エルグリーズは夢を見ていた。  紅蓮の炎に閉じ込められた、緋色の悪夢だ。揺らめく炎の向こうで、親しい者たちが灼かれて倒れてゆく……倒れては立ち上がり、その都度また傷つき倒れてゆく。その光景を見せつけられるエルグリーズは、目を閉じることも悲鳴をあげることもできなかった。  その夢は今、終わりを迎えたのだ。 「……オンブウオのカレー! あ、あれ? 夢でしたかあ」  ――悪夢を見ていた、筈だ。  それでもエルグリーズは、薄闇の中で寝台に身を起こす。全裸で寝かされていたようで、かけられた毛布がずり落ちた。  そして彼女は、枕元に座り込んで船を漕ぐ人影に気付いた。 「あ、遥斗……遥斗! 無事でし――」  絶句。思わず抱きつこうとして立ち上がったエルグリーズは、その場に固まり萎縮してしまった。  椅子に腕組み座る遥斗の身には、痛々しい無数の包帯が血に染まっていた。その顔も肌も、汚れた包帯の白が覆っている。見るも無残な姿で寝息をたてる遥斗が、寝ずの番でずっと付き添ってくれていたことは想像だに難くない。エルグリーズにもそれぐらいはわかるつもりだ。 「あ、ああ……遥斗。そうだ、思い出した。エルは、エルは」  エルグリーズの脳裏に、凄惨な激闘の全てが思い出される。  同時に、自分がナニモノであるかも知らされた……否、思い出された。  エルグリーズという人間は存在しない。そもそも、人間ではない。彼女は、三獄の星龍最強の一角、黒龍種の局地戦用強化個体たるグラン・ミラオスの化身……その龍躰を制御するためのコアそのもの。そして、エルグリーズは破壊と淘汰のために生み出された、グラン・ミラオスの擬似人格だったのだ。  遥か太古の昔、本体の休眠と同時にエルグリーズは生み出された。  硝子の柩に眠る殺戮の本能が、エルグリーズというシークモードを生成したのだ。  しかし今、グラン・ミラオスは倒され、その精神は天へと還った。残されたのは、虚ろな魂……穢れも知らなければ愛もわからない、ただ異形の肉体を維持するだけの擬似人格。それがエルグリーズ。  そのことが今、エルグリーズには完全に理解できた。 「遥斗……こんなにボロボロで。これは、全部エルが……!」  そっと震える手を伸べた。  しかし、触れる直前に迷いがその手を引っ込めさせる。  エルグリーズは遥斗に触れたい手を胸に抱き、静かに首を横に振る。 「……駄目です! 遥斗にはもう、エルは……だって、こんな遥斗にしてしまったのは」  エルグリーズは静かに寝床を抜け出すと、遥斗を優しく抱きかかえる。そしてベッドへと寝せて毛布をかけると、周囲を見渡した。  夜の帳が包むここはどこだろう? 見たこともない部屋にしかし、遠くから潮風に乗って聴き慣れた歌が聞こえた。どこかで誰かが歌っている、それは勝利を祝う宴の歌。  エルグリーズはその歓喜に湧く響きから逃げるように、部屋のカーテンを引き千切った。  顕になる窓の外には、明るい月夜に黒煙が立ち昇る。見ればここはタンジアの港……グラン・ミラオスに襲われた被害は甚大で、今もそこかしこで火が燻っていた。だが、それよりも煌々と灯るのは、祭りの明かり。勝利に酔いしれる歓喜の叫びと踊りは、あちこちに巨大な篝火を燃やしていた。その炎は今、エルグリーズの深紅の瞳にゆらゆらと揺れる。  だが、もう知ってしまった……自分が、あの灯火を破壊するために生まれた存在だと。  エルグリーズはカーテン一枚を身に纏うと、その下に裸体を隠して一目散に部屋をあとにした。  一度だけ振り向いたその目に、遥斗の寝顔を焼き付けて飛び出した。 「エルは……エルには今、こうするしか。ううん、違う……こうしなきゃです!」  そこかしこに古龍の暴れた爪痕が痛々しい。そんな街中はそれでも、生き残った者たちを讃える歌に満ちていた。  それは、エルグリーズも日頃口ずさんでいたモガの村の歌だ。潮風に吹かれて荒波と共に生きる、孤島の民が毎日歌って過ごす歌。  ――新しい風が吹いて、笑ったり泣いたり、歌ってみたり……閉じていた心開いて――  潮風のハーモニーを気付けば、エルグリーズも口ずさんでいた。忘れ得ぬ美しい夢を胸に抱いて。  その頬を濡らす涙を拭うのも忘れて、歌いながら人並みに逆行して港を目指す。すれ違う誰もが、去った絶望と守った希望を口々に囁き合う。誰もエルグリーズの姿を気にもとめなかった。  ……擦れ違う一人の青年以外は。  そうしてエルグリーズは、活気を取り戻す街とは対照的に、静まり返った港へとやってきた。  