オルカを包む空気が引き剥がされた。  変わって身を圧するのは、入り乱れる水流と水圧。  オルカは武器を突き立てたまま、ラギアクルスの背に必死でしがみ付く。彼を載せたまま、血の航跡を長々と海に滲ませ、巨大な海竜は巣穴へと泳いでいた。追い込んだというには、あまりにもハンターに余裕はない。怒りに身を帯電させながら、ラギアクルスは深く深く深淵へとオルカをいざなう。 「くっ、これ以上は……ぷあっ! はぁ、はぁ……こ、ここは」  血中の酸素濃度がゼロへと近付き、網膜が映す瞼の裏側が桃色に染まりかけた頃。オルカの全身をくまなく覆っていた海水が、瞬時に流れ落ちてゆく。変わって肺腑へと雪崩れ込んできた空気に、オルカはむせながらも大きく息をついた。  その瞬間、振り落とされて周囲を見渡す。  大の字に動けない身で、辛うじて首だけを巡らせる。 「な、なるほど……ここが、お前の玉座、か……」  点々と居座るルドロス達を追い散らして、開けた洞窟の奥でラギアクルスが身を翻す。激怒に煮えたぎる巨大な双眸は今、ゆっくりと起き上がるオルカ本人の姿を赤々と映していた。あまりにもちっぽけで脆弱な、ただ独りきりのモンスターハンター。だが、オルカは自分でも信じられない光景を見て、自然と口元に笑みが浮かんだ。  ラギアクルスの瞳の中に、満身創痍の男が立ち上がっている。  よろけて肩で大きく息をしながら、その男はスラッシュアクスを構え出した。  それは、自分だ。オルカ自身だ。 「俺は、馬鹿か……馬鹿だったみたいだ。こんな……まだ、諦めてはいない!」  大馬鹿者だと思う。愚かな行為だという自覚もある。追い込んだのではない、逃げ込まれたのだ。絶対的な地の利がある、ラギアクルスの巣窟に。この狭い密閉された空間では、逃げ場もなく周囲は岩盤が圧してくる。思うように動けぬまま、あの巨体で暴れられれば回避も危うい。  それでも、いや、だからこそ……  退路を失い逃げ場を無くすことで、逆にオルカの胸中は穏やかに澄んでいった。  即ち、狩るか狩られるか……全てを廃した大自然の摂理が、一人と一匹を最後の戦いへと駆り立てる。 「あとは……ブチ当たるのみ、か。……ん? これは」  武器を握る手にも力が篭るが、冷たい海水につかってかじかむ手は痺れる。ベリオロス亜種、風牙竜の甲殻と毛皮を編み込んだ防具も、ところどころほつれて破れ、傷みも激しい。既に防備の用をなさぬそれを脱ぎながら、オルカは利き手の親指が当たる感触の変化に驚きを拾った。  変形レバーは今、押し当てる指を固く押し返してくる。  内部で沈黙を保ったまま眠っていたビンに、現代の工房の技術では解明できぬ"何か"が圧縮された。それが今、気化した撃薬となって内側の刃を研ぎ澄ましているのだ。複雑な変形機構、一般に流通するディーブレイクとは細部を異にする愛斧は、その中に不思議な刀身を隠している。 「っと、今はソルブレイカーだった……一応、工房でのカタログ上は」  すぅ、と大きく息を吸えば、五臓六腑に氣が満ちる。一度は留めたその呼気を、今度は長く長くゆっくりとオルカは吐き出した。はぁー、と煙る白い息が、寒く凍えるようなこの洞穴に溶け消える。そうして最後の闘気を凝縮させたオルカを、ラギアクルスは黙って待っていた。  そしてオルカは、裂帛の意思と共に力強く変形レバーを刀身へと捩じ込む。  内部のビンに圧縮されたソレは、撃発して眩い燐光を放ちながら輝く刃を展開させた。 「この一撃に、賭けるっ! 動けよ、俺の手足っ」  両手で振り上げ引き絞る武器は、持ち手から先が白熱に煌めく光の剣。やすやすと人一人を天高く舞い上げ、飛翔天駆の力をさえ与えうる太古の輝きだ。ともすれば保持するオルカをさえ、吹き飛ばさん勢いで猛り狂うイカズチノツルギ。  対するラギアクルスもまた、周囲に青白くスパークする雷光を纏って吠え荒んだ。  地を蹴るオルカの周囲に、ラギアクルスのブレスが雷柱となって屹立する。  轟音と烈火の中を、右に左にと転げて這いずりながらもオルカは進んだ。  一歩でも、一ミリでも、前へ……その手にかざした光を灯火に、握る刃を突き立てるために。 「おおおおおっ! ――海竜ラギアクルスッ! 勝負!」  迫るラギアクルスが、周囲を巨体で囲んでぐるりと身を蛇に巻き付いてくる。その敵意と害意の奔流の中、渦巻く竜の中心でオルカは翔んだ。全身の筋肉をバネに跳んだ身体を、ソルブレイカーから迸る光の濁流が押し上げる。重力に逆らい天へと飛翔する彗星の如く、オルカは身を翻すや、水晶の生えた天井へと着地。そのまま反転、真っ逆さまにラギアクルスの脳天へと舞い降りた。  絶叫を張り上げるラギアクルスの目が見開かれて、真っ赤な血飛沫がオルカを覆った。  吹き上げる真紅の間欠泉の中で、オルカは突き立てるソルブレイカーを全力で押し込む。 「オルカッ! ……くっ、この距離! あたしの腕でもオルカに当たるっ!」 