自分の海に新たな生命を孕んだまま……生まれ来る我が子のため、愛する伴侶のために暗い海へとサキネは潜る。水中での狩猟経験は少なかったが、もともとが身体能力に優れる竜人族である。すぐに火竜の防具は重さを感じさせなくなり、肺腑に留めた呼吸は今も全身の血液を通して循環している。  そして、サキネの泳ぐ先がぼんやりと明るくなってきた。  仄暗い深海から今、周囲の海水を泡立てる黒い太陽が浮上する。  増息薬を呑み込みつつ、サキネは背の大剣を抜刀して身構えた。 「厄海に封じられし太古の災禍……煉嶽の焔帝! ここから先には通さんっ!」  上昇する海水温度の中でサキネは叫ぶ。後に続くハンターはいない……今は、まだ。タンジアの港は流星雨の如き黒炎に焼かれて大混乱で、ベテラン揃いのタンジアハンター達も浮き足立っている。  だが、たとえ一人でもサキネは狩場から逃げはしない。  たとえ一人で赴く死地であっても、胸の内には常に仲間達の言葉と記憶が宿っているから。 『摂理に逆らう人造種の末裔よ。去るがいい! 何人足りとも、最後の星龍を止めることあたわず!』  声が脳裏に走った。  ゆっくりと浮かび上がる巨大な古龍の額に、一人の人影が紅蓮の炎で燃えている。それが炎のように逆巻く緋髪だと気付いた時には、サキネは里の古い伝承を思い出していた。神々しくも邪悪な威厳をたたえた鎧に白い肌を包み、腕組み身をそらした魔女が一人……それは、言い伝えにある御使にも似てサキネを震撼させる。 「何者でもない、この私が止めてみせる。チヨや仲間達のいる場所、この子の生まれてくる場所は守り通す!」 『愚か……僅か百年にも満たぬ寿命故、世代を重ねねばならぬ不完全な存在』 「欠けた場所を補い、他者を求めて結ばれるからこそ私達は生きていると言えるのだ! 御使よ、退け!」 『その営みがこの星を食い潰す……故に、定命種は淘汰されねばならない! この星の明日の為に』  煉嶽の焔帝、その名はグラン・ミラオス。その威容が翼から黒炎を吹き出し全身にマグマをほとばしらせる。四肢を走る光炎の筋が浮かび上がらせるのは、恐るべき最強にして最後の星龍。太陽の光すら届かぬ深海から、恐るべきその巨躯が羽撃たいた。 「くっ、人とてこの星の一部だろうに……タンジアへは行かせないっ!」  即座に海水を蹴り出し、サキネは剣を引き絞って突撃した。  古龍を相手に小細工は不要、閃光玉も音爆弾も効きはしない。ただ、己の武器一つが頼りで、満載した回復薬や秘薬等が命綱だ。しかし勝機を見出し、海面より落涙のごとく降り注ぐ火球を避けてサキネは泳ぐ。その目に迷いはなく、ただ眼前の黒焔龍より尚鮮やかな火が瞳に燃えている。 『足掻きをやめぬか、愚か』 「愚かで結構! まずは、その翼を砕くっ! ……っう!?」  真に恐るべきは、一度潜行したグラン・ミラオスが再び海面へと浮上すること。そして、タンジアの空へと舞い上がること。そうなれば、この超新星にも似た暗き炎は、その邪悪な業火で全てを灰燼と化すだろう。タンジアの港はサキネにとって、新婚旅行で僅か数ヶ月滞在しているだけに過ぎない。チヨマルを連れて退去することが賢いとはわかっている。だが、それは彼女にとって小利口、小賢しいのだ。生まれついてのモンスターハンターであるサキネに、大自然の脅威から逃げ惑う人を見捨てられはしない。  まして、目の前で吼えるのは、大自然の摂理の代行者であるかのように振る舞う太古の邪神。  