思惟から、先程の不吉な暗示めいた言葉は薄れて消えていった。