「待ってください、ノエルさん。ラギアクルスは、もう……」  少女の声が続いて響き、水面に顔を出した仲間達の表情が視界の片隅に走った。  だが、無我夢中で歯を食い縛るオルカは、修羅の形相で光の剣へ全体重をかける。 「オルカ、オルカッ! もういい、もう終わってる! ラギアクルスは」 「はぁ、はぁ……はああっ! ノエル、罠を! これで駄目なら捕獲を……ノエル?」 「もう、死んでるよ! 倒したんだよ、オルカ……これ以上は、駄目だ」  ラギアクルスは、額にオルカの乾坤一擲の一撃を受けた、そのままの姿勢で絶命していた。  あたかも、天から降り注ぐ星の一滴を喰むように、首を伸ばして顎門を開いたまま。巨躯をとぐろに巻いて渦を型取り、その中心に落ちてきたオルカを包み込むように絶命している。オルカは、転げるようによじ登ってきて自分を引っぺがすノエルに気付いて、初めてその手から剣を離した。  集束する光は徐々に弱くなり、やがてバシュン! と白煙と蒸気を吹き出しながら狩斧へと変形、姿を元に戻した。  終わったという実感もなく、ノエルの言葉を脳裏に反芻するオルカの手から、ソルブレイカーが力なく転がる。 「あたしが外でギルドに信号を……ノエルさん、あとをお願いします」  流石のアニエスも脱力したが、最初に冷静さを取り戻して海へと飛び込む。その姿が海底を経由して外へ消えると、オルカはその場にへたり込んだ。 「終わった……? 俺は」 「勝ったんだよ、オルカ……ああもうっ、こんなに汚れて! べっとりだし、ほらっ!」  ドス黒い血に汚れたオルカの頬を、ノエルが手ぬぐいでゴシゴシとこすってくれる。その感触すらどこか空虚で、実感ができない。極度の緊張を通り越し、限界を超えた境地へと飛び込んだオルカ。ぼんやりとノエルを見る目は視界が霞んで滲み、ぼやけて揺れる。けだるい身体に力は入らず、ぷっつりと糸が切れたようにその身は動かなかった。 「……俺は、勝った、のか……? そうだ、エルや遥斗は。ヤッシーさん達は」 「みんな無事だよ。と言いたいとこだけどね、エルがちょっとヤバいかな」  聞けば、エルグリーズがリタイヤしてオルカが行方不明になったので、ノエルとアニエスが入って四人で捜索を続けていたらしい。海へと逃げるラギアクルスの前に無防備に飛び出したエルグリーズは、そのまま跳ね飛ばされて重傷とのことだ。  おぼろげな記憶はぼんやりとして、まだ働かない頭の中に恣意は上手く紡げず霧散する。  それでもオルカは、突然人が変わったように躍り出たエルグリーズのことを思い出した。 「そういえば、なんか変なことを口走ってた。エルは大丈夫だろうか……」 「まー、鍛え方が違うから。それにしても、なんでまたあんな馬鹿を」 「妙なことを言ってた。三獄の星龍とか、深淵の海皇とか」 「なにそれ? あたしも聞いたことないな、そんな名前」  ノエルは首を傾げながらも、オルカが伸べる手を振り払って返り血を吹いてくれる。気恥ずかしい反面、指一本動かすのも億劫な疲労困憊で、ついつい甘えてしまうオルカ。  だが、彼は思い出したように立ち上がろうとして、ストンとその場に崩れ落ちた。 「はは……やばいな、身体がイッちゃってる。立てないや」 「無理しないでじっとしてなって! オルカだけフルで最初から最後までこいつと戦ったんだ、だから」 「うん。でも、だから、だよ。だからこそ俺は、モンスターハンターとしてしなきゃいけないことがある」  その言葉にオルカの意思を悟ったのか、大きな溜息で「やれやれ」と肩をすくめたノエル。彼女はオルカの脇に頭をくぐらせ肩を貸すと、ふらふらの身を立ち上がらせた。 「……剥ぎ取らなきゃね。これはオルカの獲物だから」 「うん。恐ろしい相手だった……でも、これでモガの村は救われる」  オルカの手は痺れて震え、もはや握力が残ってはいない。しかし、それでも剥ぎ取りナイフを手に取ろうとする彼を、ノエルが手伝ってくれる。白く綺麗な手が添えられて、なんとかオルカは刃をラギアクルスの甲殻と鱗に突き立てる。  そのまま屈んで、オルカは宝石のような深い蒼をじっと見下ろした。  つい先程まで、この近海を統べた王の肉体。自分が殺めて生命を奪った、その抜け殻。畏怖と畏敬の念を禁じ得ない、最強の敵。そして、共にこの海に、モガの島に生きる生命。だったもの。オルカはそっと手で甲殻を撫でて、揃った鱗へと指を這わせる。  徐々に冷たくなってゆく中に、竜は生きた証を確かに閉じ込め残していた。 「ったく、結構いい根性してるよね。最後までモンスターハンターなんだから。剥げた? ねね、オルカ……オルカ?」  海と空とを凝縮したような蒼が、視界いっぱいに広がってゆく。広がってゆくのに、蒼で満たされたオルカの意識は徐々に閉じていった。ぐらりと揺れた世界が暗転した時には、ノエルの声も遠くへ反響して遠ざかる。  オルカはそのまま、疲労からくる深い眠りへと落ち込んでいった。