海面に巨大な月を映して揺らす、タンジアの湾内は凪いだ海が煌めいていた。 「何か手近な船は……あ、あれがいいです! エルならこれでも、海を渡れる。えっと」  とても小さなボートが一隻、係留されて揺れていた。  それに飛び乗り、食料も水も積まずにエルグリーズは帆を張る。櫂を握る手はまだ震えて、自分のこれからしようとしていることへの恐れを無言で語っていた。そう、怖い……恐ろしい。大恩ある仲間たちへの、恩の返し方が一つしか思いつかないことが。愛して命を賭けてくれた人の、その愛がわからないことが。  いてもいいと許される場所から、なすべきことのために飛び出す自分自身が怖い。  その時、声が走った。 「……エル、行くのかい?」  岸壁へと結ばれたロープの先に、一人の青年が包帯姿で立っていた。  彼はまるで、その舫を解くことを防ぐように立ちはだかる。 「あっ! オ、オルカ……」 「どうしてかな、そんな気がして。泣きながら走るエルを見かけてしまったものだから」 「……え? あ、あれ? ほんとだ、エル泣いてる……や、どうして」 「人は悲しい時は泣くんじゃないかな。別に驚くことでもないけど、俺が驚いているのは」  そう言ってオルカは、手にしたマントと衣服を投げてきた。  受け取るエルグリーズは不思議そうな顔で青年の顔を見詰める。オルカもまた怪我だらけで、上半身は包帯という名の白しか羽織っていない。それはところどころに鮮血を滲ませ、彼自身の命を真っ赤に主張していた。  オルカは穏やかな表情で静かに言葉を選んでエルグリーズに語りかけてきた。 「遥斗のそばに居てはやれないのかい? 彼は、命懸けで君を救い出したんだけど」 「そ、それはっ! ……駄目、です」 「君が人間じゃないからかい?」 「それも、あるです、けど」  しどろもどろに俯くエルグリーズに、射るような言葉が突き刺さる。 「逃げるのかい、エル。自分を受け入れてくれる場所からも、自分自身からも」  淡い月光の中で、エルグリーズの視界が真っ暗になる。  だが、彼女は顔をあげるとへらりと笑った。 「逃げてるだけかもしれません、でもっ! エルには、やることができたですっ」 「やること? それは、遥斗の気持ちよりも重いものかい?」 「わかりません! でも……エルは、ほかにやり方がわからないのです。遥斗のためにできること、一つしか」  そうしてエルグリーズは、まっすぐオルカを見詰めて決意を放つ。 「エルが破滅の古龍をやっつけます。メインの人格が失せた今、エルにはわかるです……地の底にとぐろを蒔く凶厄が」 「奇遇だね。俺も知ってしまった。あの封龍剣は砕ける間際、天へと還る英霊を介して語りかけてきたから」  二人は知っている……二人だけがこの世で知り得ている。  今、この星の奥底に終焉が眠っていることを。  かつてこの惑星一つを守るために、人類を根絶させんとする力が生み出された。図らずもそれは、人が人を淘汰するという悲劇だったのである。星より力を吸い上げる古塔が生み出され、世界はひとつの回路で繋がった。いわば、この星自体がひとつの命として覚醒したのだ。それを統べる祖なる翼は……最悪の終末に備えて、最凶の古龍を生み出してしまったのだ。  その存在を知るのは、エルグリーズとオルカだけ。  だからエルグリーズはゆくのだ。 「遥斗のためならエル、頑張れますっ! それはきっと、エルにしかできないから」 「俺たちを頼ることもできるはずだ。君は人間を知って、人の手で戻ってきたのだから」 「それができたらきっと……でも、これ以上遥斗が、みんなが傷つくのはいけません! 駄目ですっ!」  エルグリーズはぶんぶんと頭を振ると、さやめく笑みでオルカを見上げた。 「エルはいきます……ブチ当たる悪い古龍は全てやっつけます! そのために今、この力を使うです」 「龍の欠片で龍を討つ、か。じゃあ、覚えておいて欲しい、エル」  オルカは溜息をこぼしつつ、足元に結ばれたロープを紐解いた。 「君が龍の力で龍を討つなら、俺は、俺たちは……人の力で龍を狩る。誰かのためじゃない、自分たち全員のために」 「……そうしてください、オルカ。その、全員のみんながエルは大好きです! 遥斗もその中に、いるですね?」 「ああ。君もいていいのに。だから約束しようよ。龍と人、違う道を歩んでも……いつかまた逢うと」  エルグリーズは微笑みで応えて、なにも言わなかった。  言えなかった。  ただ、黙って月夜へと漕ぎ出す。祝の歌をはらんだ風を帆に受け、魔女は滅龍の戦いへと旅立った。