退かぬ理由はすなわち、挑む意味と同義であった。  だが、彼女が大上段から放った豪剣が硬い肉質に弾かれる。 「ば、馬鹿な! 炎剣リオレウスが……欠けた、だと……!?」  今まで数多の強敵を切り倒してきた愛剣が、その中ほどから欠けて刀身にヒビを走らせている。そして、圧倒的な硬度がぶつかった衝撃にサキネの手は痺れた。 『愚行、ここに極まれり……煉獄の炎を前に、貴様の剣など火遊びに等しい』 「くっ……だが、退けぬ! 退けぬのだ! 絶対に私が守る!」  砥石を当てる間も惜しんで、再び目の前の巨大な翼へとサキネは剣を突き立てる。弾かれても弾かれても、その都度跳ね返ってくる剣に願いを込めて打ち込んだ。仲間達と共に素材を集め、仲間達と共にあの雷神ジンオウガをも降した名刀である。未だ火竜リオレウスの息吹を残すその剣を今、全力でサキネは振るった。悲鳴を奏でてキラキラと刃を零しながら、炎剣リオレウスが小さく爆ぜる。 『そんな攻撃では揺るがぬ! 我が本体であるこの星龍、祖なる龍の血筋こそが最強の証!』 「……それは、どうかな。この私がなんの考えもなく剣を振るっていると……思う、なああああっ!」  跳ね返ってくる剣の反作用を両腕で吸収して、サキネはそのまま全身を捻って力を澑める。  海流に黒い髪をなびかせながら、ゆらり浮かんだサキネの目が、カッ! と見開かれた。 「一意専心、一撃必殺っ! チェス、トォォォォォォォッ!」  振り下ろした一撃が金切り声をあげてグラン・ミラオスの翼を切り裂いてゆく。  その時、今まで全てを見下し睥睨していたエルグリーズの目に驚愕の色が浮かんだ。 『馬鹿な……なんたる蛮剣。おぞましい!』 「まだまだああああっ! 焼き裂け、私の中の火竜っ!」  一気に振り抜かれた炎剣リオレウスが、無数の爆炎を咲かせてグラン・ミラオスに炎傷を刻む。  縦一文字に切り裂かれたグラン・ミラオスの翼、その片方から光の炎が消え失せた。 「さあ、次は左の翼、そして本体だ! 平和を焦がす黒い炎は、私が全て消してみせる」  砥石を取り出し武器を研ぎながらも、振り返ったサキネは見栄を切る。だが、威勢の良さとは裏腹に、炎剣リオレウスの切れ味が万全の状態で戻ってくることはない。それが震える手に痛いほど痛感できて、サキネはほぞを噛んだ。だが、燃える身体に宿る意思は意気軒昂、裂帛の気迫が全身に漲る。  見上げれば僅かに揺れた巨体の上で、御使たるエルグリーズが身を畳んで俯いているように見えた。  目に見えて動揺している、ダメージを感じている……だが、それは甘い幻想。 『クッ、クハハ! ハハハハハ! 愚か、これが愚かと言わずにいれようか』 「なにっ!」 『さあ羽撃け、我が龍威よ! 獄炎の翼で全てを焼き払い、今こそ定命種を滅せよ!』  その時、たった今サキネが部位破壊した翼に再び邪悪な炎が灯る。先ほどにも増して両翼からマグマが吹き出し発光し始めた。  真っ赤な双眸に紅蓮を灯して、災異の権化と化したグラン・ミラオスの翼が大きく海をかき乱す。 「くっ、再生した!? ……空の下へはいかせな――」 『消えるがいい。汝の愚剣、なかなか面白い余興であったわ』  その時、グラン・ミラオスの顎門が大きく開かれる。奈落の深淵にも似た喉の奥から、煌々と周囲を照らす光がせり上がってきた。  光が走った。  閃光で海の闇を染め抜いて、真っ白な世界を突き抜ける、爆光。  咄嗟に直撃を避けたサキネだったが、海底の岩盤に達した光は巨大なドーム状の爆炎を広げる。