その日、朝から嵐で海は荒れていた。  空を低く這う雲は黒く疾く、東の彼方へと吸い込まれてゆく。連なる波濤は高々と波打ち、沖へと漕ぎだした遥斗達の船を強烈な縦揺れで転覆へと誘った。。さながら大海に浮かぶ木の葉にも似て、舳先を下手に動かせば飲み込まれてしまう。だが、北海育ちの青年には、こんな嵐の海も凪いで見えるのだろうか。 「遥斗様、予定海域に到着しました」  オルカの紹介でタンジアの港から乗り込んだハンター、アズラエルは無口で寡黙だった。その声を吠え荒ぶ雨風の中で、遥斗は初めて聞いたように思う。今もアズラエルは舵輪を握って、巧みに船を操り沈没の憂き目から遥斗達を救い続けていた。  だが、その白い鉄面皮にも少しだけ焦りの色が入り混じる。 「ありがとうございます、アズラエルさん。ここから潜ります」  うねる荒波は容赦なく船を洗い、その甲板に立つ遥斗達は水浸しだ。  それでも遥斗は、用意してきた増息薬を確かめ、手早く荷物をまとめる。今日の彼は防具こそ着込んでいるものの、背に太刀を背負っていない。変わって取り出したのは、大きな大きなガラスの瓶だ。そしてその中に、神秘的な輝きを放つ物体が浮かんでいる。 「……これですか。大海龍ナバルデウスに反応する物質とは」 「ええ。鉄騎の方達の手で、その効果は実証済みです。これでナバルデウスを釣ってみせます」  遥斗は特注の瓶を両手で持ち上げ、その中身をアズラエルと覗き込む。薬液が満たされた中に、ほのかに明滅する光が封じ込められていた。この物体を今の科学力は、無機物なのか有機物なのかも断定できない。そもそも、どうして発光するのかすら解明されていないのだ。質量不明、原理も由来も不明……だが、ただひとつはっきりとしていることがある。  この発光体は、ナバルデウスを強く強く惹きつけるのだ。 「大丈夫ですか? 遥斗様」 「は、はは……やっぱり不安ですよね。僕なんかでは」  遥斗の手は震えていた。誰もがその身に秘めた病魔が症状を表したのだ。  ――臆病。  その病はじわじわと身体に伝搬して、自由を奪い、絶望を誘発する。勇気という名の抗体を持つ者も多いが、神秘の塊である古龍を前にあまりに心もとない。遥斗は震える右手を左手で握って、収まらぬ微動に眉をしかめた。全身に広がる悪寒に、痺れるような震えが止まらない。  だが、そんな遥斗の手をそっとアズラエルは握る。 「……慣れないことをするので、どうか許して欲しいのです」 「ア、アズラエルさん?」 「オルカ様から頼まれているのもあります。それもあるのですが――」  長身のアズラエルを見上げて、その澄んだ瞳が自分を真っ直ぐ見つめているのに気づく遥斗。どこか幻想的な、物語に出てくる妖精のような雰囲気さえ漂う美丈夫が今、感情に乏しい表情をぎこちなく歪めている。  微笑んでいるのだと気付いた時には、躊躇いがちな声が響く。  豪風の最中、遥斗の耳にははっきりとアズラエルの言葉が伝わった。 「こんなことをしていい立場でも身分でもありませんが。遥斗様、どうかお気をつけて」 「……はい。アズラエルさんも。まだまだ海は荒れます。僕は、僕達は……潜ってしまえば平気ですから」  少し安心したのか、気付けば手の震えは止まっていた。不思議なもので、全く異質の雰囲気を持っているのに、このアズラエルという青年からはオルカと同じ匂いがする。絶対の信頼感と、疑いようもない共感。凄腕ハンターだとしか聞かされていないが、遥斗にはアズラエルの人柄がわかったような気がするのだ。  気がするだけで今は充分だと、気合を入れて大きな瓶を背負う。  戻ったら、自分が感じた気持ちを確かめてみればいいのだ。そのためにも今は、与えられた仕事をこなして狩りに貢献し、必勝を期して恐るべき古龍に挑む。 「よし、エル! 行こう! 僕達でナバルデウスを……エル?」 「……お連れの方は、様子が。船酔いでしょうか」  横殴りの雨の中、遥斗は揺れる船の舳先へと目を凝らす。上下左右に激しく動く中、真っ赤な髪を風に逆巻き、エルグリーズは海を見詰めていた。微動だにせず、真っ直ぐ見詰める一点が海面隆起に膨れ上がる。  確かに鉄騎の持ち込んだ瓶の中身は、効果があると知れた。  進む先に今、荒れ狂う波間を押しのけて巨大な白鯨の如き姿が屹立する。 「アズラエルさん、転舵をっ! 急いで離脱してください!」 「これが大海龍ナバルデウス。……ジエン・モーランよりも、大きい」  帆走を諦めたマストに帆は畳まれて久しく、この嵐で舵は思うように効かない。それでもアズラエルは舵輪にかじりつくと、僅かに顔を苦悶に歪めて、ゆっくりと面舵に身を傾ける。ギシギシと船体を軋ませ、ナバルデウスの鼻先で船は転進した。  その時、遥斗は見る……防具を脱ぎ捨てたエルグリーズの裸体が、ほのかに光り始めるのを。  