生命が生まれて還る深淵は、どこまでも深く暗く広がる。深海へと潜る遥斗の身体を、水圧は容赦なく締めあげてきた。だが、増息薬には急激な潜水を補佐する効能もある。そのことが遥斗の命を繋ぎ止め、背後に迫る大海龍から逃し続けていた。  海溝へと潜ってゆく遥斗の目は、仄暗い海底洞窟の入り口を見つける。 「ウィル達がいてくれる……あそこへ誘い込む!」  必死で泳ぐ遥斗の手足が、徐々に痺れて感覚を喪失してゆく。それでもなお、強く水を蹴って手で掻き分けて、遥斗は古塔へ続く水の回廊に飛び込んだ。間をおかず、背後で大質量が岩盤にぶつかりながら追いすがる。モガの島をずっと苛んでいた地震の元凶は、やはり大海龍ナバルデウス。その巨躯は古塔を探して守り、近海を徘徊してモガの村を揺すっていたのだ。  泳ぎ疲れてなお手足を動かす遥斗の前に、頼もしい仲間が待っていた。 「よぉ遥斗……上出来じゃねえか。よくやった、お前はもう一人前だな」 「ウィル!」 「こないだは悪かったな。後で一杯おごらせろや。さて……アニエスちゃん、行こうぜ!」  へろへろの遥斗へと、二人の仲間が武器を構えるや近付いてくる。左右を抜けてすれ違う二人は、ポンとねぎらうように遥斗の肩を叩いた。ウィルの合図でアニエスも槍を手に、盾を付き出して前衛に踊り出る。 「この洞窟の長さを使って、少しずつ下がりながら迎撃します! 倒すことは今、忘れましょう」 「撃退狙いね、いいぜ? でもよ……モガの村が古塔の上にある限り、こいつはブッ倒さなきゃなんねえ!」  ウィルの身に気迫が満ちて、周囲を包む海水さえ闘気に泡を立て始める。鬼人化に燃えるウィルとは対照的に、盾を構えてファランクスに固まるアニエスは氷のような冷静さで頷いた。  そして、この場で遥斗の努力を引き継いでくれるのは、二人のハンターだけではない。 「その意気ッチャ、それでこそオレチャマの子分! 素敵に無敵なお面が今、ブレイブ漲るッチャ!」  奇面族の頼もしい仲間が、見慣れぬお面をかぶって二人の間で泳いでいた。あれはそう、確かモガの村の祠に安置されていた古いお面だ。どうやら、村長の許可を得て持ってきたようだ。どういう原理なのか、威厳に溢れたその神像のような顔から、空気が泡と溢れている。あれならば、増息薬の効果が切れた瞬間の息継ぎも、次の増息薬を飲む余裕も得られるだろう。  だが、低くくぐもるような声が戦慄となってナバルデウスから響く。 「……局地用海戦ユニットを発掘したか、人の子よ。そう、嘗て我等は戦った。竜を操り機兵を束ねた者達と」  狭い海底回廊内を完全に塞ぎながら、悠々と泳ぎくるナバルデウスの頭部に人影。それは、変貌してしまったエルグリーズだ。その真っ白な裸体が、炎となって燃えて逆巻く灼髪の照り返しで光って見える。  キリリと表情を引き締めたウィルが、その真剣な顔のままで鼻の穴をプクプクと動かした。 「遥斗さん、あれは」 「またなんです、アニエスさん! エルが、また……まるでそう、何かに取り憑かれているみたい」 「の、ようですね。正しくあれは、魔女の名にふさわしい……あたしは今、率直に言って怖いです」  エルがエルじゃないみたい……そう呟くアニエスの顔がこわばっている。長らくモガの村のハンター、名スィーパーとして活躍してきた彼女にとって、モガの森の魔女はとても親しい存在。時々村に来て、自分やルーンの納品依頼をこなして鉱石やキノコを取ってきてくれる。酒場では浴びるほど飲んでモリモリ食べるし、子供達と真剣に鬼ごっこやかくれんぼをしてるのも見た。  エルグリーズは、モガの森の魔女は、確かにあの小さな村の一員だったのだ。  それをアニエスと頷き合ってウィルを見ると、彼もまた小さく唸って、 「ありゃ、やっぱFカップだな……上から98、62、90ってとこか」 「ウ、ウィル?」 