咄嗟に剣でガードし、腹部をさらに手で守ったサキネだったが……膨れる炎に飲み込まれた瞬間には、一瞬だけ意識が飛び去った。  彼女が手放した意識が再び肉体に戻った時、サキネは雨に打たれて海面を漂っていた。  海底爆発ではじけた海水が降り注ぐ空から、巨大な翼を広げたグラン・ミラオスが降りてくる。 「くっ、浮上を許したか……う、うう……身体が、動かない」  グラン・ミラオスが再び着水すると、波が荒れて漂うサキネを乱暴に洗う。全身を覆っていたリオレウスの甲殻と鱗は、木っ端微塵に砕けていた。既に防具を失ったその手には、中程から断ち割られた剣が虚しく握られている。 「う、動け……今、この瞬間だけで、いい……港を、チヨを……この子を、守らせて……動けえええ!」  喉から絶叫が迸る。だが、体温を奪われてゆく身体は指一本動かせない。  痛みに身悶えながらも懸命に余力を絞り出そうとして、気付けばサキネは泣いていた。 『クハハッ! いい声だ……人の世の終わりを初めるに相応し。さあ、淘汰を再開しよう』  ザバザバと波をかきわけ、グラン・ミラオスが陸地を、タンジアの港を目指す。  それを首だけ巡らせ見送るサキネは、視界が滲んで歪む中に一隻の船を見た。船首に撃龍槍を装備した狩猟船だ。その舳先に今、黒い太陽を見据えて睨む月光の輝きがあった。 「あ、あれは……ナルガクルガの防具、なのか? あの色は……」 『ムッ! ……ほう? 定命種共がようやく動き出したか』  だが、腕組みグラン・ミラオスを見上げる月光の狩人は、背の大剣へ手をかけ、エルグリーズの言葉を遮った。 「遅い? そうだろうさ、遅かった……だがっ! 遅過ぎはしないはずだな、エルッ!」  その女は、背の大剣を手に取った。分割されていた刃が変形して合体し、獄狼竜の龍毛と龍殻を束ねた剣が天を衝く。  ナルガクルガ希少種の防具を身に纏い、モガの村のハンター頭は助走をつけて船の舳先を走り出した。 「一つ教えてやろう、エルッ! その女が弱いのではない……惜しむらくは、武具の限界! そして私のこの剣はっ!」  跳躍、黒煙に煙る空へと舞い上がったのはルーンだ。以前、武器防具を失った彼女は今、より強力な武具に身を固めている。その輝きはG級……人知れず彼女が一人旅して得た新たな力。そしてそれは、なにも彼女だけではなかった。 「姉者が跳んだ、急速回頭である! 面舵いっぱい、要救助者を救えええええい!」 「ヤッシーさん、そこ邪魔です。決めポーズ取るだけなら後でやってください、後で」 「ぬううう、アニエエエエス! ……とりあえず、すまん。ノエルはどうした」 「臨時のベースキャンプにオルカさん達の防具を運んでます。新しい防具……G級のヘリオスXを」  サキネの前に滑り込んだ船から、浮き輪が投げ込まれる。  同時に、絶叫が空気を震わせ衝撃が突き抜けた。  先ほど跳躍したルーンの、乾坤一擲の剣が真っ向からグラン・ミラオスの芯をとらえたのだ。 『ぬううう、人間っ! もしやその龍属性、封龍剣!? お前もまた封龍士……!』 「否っ! 私は、私達は……モガの村のハンター! モンスターハンター、だあああああっ!」  深々と直上からの一撃で抉ったルーンは、握る狼牙大剣より辺獄の痛みを刻み続ける。手首を返して今度は、そのままVの字に切り上げて空へと天駆。絶叫と共に大きくグラン・ミラオスの巨躯がよろめいた。  暗黒の雲が低くたれこめる空へと、反撃の狼煙がたからかに血煙で昇った。