そして、低くくぐもるあの声が響き渡る。 「三獄の星龍、深淵の海皇よ……彼の地を目指して、疾く疾く馳せよ!」  両手を広げるエルグリーズから発せられる声に、咆哮でナバルデウスが呼応する。この嵐の中、その雄叫びは空気を掻き乱してにらがせた。耳を手で塞ぎながらも、遥斗は舳先へと走る。波に足を取られ海にさらわれそうになりながらも、彼はなんとか細く白い手首を掴んだ。  だが、振り返る顔はいつもの人懐っこい笑みではなかった。 「エル! まただ、エル……どうしたんだ、いったい。エルグリーズ、君は!」 「……人の子、哀しき定命の者よ。その生命を燃やして摂理に挑むがいい。絶望を持って応えよう」 「お前は……エルじゃ、ない? いったい……お前は、誰だっ!」 「我は御使、破滅の裁定者。光炎の魔女にして、煉嶽の焔帝に仕える巫女なり」  低くくぐもる声に、思わず遥斗は冷たい炎を見詰めて沈黙する。  だが、冷徹に表情を凍らせたエルグリーズは、次の瞬間には幼子のように泣き出した。 「遥斗、エルの中に誰かいます! とっても暗くて冷たくて……エルがエルでないんです!」  頭を抱ええて背を丸めるエルグリーズの、その灼髪が天を衝いた。吠えるナバルデウスが迫る中、エルグリーズの長髪が燃え上がる炎となって逆巻く。そして再び背を逸らしたエルグリーズは、遥斗の知っている無邪気で無垢な姿ではない。 「シークモード、セッティングリコール……機能凍結。……かりそめの子よ、我の中に消えよ」 「エルに何をした!」  だが、ぼんやりと光るエルグリーズの裸体は、嵐の中でふわりと浮かび上がる。吹き荒ぶ風も荒れ狂う波も、たたきつけるような雨さえも彼女を避けて周囲に渦を巻いた。  そしてエルグリーズは、斬り裂くような視線で遥斗を引き剥がすと……ナバルデウスの眼前へと吸い込まれる。 「深淵の海皇よ。古き盟約に従い、失われた塔を守護せよ」  そのままエルグリーズを伴い、巨躯をもたげたナバルデウスが大質量を海へと叩きつける。溢れる波に洗われながらも、傾く船をアズラエルは必死に操った。ナバルデウスの巨体が押し上げた局所的な津波に抗い、その船体はどうにか転舵反転に走り出した。  そして遥斗は、装備品を改めて確認すると波間へ身を躍らせる。 「遥斗様! お気をつけて! タンジアの港でまた会いましょう。いえ、会いに行きます。モガの村へ」  アズラエルの声を引き剥がして、冷たい海水が遥斗を包んで海底へと引きずり込む。  荒れた海面とは裏腹に、海の底は静かに凪いでいた。  そして今、眼前にエルグリーズが従える巨大なナバルデウスの姿がある。 「エル……どうしてしまったんだ。でも、一つだけはっきりしていることがある」  背中の瓶に詰められた神秘の発光体を確認し、ポーチから取り出した増息薬を飲み込む。同時に遥斗は、手早くコンパスで方位を確認して泳ぎ出した。その背にほのかな光を感じたのか、ナバルデウスが追いすがる声を背中に聞いた。  必死で泳がなければ追いつかれる、遥斗は全身の筋肉に鞭打って全力で古塔を目指した。  その耳に……否、頭の中に直接響くあの声。 「摂理に逆らう愚者よ。汝等に塔は渡さない。あれはもはや人の手を離れたのだ……」  エルグリーズの言葉は遥斗には半分も理解できない。だが、一つだけ理解を通り越して真っ直ぐに確信できることがある。それは、遥斗の大切な人が奪われたということ。訳の分からぬ理不尽と不条理が、天真爛漫な少女を消し去ってしまった。そしてその悪意は今、ナバルデウスを先導して煽りながら、遥斗の背に追いすがってくる。  全ては、モガの島の下に海底へと続く、巨大な古塔のために。 「エル……今は君のことを忘れる! モガの村との、仲間達との約束を守らなければ」  それでも遥斗は、心の中に強く決意する。  再び海の底から浮かび上がる時、空を仰いで胸いっぱいに空気を吸い込む時は……絶対に隣にエルグリーズを取り戻すと。  そして泳ぐ先に異変を感じて、遥斗は蹴り足を強く身を押し出す。 「あれは……モガの島が、その根本が……光っている」  暗黒にも似た無限の蒼で広がる海の、その向こうが眩く光っている。  遥斗の眼にもはっきりと、モガの島を頂き遥か海溝の闇に吸い込まれる、巨大な塔が見えた。妖しげな煌きでその輪郭を浮かび上がらせる。まるでナバルデウスを誘うように胎動して、その振動に海流が乱れ始めた。  古塔は数万年の眠りから今、再び目覚めようとしているのか――? 「滅びの夜明けを歌おう。終わりの始まりを奏でよう……さあ、終末の刻はきたれり!」  額の奥に響く声が、陶酔したようにうっそりと叫ぶ。  だが、その声を振り払うように遥斗は泳いだ。徐々に水圧に慣れてゆく身体で、ゆっくりと深度を深めてゆく。そうしてナバルデウスを連れながら、遥斗は塔の基部がある海溝の底へと潜っていった。