「みなまで言うなよ、遥斗。くそぅ、いい身体しやがって。その上っ、立派なモノおったてやがって!」 「あ、あのー、ウィルさん?」  緊張感を解いたウィルの、まさかの声にアニエスが脱力した。そんな彼女に振り向いてしかし、ウィルはニカリと笑う。これがまた、妙に清々しい笑いで、遥斗は苦笑を禁じ得ない。 「アニエスちゃん、グラマーなのもいいけどな。大丈夫だ、貧乳もステータス、俺は好きだぜ?」 「フンッ、ありがとーございますー! ……気にしてるのにぃ」  顔を赤らめつつ咳払いして、迫るナバルデウスへと改めてアニエスは向き直った。  ウィルも次の瞬間には、覇気に満ちた狩人の表情を取り戻す。 「遥斗、お前は奥へと迎え! そこでオルカが待ってる……行けぇ!」 「ここであたし達が、できる限りの攻撃でナバルデウスを削ります!」  アニエスが身を真っ直ぐに槍を付き出し、蹴り足を強く突進に泳ぎ出す。その渦巻く航跡を追って、ウィルも力強く水を蹴った。  二人のハンターはしかし、肉薄したナバルデウスと比べれば、巨像に群がる蟻にも等しい。  だが、後ろ髪を引かれながらも泳ぐ遥斗は知っている。  二人はモンスターハンター、蜂の一刺にも似た必殺の力を秘めているのだ。 「おい、子分の子分! ちょっと待つッチャ!」 「っと、う、うん。どうしたの、チャチャ。……僕にも、もう少し手伝えることがあるんだね?」 「察しがいい奴はオレチャマ大好きッチャ。付いてくるッチャ!」  小さな身体でわきわきと、新しいお面に泡を飾ってチャチャが泳ぐ。海底を目指すその姿を追う遥斗は、背中でナバルデウスの咆哮を聞いた。全身がこわばり竦んで、泡立つ肌が海水の冷たさを増幅させてしまう。正しく、この海淵の世界を支配する海の皇……深淵の玉座から無力な人間達を睥睨する、神にも等しい古龍。 「無駄な足掻きはやめよ、人間……汝等は遥かな太古の昔と同様、またしても無駄な抵抗を」 「うるせえ! エルの身体で喋るのやめな、クソババア。せっかくの眼福が萎えるだろうが」 「貴女が誰か、あたしは問いません。エルを騙って支配する、邪悪な存在! ナバルデウスごと、打ち砕きます!」  ウィルはこの島で水中戦を始めたとは思えぬ動きで、複雑にとぐろを巻きながら狭い回廊内に暴れるナバルデウスに張り付いてゆく。その手に握られた雌雄一対の双剣が、怪しい煌きで翻った。 「……封龍剣! 汝等はそのような物まで発掘していたか。だが、もう封龍士の血は絶えて久しい」 「発掘だ血筋だうるせえんだよ……んなもんは余録だってんだ!」  雄剣が勇気を歌い、雌剣が闘志を奏でた。互いに響き合う剣を手に、ウィルの全身が水中に滅龍交響曲の波紋を広げてゆく。遥斗の目にも、その優雅にして苛烈な死の剣舞が残像を引いて見えた。巨体を利用して上に下にと所狭しに暴れるナバルデウスの、その甲皮を切り裂いてゆく。青く澄んだ重い海水に、血の臭いが混じり始めた。  恐るべきは封龍剣【超絶一門】……そのオリジナルの威力は、大海原の主をやすやすと切り裂いてゆく。  熟練の振るい手の手で今、神代の太古から蘇った神器は輪唱に鳴りやまない。 「恐れるな、怯んではならない……深淵の海皇よ。鎮まれ!」  まるで重力の摂理を無視するかのように、逆さまに漂い身を丸めるナバルデウスの頭部にエルグリーズは立ち続ける。その裸体は今、不遜に背を反らして腕組みに腰を付き出し、ウィルとアニエスを、そしてなにより遥斗を見下していた。あんなに無邪気で愛嬌にあふれていたエルグリーズのゆるい笑みはない。正しく邪悪な魔女としか思えぬ彼女はしかし、股間の茂みから下腹部に反り返る昂ぶりが、粒々と屹立していた。  男でも女でもなく、やはり人間ではないのか……だが、そんなことは遥斗には関係ない。 「おい、子分の子分! これを……持つッチャ! 手伝うッチャ!」  チャチャの声で振り向けば、小さな身体は巨大なタル爆弾にしがみついて脚をばたつかせている。おそらく二人が持ち込んだのだろうそれは、一際強力な大タル爆弾G。一回り大きなタルの中で、通常の爆薬にカクサンデメキンを使ったものだ。その爆発の火力は凄まじく、巻き込まれれば屈強なハンターとて無事ではすまない。 「……よし、僕が! チャチャ、この瓶を持って奥に行ってくれるかい?」 「心得たッチャ! ほかならぬ子分の子分の頼み、しかたないッチャ!」  遥斗は背負った瓶をチャチャに手渡して驚く。ガラスの中で神秘の発光体は、まばゆい光を放っていた。まるでそう、活性化するナバルデウスに呼応するように。チャチャも驚きながら、それを眺めて奇声をあげていた。だが、見とれている余裕はない。すぐに遥斗は自分の身に倍する大タル爆弾Gを背負って、再びナバルデウスへと泳ぎ出す。  上に下に逆さまにと体を入れ替えながら、ナバルデウスは怒り狂っていた。その周囲を器用に泳ぎながら、ウィルとアニエスが戦っている。それでも徐々に、ナバルデウスは奥へ奥へとその巨躯を押し進めていた。この奥では、古塔の中に対古龍用の設備を準備してオルカ達が待っている。待ち構えている……自ら退路を絶った、逃げ場のない最後の狩場に。なら、遥斗はその戦いを少しでも楽にさせてやりたかった。 「ウィル! アニエスさんも! こいつで吹き飛ばしてやります!」  水中でどうにかナバルデウスに取り付くと、這いつくばって水をかき分けながら遥斗はその長駆をよじ登る。甲皮は固くゴツゴツと岩盤のようで、鱗は掴んだ手を切るように鋭い。それでも遥斗は、剛毛の髭をむしるように掴んでしがみつき、なんとか頭部へとたどりつたい。そこに、愛してやまない少女の面影を汚す存在が立っている。 「エルを返せ、いいや……返してもらうぞ!」 「我の中に生じたシークモードは、汝の物ではあるまい。違うかや?」  冷ややかに見下ろすは、絶対零度に凍れる炎。怒髪天に逆立つ神は紅蓮の焔で、そっとエルグリーズを象る魔女はその中へと両手を差し入れる。 「――御徒にして巫女が力をここに。咎赦ス火天ノ両掌!」  燃えてうねる灼髪から、炎そのものを象って唸る双剣が現れた。それを躊躇なく、魔女は遥斗へと振り下ろす。 「遥斗さん、危ないっ! ……エル、駄目だよ。好きな人、なんだよ? 駄目、絶対……そんなの、駄目っ!」  間一髪で割って入った、アニエスの盾が赤熱化して、そして溶けてゆく。恐るべき高温はまるで、大地より噴出したマグマの権化。エルグリーズは容赦なく十字斬りで、あっという間にアニエスの盾を溶かし割ってしまった。  だが、同時にアニエスは巧みな体捌きで槍を翻すと同時に、遥斗の背から爆弾を奪い去る。 「ごめん、ごめんねエル……遥斗も! 今、ためらってる余裕も時間もない。これでっ!」  遥斗に抱きつき沈むと同時に、置き去りにした大タル爆弾Gへとアニエスは槍を投擲する。  平坦なアニエスの胸に抱かれながら、気付けば遥斗は絶叫していた。その姿を見下ろし歪に顔を歪めた魔女が、爆発の光と煙の中に消えてゆく。ナバルデウス自体を飲み込む爆発の連鎖に、洞窟内はビリビリと鳴動した。 「やったか!」 「いえ……ウィル、これ以上は。ナバルデウスが加速を……速いっ!」  だが、煙を振り払って悠々とナバルデウスは泳ぎ出る。その頂きに不遜な笑みで笑う魔女を乗せて。  武器を失ったアニエスの腕の中で、増速して奥へと消えるナバルデウスを遥斗は呆然と見送った。エルグリーズに宿った魔性に、返す言葉もなかった。唇を重ねて体温をわかちあったあの身体が、自分へと武器を向けてきた。ショックにしかし、まだまだだと自分を奮いたたせる。まだ、奥には遥斗の敬愛する兄貴分が、オルカが待ち構えているから。